星 周作 Blog

★ 福岡より〇〇をこめて  ★

義認 → 聖化 → 栄化(その①)

タイトルの「義認→聖化→栄化」のうち、まず、「義認」ついて考えたいと思いますが、その前に、皆さんに次の質問をします。

創造主(神)は、どんな御方でしょうか。

次の3つの中からお選びください。

(1)創造主(神)の全人格のうち10%が聖い

(2)創造主(神)の全人格のうち50%が聖い

(3)創造主(神)の全人格の全て100%聖い

 

愚問でしたが、未だ創造主(神)を知らない、または信じていない人でも「神」をイメージするとすれば、神の全人格が100%聖い御方であることを望むでしょう。

そうなのです。聖書が教える「神」である創造主は、完璧に聖い御方なのです。

 

続いて、次の仮定を想像してください。

日本の総理大臣Aがいます。ある日、国会議員でもなく総理大臣の知人でもない一般人のBがA総理大臣に面会を求めて来ました。

A総理大臣はすぐに面会するでしょうか。聞くまでもないことですね。

仮に、面会が可能だとしても様々なハードルをクリアし様々な手続きを経た後でなければならないでしょう。

また、別の一般人のCが「俺はAを総理大臣とは認めない。ただ、俺と面会してくれるんだったら総理大臣と認めてやる。」と言います。

当然A総理大臣はCの要求を一笑し無視するでしょう。

 

このように人間社会であっても、一般人が総理大臣にコンタクトすることは容易ではありません。

 

よく無神論者が「神が俺の目の前に現れてくれたら信じる。」と言ったりしますが、言いたい気持ちはわかりますが、実は傲慢な要求なのではないでしょうか。

つまり「俺の目の前に現われたら信じてやってもいい。」と言ってるも同然なのです。

 

つまり、私が言いたいことは、人間社会でも総理大臣に容易にコンタクトすることができないのに、万物の中の一被造物にすぎない人間が、天地万物を創造した偉大な御方であり完璧に「聖」である創造主(神)に気軽にコンタクトできるわけでもないし、人間の要求に応じて現れる必要もないのです。

 

ここで、次の聖書箇所をご覧ください。

ローマ人への手紙3:9~12
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10節以降はパウロ旧約聖書詩篇14:1~3を引用して語ったものですが、人間は例外なく一人残らず罪人であると言っているのです。

詩篇14:1~3
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万物の中の一被造物に過ぎず、かつ、罪人の人間が、完璧に「聖」である創造主(神)に気軽にコンタクトなど出来るはずはないのです。

 

しかし、創造主(神)は「いけにえの血」と祭司制度を設けることによって、人間とのコンタクトの道を備えてくださったのです。

つまり、祭司の中でも大祭司が動物の「いけにえの血」によって人間の罪の贖いをして初めて神殿(神殿が造られる前は幕屋)の至聖所に入ることが許され、創造主(神)とコンタクトできたのです。

<注>「至聖所」はエルサレムの神殿の最奥部に位置する最も神聖な区域。

 

このように創造主(神)とコンタクトできる道が開かれることになっても一人一人の人間がコンタクトできるわけでなく、大祭司だけだということが、主イエス・キリストがこの世に現れる前の旧約時代(旧約聖書の時代)の在り様だったのです。

 

新約時代(新約聖書の時代)に入り、主イエス・キリストが十字架にかけられて血が流され人間の罪が贖われることによって、大祭司だけでなく、主イエス・キリストを信じる信仰によって一人一人の人間も創造主(神)にコンタクトすることができる道が開かれることになったのです。これを「万人祭司(ばんにんさいし)」と言います。

 

何故、一人一人の人間が創造主(神)とコンタクト出来るようになったのか、それは主イエス・キリストの血の贖いによって罪人の人間が「義」と看做される(認められる)ことになったからです。

 

次の聖書箇所をご覧ください。

ローマ人への手紙3:23~26

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<注>25節の「なだめの供え物」とは、神の怒りをなだめるための「いけにえ」のことです。

