星 周作 Blog

★ 福岡より〇〇をこめて  ★

罪とは何ぞや(その②)

 

(その①)の続き。

 

前回のブログで引用した内村鑑三の文章の一文に「禁制の果物を食いし事、その事は小さな罪である。」とありましたが、禁制の果物である「善悪の知識の木」をアダムとエバが食べたことは本当に「小さな罪」だったのでしょうか。

 

筋金入りの進化論者のリチャード・ドーキンスも著書の「神は妄想である」の中で次のように書いています。

「原罪そのものは、『旧約聖書』のアダムとエバの神話から直接に由来するものである。彼らの罪(禁断の木の実を食べたこと)は、単なる叱責ですみそうな、軽微なものである。

 

創造主(神)の存在を知らない進化論者だから当然ですが、ドーキンス旧約聖書を神話だと考えています。

そして、禁断の木の実を食べたことは重罪ではなく軽犯罪だと書いています。

 

創造主(神)はアダムに「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:17)と明確に言われたのです。

 

アダムは永遠に生きることを前提に創造されたのですが、禁断の果実を食べたことによって、創造主(神)が言われた「ことば」通り死ぬことになり、アダムの子孫の私たち人類全体にも死が訪れることになったのです。

 

創造主(神)の存在を知っている私であっても、創造主(神)の人格の全貌を知ることは不可能ですが、少なくとも創造主(神)の「ことば」ほど重いものはないということは少しは理解しているつもりです。

イザヤ書5:11をご覧ください。

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創造主(神)の語る「ことば」と異なり人間が語る「ことば」にどれほど信頼を置くことができるでしょうか。

真に受けて信じたものの、「あれは、冗談だよ」「これこれの理由があって、あなたのためを考えて仕方なくウソをついたんだよ。」と、悪意がなくても人間がウソをつくことは日常茶飯事です。

 

つまり、人間の「ことば」に絶対的な信頼を置くことはできません。

 

しかし、創造主(神)の口から出た「ことば」には絶対的権威があり、私たち人間は、絶対的な信頼を置くべきなのです。

 

天地万物の創造は創造主(神)の「ことば」によって行われました。

ヨハネ福音書1:1~3

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創造主(神)の口から出た「ことば」には偉大な力があることを忘れてはなりません。

 

言い方はよくありませんが、創造主(神)の口から出た「ことば」を真に受けて信じなければなりません。

創造主(神)の口から出た「ことば」は、全て重いものであり、軽重はないのです。

したがって、禁断の果実を食べたことは「小さな罪」でもなければ「軽犯罪」でもなく、極めて重い罪だったことを認識する必要があると私は考えるのですが、皆さんはどう考えますか。

 

旧約聖書の記事の中で創造主(神)の「ことば」の重さを私が思い知らされたエピソードがあります。

サムエル記第二6:6~7をご覧ください。

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ウザという人が「神の箱」に触れたことにより死んでいますが、これはどうしてでしょうか。

民数記4:14~15に次のように記されています。

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つまり、「神の箱」など祭壇で用いられる用具は覆いが何重にもかけられ担ぎ棒を通されて、直接人間の手が触れないようにされました。

それは、「聖なるものを触れて死なないためである。」と創造主(神)は言われたのです。

「ことば」の重さに気付いていない人間は、「神の箱を触ったぐらいで死刑なんてヒドイ」と思うでしょう。

人間の「ことば」を真に受けると、その「ことば」にはウソがあったりするので、真に受けることに慎重さが必要ですが、創造主(神)の「ことば」には100%絶対に偽りはなく、そのまま真に受けなければなりません。

だから、私たち人間は創造主(神)の「ことば」に絶対的信頼を置くことができ、そして、従うことができるのです。

もし、「聖なるものに触れてはならない。触れれば死ぬことになる」と創造主(神)が命じたにもかかわらず、触れても死ぬことがなかったら、「あ~良かった。死なずに済んだ」と創造主(神)の寛容さに感謝することができても、その後に語られる創造主(神)の「ことば」を人間は侮り、創造主(神)のあらゆる「ことば」を軽く扱うことになりはしないでしょうか。