26節後半に「エスを信じる者を義とお認めになる・・・」とありますが、イエスを「信じる」とは、イエスの何を信じるというのでしょうか。

このことについてパウロは次のように語っています。

コリント人への手紙第一15:3~5

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<注>5節の「ケパ」とは、イエスの弟子のペテロのこと。

 

私たちの罪のために死なれたこと、墓に葬られたこと、三日目に復活したこと」を信じることがイエスを信じるということなのです。

 

このイエスを信じる信仰によって罪人の人間である私たちではありますが、義と認められることになるのです。

これが「義認」なのです。

 今回はここまでですが、義認について引き続き次回も述べたいと思います。

 

↓ ↓ (その②)はこちらをクリック

hoshishusaku.hatenablog.com

 

 

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https://bible-seisho.jimdo.com/



★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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いけにえの血と贖い(その③)

(その②)の続き。

 

 

前回のブログで引用した聖句でも確認したように、創造主(神)ご自身が、牛や羊などの動物を欲しているのではなく、必要としているのでもありません。何故なら、いつでも創造主(神)は牛や羊を創造できるのであって、わざわざ、ほふられた(殺された)動物など必要としないのは当然なのです。

 

人間を愛してくださっている創造主(神)は、罪を犯した人間を直ちに罰するのではなく、人間の身代わりとして牛や羊の動物の「いけにえの血」をささげるという儀式を設けることによって、人間がいつまでも罪責感を持たないでいいように、のがれの道を用意してくださったのです。

 

ところで、聖書を本格的に読み始めた頃、読み進むうちに聖書が驚きの書であることを少しずつ実感することになりました。

この驚きの中には二つの驚きがありました。その一つは私が求めていた「真理」を書いている書という意味の驚きであり、もう一つは単純にこんなことがあるのかという驚きでした。

後者の驚きを感じた聖句の一つがヨハネ福音書1:1です。

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過去ブログでも紹介したのですが、内村鑑三はこのヨハネ福音書1:1を「世界最大のことば」と語っています。再度引用します。

「世界最大のことばは新約聖書ヨハネ伝第一章の第一節においてある。このことばより大なることばは論語にも、孟子にも、古事記にも法華経にも、プラトンにも、アリストテレスにも、ダンテにもシェイクスピアにも、ゲーテにもない。これ実に世界、いな、宇宙最大のことばであって、このことばこそ実に世に戴せ尽くすことあたわざるものである。」

 

私は主イエス・キリストが「ことば」であり天地万物を創造した御方であると記されていることに単純に驚きました。

 

そして、創造主(神)である主イエス・キリストが天から地に降りて、創造した被造物の人間と同じ体になって、自ら人間の罪の贖いのために十字架上で血を流されたことを知ることになった時は最大の驚きでした。

 

次の聖書箇所をご覧ください。

ピリピ人への手紙2:6~9

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ヘブル人への手紙12:2

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エペソ人への手紙1:7

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ヨハネ福音書19:17

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<参考> ゴルゴタラテン語では「カルバリ」といいます。

ロイ・ヘッション著の「カルバリの道」という本を既に購入しているのですが、読みたい本が多くて後回しになっています。近いうちに読みたいと思っています。

なお、聖書の中身を全く知らなかった頃は、マンガの「ゴルゴ13」の「ゴルゴ」がイエスが十字架につけられたゴルゴタの丘からヒントを得た名称であることを知っていた程度でした。

 

次にコロサイ人への手紙1:14~20をご覧ください。

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そもそも、創造主(神)でもある主イエス・キリストは、自ら創造した人間の罪の贖いのために、創造主(神)のあり方を捨てて被造物の人間として地上に来られて辱めを受けて十字架につけられるなどとするストーリーを人間の知恵で考えつくことでしょうか。

要するに、聖書が人間によって創作された作り話などと、私には到底考えることは出来ないのです。

聖書が真実の書であると確信します。

 

↓ ↓ 聖書の他の重要なテーマについては、こちらをご覧ください。

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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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いけにえの血と贖い(その②)

 

(その①)の続き。 

 

まず、マタイの福音書9:13に記されているイエスのことばをご覧ください。

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冒頭の「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」は旧約聖書・ホセア書6:6の引用です。

ホセア書6:6

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続いてイザヤ書1:11をご覧ください。

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このように、創造主(神)は、いけにえの動物の血が欲しいわけでも何でもないのです。

いけにえの動物の血は、あくまでも人間の罪を贖うためのものであり、人間のために創造主(神)が備えてくださった儀式なのです。

ただ、いけにえの動物の血は一時的に人間の罪を贖うことしか出来ませんでした。ですから何度も繰り返し動物をほふり(殺して)血を注ぐ必要があったのです。

これに対して十字架上で流されたキリストの血は、ただ一度だけで人間の罪を贖うことが出来たのです。

 

ヘブル人への手紙9:22~28をご覧ください。

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最後の28節後半の「二度目は・・・」の二度目とは、私たち人間を救うために主イエス・キリストが再度現れてくれることですが、これは「携挙(けいきょ)」のことを言っているのです。

 

↓ ↓ (その③・最終回)はこちらをクリック

hoshishusaku.hatenablog.com

 

「携挙」については、本年1月5日のブログ「復活と永遠のいのち(その5)」で書いているので、未読の方はこちらをご覧ください。

hoshishusaku.hatenablog.com

 

 

 

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・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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いけにえの血と贖い(その①)

 

早速ですが、本日のテーマに入ります。

まず、旧約聖書レビ記1:1~5をご覧ください。

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聖書は血生臭いから好きになれない、と言われる方がいたりします。

恐らく、旧約聖書の上記のレビ記のいけにえの血や新約聖書のキリストの血の意味することを知らないで、血だけをクローズアップして拒否反応を示しているのだろうと思われます。

 

「いけにえの血」と「キリストの血」について、3人のキリスト者の著書から引用します。

内村鑑三は次のように書いています。

旧約聖書は『真の物の模(かた)』である。神の子(イエス)をもって施されるべき完全なる救いをあらかじめ教えんがために、レビ記の示すがごとき、しかも精密なる儀式が行われたと見て、この書(レビ記)の価値が充分に認められる。まことに罪のゆるしは容易のことではない。『血を流すことなくしてゆるさるることなし』(ヘブル9:22)。ただ悔いただけでゆるさるるにあらず、ただ祈っただけできよめらるるにあらず、あるものが罪人に代わって血を流さねばならぬ。まことにいとうべき血なまぐさき教えである。ゆえにある人は聖書の宗教を称して『屠殺者の宗教』であるという。牛、羊、山羊、鳩、これらを神の前に殺してその血を流すにあらざれば、罪のゆるしとこれに伴うすべての恩恵はくだらないという。まことに無慈悲きわまる宗教であるように見える、されどもこれ人生の事実なるをいかんせん。神の子(イエス)が一点の罪なくして人類全体に代わりその罪を負いて血を流し、狂暴の死(十字架)につきたりと知って、信者各自の心の奥底に真の平安を覚ゆる理由はここにあるのである。」

 

続いてF・B・マイヤーです。

「犠牲のうち、全焼のいけにえ(燔祭・はんさい)について示されています。このいけにえは、全部焼いてささげるので、その名があります。すべてが焼かれるということは、全き献身を意味しています。人はこの祭を行なって、自らの献身の全きことを示したのです。そして、それは、やがて来るキリストの犠牲の死を預言するものでもありました。『キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました』(エペソ5:2)。まさに御子(キリスト)の御父に対する献身は完全無欠でした。」

 