 

創造主(神)の一つ一つの「ことば」に人間が勝手に軽重の差をつけることになれば、主イエス・キリストは「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)と語った「ことば」に対しても疑いの心が芽生え、結局、信仰が揺らぎかねないことになるのです。

逆に言えば、創造主(神)の一つ一つの「ことば(聖書のことば)」に軽重がないからこそ「イエスを信じる者が永遠の命を持つ」(ヨハネ3:16)ことを確信することができるのです。

 

↓ ↓ (その③・最終回)はこちらをクリック

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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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罪とは何ぞや(その①)

突然ですが、世間ではセクハラが問題になっていますね。

セクハラという言葉がまだない時代に、中年の男性が女性のお尻を触ったら、女性が「止めてください」と言うと、常習者の男性がよく言う口癖がありました。

「触ったぐらいで減るもんじゃないだろ」

この男性は、もし、自分の妻や娘が同じ事をされ悔し涙を流しながら相談したときに、自分の妻や娘に「触られたぐらいで減るもんじゃないだろ、もっと触らせてあげなさい」と言えるのでしょうか。

セクハラ認識が極めて低い男性は、自分と接する女性が自分の妻や娘だったらと考えさえすれば、セクハラが何であるかを学習するまでもなく、どんな些細な性的なことも出来ないし、(自分だけが勝手に面白いと思い込んでいる、面白くもない)性的な冗談も厳に慎むのではないでしょうか。

 

「私は、隣人には優しく、ウソもついたこともない。罪とは全く無縁だ。」と内心自負している人がいます。

毎日欠かさず、仏壇の前で拝み、神社でも拝んで、善人たらんと努めています。

その証拠に、その人の日々の行動を見て、周りの人たちがその人を人格者であり善人だと評価しています。

このような人は決して珍しい人ではなく、私たちの身近に一人や二人はいるのではないでしょうか。

しかし、はたして、この人は罪人ではなく、正しい人でしょうか?

 

不倫、セクハラ、高齢者を狙った詐欺、暴力、殺人などが日々刻々と繰り返され、毎日のようにマスコミを賑わしています。

警察が把握している事件やマスコミに取り上げられるスキャンダルのように表面化していることだけでなく、未だ世間に知られずに表面化していないことも含めて全世界の全ての事件やスキャンダルな情報が毎日あなた一人だけに報告されるとしたら、あなたはこの人間世界をどのように捉えますか。

 

表面的・世間的には、聖人君子のように見えている人が、実は、不倫の常習者であったり、社会的地位のある人が援助交際やセクハラの常習者であったことなどが次々と暴露されている今日この頃です。

いいかげんウンザリして、この世に正しい人間がいるのだろうか、と疑問を持たざるを得ないかもしれませんね。

 

ところで、原罪という語は、聖書に直接でてくる語ではなく、キリスト教神学者アウグスティヌス(354年~430年)が作り出した表現ですが、私たち人間が初めから受け継いでいる罪のことだと説明されます。