最後にJ・I・パッカーです。

「贖い(あがない)とは償いをすること、違反を抹消すること、不正行為に対する賠償をすること、したがって離反した相手と和解し、引き裂かれた関係を修復することを意味する。聖書は、すべての人間が自分の罪に対する贖いを必要としており、しかも自分で自分の罪を贖うための力も能力も完全に欠いている者であると述べている。私たちは聖い神に対して罪を犯した。聖い神のご性質は罪を憎み、罪を罰することである。このような神に受け入られること、あるいは交わりを持つことは、贖いがなされない限り期待することはできない。私たちの最高の行いの中にさえ罪がある以上、罪の償いをしようとして私たちがどんなことをしたとしても、それは私たちの罪責感を増すか、状況を悪化させるだけである。・・・中略・・・私たち人間が神に対して罪を犯したにもかかわらず、創造者なる神は、私たちの罪ゆえに必要となった贖いをご自身で用意された。この驚くべき恵みが、新約聖書の信仰、希望、礼拝、倫理、霊的生活の中心である。・・・中略・・・神がイスラエルをエジプトから連れ出したとき、神は契約関係の一部として、『肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちの贖いをするのは血である。』(レビ記17:11)、傷のない動物の血を流してささげることを中心とする犠牲の制度を定めた。これらの犠牲は『象徴』であった(すなわち、それらは『予型』として将来に来る別のもの(キリスト)を指し示していた)。犠牲が忠実にささげられたときに、罪は事実上見のがされきたが(ローマ3:25)、罪を実際に消し去ったものは動物の血ではなく(ヘブル10:11)、『対型』である罪のない神の御子イエス・キリストの血であった。十字架によるキリストの死は、十字架以降に犯された罪ばかりでなく、十字架以前に見のがしてきたすべての罪をも贖った(ローマ3:25~26)。新約聖書が、キリストの血について言及するとき、それは常に犠牲(いけにえ)としての血である(ローマ5:9)。」

 

以上3人のキリスト者が語っているように旧約聖書レビ記に書かれている牛や羊などの動物の「いけにえの血」は、後に現れて十字架上で血を流されることになる主イエス・キリストの「型(かた)」だと言うことなのです。

 

イエス・キリストは人間の罪の贖いのために、ご自身を「いけにえ」としてささげてくださったのですが、キリストがリアルに登場する新約聖書だけでなく、未だキリストがリアルに登場しない旧約聖書を含む聖書全体が主イエス・キリストを抜きにしては意味をなさないものです。

 

内村鑑三は次のように語ります。

「聖書は一名これをイエス・キリストの伝記というてもよいと思います。その旧約聖書なるものは、キリストがこの世に生まれて来るまでの準備をのべたものであって、新約聖書は、キリストのこの世における行動や、あるいは直接にキリストに接した人の言行等を伝えたものであります。もし聖書の中からキリストという人物を取り除いて見るならば、ちょうど石橋より枢石(かなめいし)を引き抜いたようなものでございまして、その全体が意味も形象(かたち)もないものとなるだろうと思います。聖書の解し難いのは、文字のゆえではなく、また理論のこみ入っているわけでもなく、じつにキリストがその枢石である事がわからないからでございます。それゆえ、ひとたびキリストと彼の真意とがわかりさえすれば、聖書ほど面白い書は世の中にまたとなく、またこれほど読みやすい書はないようになります。」

 

つまり、「旧約聖書新約聖書」イコール「真理」イコール「主イエス・キリスト」なのです。

 

イエス・キリストを信じたからといって、キリスト者がお金持ちになったり、この世の成功者になるわけではありません。依然として、予期せぬ苦難が降りかかり、病に侵されることもあります。しかし、キリストを信じた後はキリストを信じる前とは全く異なり、苦難や病さえも別の意味を持ちはじめ、心に平安と歓びが満たされることになるのです。

私自身も個人的には困難な問題を度々抱えることになる人生を日々過ごしているわけですが、聖書の真理を知り聖書にのめり込む日々を過ごすことによって、主イエス・キリストにあって、苦難の中にあっても心は平安であり歓びに満たされている日々なのです。

 

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・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

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<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

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中村久子、知ってるつもり

記憶がおぼろげですが、20代半ばの頃に見たテレビ番組で両腕がない外国の女性が次のように言っていたことがいつまでも忘れずに心に残っています。

 

私は障害者じゃない。だって、なんでも出来るもの。

 

この言葉通り、番組では彼女が一人暮らしをしていて、高いイスに腰掛けて足の指で包丁を握って食料を切っている様子が映し出されたり、プールで見事な泳ぎを見せてくれていました。体全体をクネクネと動かして息継ぎもしながら見事に泳いでいるのでした。

 

確かに彼女が言うとおり、彼女は障害者ではないのだ、と私に思わせてくれました。

 

健常者である私は、人生の様々な場面で、あれは俺には出来ない、これも俺には出来ない、と自分の限界を定めていたことが恥ずかしくなり、自分自身の心のありように障害があったんだと気付かされたものです。

 

もう一人私が忘れられない女性がいます。

その女性は「中村久子さん」です。

20代後半の頃に勤めていた会社の社員教育の一環で外部の社員教育機関の研修に参加した際の最終日に講師が話した中村久子さんのことです。

 

幼い頃に両手と両足を失った彼女でしたが、想像出来づらいことですが、口を使って糸を針に通し、そして、縫い物をするのです。

講師の語りが実に上手く話しに引き込まれ、私だけでなく参加していた他の会社の社員の人たちも涙ぐんでいたようです。

 

一時期、社会人向けの資格試験の受験指導校に勤務し講師をしていた時に、この中村久子さんの話の感動を受講生の方々に伝えたくて予定の講義内容を早めに切り上げて、若気の至りとは言え恥知らずにも、この時の講師の話ぶりを真似て語ったりしました。

講義を早めに切り上げたにも拘わらず、クレームもなく、私より年上の受講生から「良い話を聞いた」と評価する声をいただいたり、食事を誘ってくれる方もいました。

もちろん、私の話が良かったわけではなく、中村久子さんの生涯に感動してくださったのであり、社員研修の講師の話し方をそのまま真似て語っただけのことでした。

 

今、振り返ると赤面もので、今だったら絶対出来ません(ああ~恥ずかしや)。

 

話は脱線しますが、この受験指導校があったのが福岡市中央区大名という場所なのですが、当時はまだそんなに人通りが多くはなく、今では「天神西通り」と呼ばれ多くの人で賑わっています。

この「天神西通り」から一歩入った場所に今ではラーメン界の巨人になっている「博多一風堂」の創業店がありました。ランチを食べるために創業(昭和60年)間もない頃の一風堂に初めて入った時に、今までのラーメン店のイメージとは全く異なる雰囲気を感じたものです。

記憶違いかもしれませんが、確か、ラーメン店らしからぬジャズが流れていたように記憶します。今ではジャズの流れるオシャレなラーメン店も珍しくないですが、その当時ジャズを流すラーメン店などなかったはずです。

ドンブリも今までのラーメン店にはないオシャレな器を使っていて、食べるとラーメンなのは間違いないのですが、それまで食べていたラーメンの麺やスープとは異なるものだったように記憶しています。味はもちろん申し分ないものでした。

この頃の店主の河原さん(力の源カンパニー社長)も若く、ラーメン界に革命を起こしてやろうというような意気込みと野望があったのではないか、と勝手に想像します。

 

脱線しましたが、話を戻します。

この中村久子さんのことを知ってから数年後に関口宏が司会するテレビ番組の「知ってるつもり」で中村久子さんが取り上げられ、食い入るように見たことが今でも思い出されます。

 

一昨日、もしかして、ユーチューブにアップされているのではと思い立ち検索するとアップされていました。

 

早速、視ましたが、改めて視て感じたのは、創造主(神)の愛でした。

 

何故、創造主(神)の愛を感じたのか、愛に欠ける私に「愛」を語ることは相応しくありません。

 

本日のブログはここまでにします。

 