そもそも、罪とは何でしょうか。

内村鑑三の著書に書かれているものが比較的分かりやすいので、恐縮ですが、いつものように引用(要約)したいと思います。

聖書に言うところの罪とは何であるか。その事がわからずして、聖書はわからない。罪とは、普通に、盗むこと、殺すこと、姦淫すること、偽りの証拠を立つることと思われている。しかしてこれみな罪であることは何びとも疑わないところである。しかしながら、これ、『もろもろの罪』であって、『罪』そのものではない聖書は前者(「もろもろの罪」)を称して『違法』と言い、後者を称して特に『罪』と言う。罪は多くではない、一つである。罪の罪があって、その結果として多くの罪(違法)があるのである。しかしてこの罪とは何であるかと言うに、それは『反逆(そむき)』であるのである。すなわち人が神に対して犯したる反逆の罪であるのである。しかして聖書が問題にしている罪は常にこの罪である。神がキリストにありて除かんと欲したまいしは、人類のこの罪である。ここに、すべての背徳、すべての苦痛の本原が存するのである。アダムとエバとが犯したりという罪はこの罪である。禁制の果物を食いし事、その事は小さな罪である。神はそれがために彼らとその裔(すえ・子孫)をのろいたもうたのではない。彼らが悪魔の教唆(きょうさ)に従い、神より離れて独り立たんとし、神に対する彼らの反逆の意を表せんためにこの禁を破りしがゆえに、彼らは神の楽園より追われ、世の漂流人(さすらいびと)となったのである。・・・中略・・・かくして始祖(アダムとエバ)の行為によって神と人との親子関係は絶えたのである。しかしてこの悲しむべき絶縁を称して、「人間の堕落」と言うのである。・・・中略・・・罪とは(神に対する)反逆である。・・・中略・・・イスラエルの民は、罪の罪たるこの反逆を犯してやまなかった。『彼ら(イスラエルの民)は、エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、主を怒らせた(士師記2:12)』と。忘恩に次ぐ忘恩、反逆に次ぐ反逆、選民の歴史は神に対するその反逆の歴史である。聖書が他の書と全く異なる点はここにある。・・・中略・・・預言者がしばしば言えるがごとく、罪はまことに姦淫である。人が神に対して貞操みさお)を破る事である。

 

尊敬する内村鑑三の著書に大きく影響を受け、その聖書解釈の多くの部分で賛同の意を表する私です。

ただ、上記引用文の中の「禁制の果物を食いし事、その事は小さな罪である。」に関しては、少し異なる考えを私は持っています。

過去ブログでも触れているのですが、次回、再度触れたいと思います。

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<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

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聖霊と三位一体(最終回)

(その⑪)の続き。

 

前回に続き、聖霊が神ご自身であることを聖書によって確認したいと思います。

まず、次の聖書箇所をご覧ください。

ヘブル人への手紙10:15~16

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16節は下記のエレミヤ書31:33を引用しているのですが、聖霊が主(YHWH・神)であると明確に記しています。

 

エレミヤ書31:33

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続いて、次の聖書箇所をご覧ください。

使徒の働き28:25~26

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26節は下記のイザヤ書6:9を引用しているのですが、聖霊が主(YHWH・神)であると明確に記しています。

 

イザヤ書6:9(新改訳聖書)

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<注> 「すると仰せられた。」の箇所を新共同訳聖書では「主は言われた。」と訳しています。

 

上記以外にも聖霊が主(YHWH・神)であると記している聖書箇所が数ヶ所あります(ここでは割愛します)。

 

結局、「わたしはある(Iam)」(出エジプト3:14)と表明された創造主(神)は、「父なる神」であり「子なる神」であり「聖霊なる神」でもある御方なのです。

一体である「父なる神」「子なる神」「聖霊なる神」が唯一の神です。

 

突然ですが、皆さんは雌雄同体の生物を知っていますか。

雌雄同体の生物がこの世に存在することが発見されたのは何時のことだったのでしょうか。

その存在を知らなかった人が、その存在を初めて聞かされた時には、雌雄同体が一体どういうことなのか理解できたでしょうか。

 

理解できないから、存在しないとはならないでしょう。

 

「神は霊」だと聖書は教えています(ヨハネ福音書4:24)。

私たち人間の知恵では霊の世界の全貌など知りようがありません。

 

天地万物を創造された創造主(神)の人間の知恵を遥かに凌駕する驚異の知恵と御業を人間の知恵では解き明かすことは不可能です。

 

結局、人間の知恵では本当の意味で霊である創造主(神)の実体を把握することなど不可能です。

 

理解できないからと言って三位一体を否定し、聖書を素直に読み取ることから離れて、イエス・キリストが神ではなく人間に過ぎず、聖霊が神ご自身ではなく神の活動力や影響力に過ぎないと解釈することは、霊の世界のことを無理やり人間の知恵のレベルに引き下げることではないでしょうか。