中村久子さんのことを知らなかった方は、ユーチューブの「中村久子、知ってるつもり」を、ぜひご覧ください。

 

www.youtube.com

 

 

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★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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失われたアーク(聖櫃)

ゴールデンウィークの5月5日(土)に、借りていた本を返却しに福岡県立図書館に行ったのですが、隣接する筥崎宮(はこざきぐう)の参道で蚤の市(下の画像)が催されていました。

 

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古い物・レトロが好きで昔のある一時期よく色んな場所で開かれている蚤の市に出掛けたり、古物商の許可証を持っているので古物商業者だけが参加出来るオークション(古物市場)にも出掛けていました。

古い物好きと言っても、テレビ番組の「なんでも鑑定団」に出品されるような掛け軸や壺などの高価な骨董品には興味がなく、興味のない人から見ればガラクタでしかない古道具が私の好みです。

上の画像のような年代物の扇風機や黒電話の他に蓄音機、100年前のアメリカ製タイプライター、箱火鉢などそこそこの数のガラクタを持っていましたが、ある事情があって殆どを処分しました。

 

何も買うつもりもなかったのですが、「愛と誠」の映画パンフレットが珍しかったので購入し早速部屋に貼りました。

 

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奇遇というか購入した数日後にネットのニュースサイト(下の画像)を見ていると「愛と誠」の所在不明となっていた原画がネットオークションで400万円という高値で落札されたとありビックリでした。

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6月7日(日)にも同じ筥崎宮の参道で蚤の市が開催されますが、眺めるだけでも楽しめるので、何も買うつもりはありませんが(でも衝動買いが恐い)福岡県立図書館に行くついでに立ち寄ろうと思います。

 

下の画像の「レイダース・失われアーク<聖櫃>」の映画パンフレットは、ブックオフで買ったものです。

 

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ジョージ・ルーカス(製作総指揮)とスティーブン・スピルバーグ(監督)がタッグを組んだ作品「レイダース・失われアーク<聖櫃>」(1981年公開)は、それより4年前に公開されたルーカスの「スター・ウォーズ」(1977年公開)と同様に映画の面白さを存分に味あわせてくれた作品でした。

 

この映画を観た当時は、聖書知識が全くなくて、聖櫃(せいひつ)が本来持つ意味を全く知らずにいました。

もちろん、意味を知らなくても充分楽しめたのですが、聖櫃が聖書を読んでいることによって何であるかを知っていたらもっと楽しめたのかもしれません。

 

聖櫃とは、聖書の中では「神の箱」又は「契約の箱」として記されていて、主に旧約聖書で出て来ますが、新約聖書のヘブル人への手紙9:4では次のように書かれています。

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「契約の箱」と言われるぐらいですから、契約の二つの板が納められていたわけですが、これが、いわゆるモーセ十戒の創造主(神)の指で書かれた石板ですね。

次の聖書箇所をご覧ください。

出エジプト記31:18

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出エジプト記32:15~16

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出エジプト記を読んでいない方のために付け加えておきますが、この二つの石板は二度作られました。

最初に作られた石板はイスラエルの民が起こした「金の子牛事件」の際にモーセによって砕かれたのです。

出エジプト記32:19

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その後モーセが創造主(神)にイスラエルの民の罪の赦しを願った際に作られたものがこの契約の箱に納められたのです。

申命記10:1~2

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この金の子牛事件から再度石板が作られる一連のエピソードは私の好きな聖書箇所の一つです。

 

続いて、箱の中にはいっている「マナ」はイスラエルの民がエジプトを出て荒れ野を40年間彷徨した際に創造主(神)から与えられた食物ですが、恐らく栄養価の高いバランスの取れた食物であったのだろうと推定されます。

「マナ」について、昨年9月15日の当ブログ「与えたくてしかたがない」でも書いているので、未読の方はこちらもご覧ください。

hoshishusaku.hatenablog.com

 

次に「芽を出したアロンの杖」とは、モーセの兄アロンが所持していた杖のことですが、「芽を出した」という表現が面白いですね。

「アロンの杖」と書くだけでいいはずなのに、「芽を出した」とリアリティある書き方をしているところに聖書が作り話ではない、と私は感じるのですが、皆さんはどのように感じますか。

この芽を出すアロンの杖について民数記17:5~8で次のように記されています。

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アロンは大祭司ですが、昨年8月28日の当ブログ「聖書の妙な癖(パートⅢ)」で金の子牛事件と一緒に書いているので、未読の方はこちらもご覧ください。

hoshishusaku.hatenablog.com

 

尚、この「契約の箱」はヨシヤ王(紀元前609年没)の時代に関する旧約聖書・歴代誌第二35:3の契約の箱の記述を最後に、比喩的に用いられる以外に直接言及される部分はなく、失われた経緯についても不明である。このことから、失われた聖櫃(The Lost Ark)と呼ばれることもある(ウィキペディア)。

歴代誌第二35:3では、契約の箱は「聖なる箱」と記されています。

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(聖櫃を運んでいる様子)

 

キリスト教圏の欧米の文学や絵画等の芸術作品では、聖書記事のエピソードが必ずといってよいぐらい出て来るので、聖書知識があると、その作品の本来の面白さを楽しめることが出来るようです。

 

今、木彫をコツコツやっていますが、いずれ、銘木でヘブル語と日本語の文字で彫った2種類の十戒の木板を作りたいと考えています(何年後になることやら<笑>)。

 

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https://bible-seisho.jimdo.com/

 

★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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人を恐れるな! 主を恐れよ!

 

 

キリスト教徒でもない日本人の多くは、近親者が亡くなった時やその後何かの折に口にする言葉があります。

親を亡くした人は「お母さん(お父さん)が、天から見守ってくれている。」と口にし、配偶者を亡くした人は、「妻(夫)が、天から見てくれている。」と口にしたりします。

 

このように言う日本人の多くの家庭には、仏壇が置かれ位牌が置かれていますが、親を亡くした人が「位牌の中にいるお母さんが見守ってくれている。」とは決して言わないですよね。

 

また、キリスト教徒、イスラム教徒などでもない大多数の日本人が、自分自身が死んだ時に自分の霊が位牌の中に入るなどと思わないでしょうし、入りたいとも思わないでしょう、そして、ジメジメした真っ暗な墓の中に自分の霊が永遠に留まることを望んだりはしないでしょう。

 

つまり、キリスト教徒ではない大多数の日本人は、無意識であっても、位牌がただの板切れに過ぎないことを知っており、墓がただの石に過ぎないことを知っているのです。

 

しかし、日本人の昔からの慣習上の理由から、墓を建て、仏壇を備え位牌を置いて、その前で手を合わせ拝んでいるのです。

ただ置いているだけで拝むことすらしない人たちも多いようです。

また、拝む人も朝チョット手を合わせるだけであったり、法事の時に拝むだけだったりが実情のようです。

さらに、人によっては新築マンションの中に仏壇や位牌を置きたくない人もいるはずです。では、何故置くのか、昔からの慣習があるからということもあるのですが、親族の眼が気になるのです。もし、仏壇も位牌も置いてなければ親族から何と言われるかと恐れるからなのです。

 

大切に守っている仏壇にしろ、位牌にしろ、その後守る子孫がいなくなれば早ければ数十年後、遅くとも百年後、二百年後には確実に壊されて捨てられる運命にあります。

 

話は少し脱線しますが、ハンコ(印鑑)に「印相」があるなどとハンコ屋さんが言ったりするようですが、ハンコに手相のような相が本当にあるのでしょうか。

随分前にハンコ屋さんから直接聞いた話ですが、ハンコに相などはないとハッキリ言われました。ハンコ屋さんが言うには、高級なハンコが売れるように、悪く言えばハンコ業界がでっち上げただけというのです。

 

墓石も同様に墓石業界が高級な墓石が売れるように「墓相」などというものを考え出したのか、手相などと同様に占い師が墓相を編み出したのを墓石業者が乗っかったのが実情ではないでしょうか。

 

また、数か月前に福岡地方だけで放送されたNHKのローカル番組で「墓」の現状を一般視聴者を交えて討論する放送をたまたま視たのですが、殆どの参加者が自分が死んでも墓はいらないと言っていたのが興味深かったですね。

墓のいらない理由の多くは、自分の墓の煩わしい管理を子孫にさせたくないと言うものでした。その代わりに骨だけを納骨してくれる施設を捜すと言うのです。

それで、高齢化社会で今後死ぬ人が必然的に増える現状であっても、このような墓不要の人が多くなっているので、この番組に参加した墓石業者の方は、商売繁盛どころではなく経営が苦しくなっていると危機感を持っていました。

 

過去のブログに書きましたが、私は両親の位牌を叩き壊し捨てました。

イエス・キリストを信じる者として、偶像崇拝の対象の位牌を処分することは当然のことです。

 

しかし、主イエス・キリストを信じて直ぐに処分が出来たのではありません。何故出来なかったかと言うと、親族からの非難を恐れたのです。

つまり、「親の位牌を叩き壊して捨てるなど言語道断、バチ当たり者が」と言われることを恐れたのです。

これは、私だけでなく、多くのクリスチャンでも最初はそのようです。

 

ある時イエスが語られた聖句を思い出しました。

その聖句を思い出した時、主イエス・キリストに顔向けできない自分を悟り本当に恥ずかしい気持ちになりました。

その聖句とはマタイの福音書10:28(新改訳聖書)です。

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<注>「ゲヘナ」を新共同訳聖書では「地獄」と訳しています。

 

人を恐れるな、創造主(神)を恐れよ」ということなのです。

 

私は、「人」つまり親族の非難を恐れて位牌の処分をためらっていたのです。

この聖句を思い出させてくれた聖霊に感謝して、直ちに位牌の処分をすることができました。

 

そう言えば一時期「千の風になって」という歌が流行りましたね。

「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません、眠ってなんかいません。千の風に、千の風になって、あの大きな空を吹きわたっています。・・・・・」

何故、この曲がヒットしたのでしょうか。

歌詞とメロディーが素晴らしかったこともありますが、次のようなことも一因ではなかったでしょうか。

人前で口に出して言わないけれど、日本人の多くが実感として、自分が死んでも墓の中に自分の霊が永遠に入り続けることになるとは思ってないし、位牌の中に入ることになるとは特に思ってないから、と私は考えています。

 

皆さんはどのように考えますか。

 

結局、「仏壇そのものに」「位牌そのものに」「墓そのものに」にクリスチャンでもない大多数の日本人も死者の霊が宿っているとは思っていません、

つまり、「真理」があるとは考えていません。

ただ、昔からの慣習に従っているだけなのです。

もし、そこに「真理」があると信じているのであれば、朝チョット手を合わせるだけでなく、法事の時だけでもなく、毎日心を込めて拝むはずです。

 

前々回のブログでも書きましたが、次のことを今後も何度も書くことになるでしょう。

 

「真理」は創造主(神)から出たものだけである。

 

したがって、「私は道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)と語った主イエス・キリストのことばに耳を傾けるべきなのです。

 

「真理」は人を自由にします。

 

人間が作り上げた迷信などは、あくまでも、迷信であって「真理」ではないので、人を不安にし不自由にもします。

 

「真理」そのものである主イエス・キリストは次のようにも語っています。

マタイの福音書11:28~30
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<注>29節と30節の「くびき」とは、2頭の牛や馬などがそれぞれ別方向に動かないように首の上に取り付けた木の横棒のこと。

 

イエス・キリストを信じるということは「真理」に目覚めるということなのです。

「真理」は心に平安をもたらし、人の精神を自由にしてくれます。

 

↓ ↓ 聖書の他の重要なテーマについては、こちらをご覧ください。 

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https://bible-seisho.jimdo.com/

 

★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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