 

「三位一体」という言葉を抜きにして、聖書を素直に読みさえすれば、「父なる神」「子なる神」「聖霊なる神」が一体として存在することは明らかです。

 

当ブログは聖書初心者を対象に、聖書の細かいところまで立ち入ることを控えながら聖書のエッセンス(ポイント)を書いています。

三位一体について、まだまだ、書きたいことはたくさんありますが、今回は取り敢えずここまでにします。

 

最後に内村鑑三の言葉を2ヶ所引用(要約)して、三位一体の検討を終えたいと思います。

「ユニテリアン的信仰を文字どおりに解すれば、これ神の単一を唱えて、その三位一体を打ち消すところの信仰である。・・・中略・・・神は一位であると言えば、キリストは人であって神でなくなるのである。そして、神なる救い主を要求せざる信仰は、罪のあがないを要求せざる信仰である。・・・中略・・・神は一なり、人類はすべて兄弟なり、信仰はこれで尽きているとユニテリアン信者は言う。まことに簡単明瞭である。・・・中略・・・ユニテリアン教の主張は別にして、実際において、簡単なる信仰信条がはたして有効なるやは大なる疑問である。人生そのものが複雑であって、これは簡単に言い表すことのできるものではない。人生に神秘的方面がある。いかなる哲学もこれを説明することができない。ユニテリアン教は信ずるに易(やす)しといえども、人生の奥義に徹底せざる教えである。」

<注> ユニテリアン主義とは、キリスト教正統派教義の中心である三位一体(父と子と聖霊)の教理を否定し、神の唯一性を強調する主義の総称をいう。ユニテリアンはイエス・キリストを宗教指導者としては認めつつも、その神としての超越性は否定する。キリスト教正統派の中心教義を否定しているため、正統派キリスト教とは区別される(ウキペディアより)。

 

「三位一体の教義は道徳的教義であります。これを信じることによって人の人生観は全く一変します。これを拒みます時に彼の品性の変化は始まります。キリスト教のすべての教訓はこの教義と大きな関係をもっています。これを取っても捨ててもいいと思う人は、未だキリスト教は、三位の神を信じないでこの勢力を維持することはできません。私は私の聖書に照らしても、また私の理性に訴えてみましても、ことにまた私の実験的生涯に応用してみましても、主なる神は三位一体の神でなくてはならないことを信じて疑わないのであります。」

 

↓ ↓ 聖書の他の重要なテーマについては、こちらをご覧ください。 

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〈私の信条〉

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<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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聖霊と三位一体(その⑪)

(その⑩)の続き。

 

無教会者の私ですから、ある宗教団体の信者のように創設者の言葉や教義あるいはその宗教団体の幹部の聖書解釈を信じているのでもありません。

つまり、私の信じているのは、「人」が語る言葉ではありません。

 

私が、主イエス・キリストを信じる者が死後「復活」し「永遠のいのち」を生きると信じているのは、聖書に書かれているからというのはもちろんですが、何よりも、私が進化論のいうところの偶然にこの世に生まれた何処の馬の骨とも知れない者ではなく、天地万物の創造主(神)が間違いなく目的をもって私を創造し命を授けてくださったことを信じるからであり、主イエス・キリストの愛を信じるからであり、聖霊の内住を信じているからです。

つまり、私の信じているのは「三位一体の神」なのです。

 

本日は、「聖霊」が神の活動力や影響力に過ぎないものではなく、神であることを確認したいと思います。

 

もし、聖霊が神の活動力や影響力に過ぎないものであれば、聖霊に人格などないはずですが、本当に人格はないのでしょうか。

 

人格があると言えるためには、「知性」「感情」「意志」の3つの要素を備えている必要があります。

聖書は明確に聖霊が「知性」「感情」「意志」を備えている御方であることを教えています。

(1)聖霊には「知性」がある。

コリント人への手紙第一2:10

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知性をもつ者だけが、探究したり、調べたりすることができます。

 

ヨハネの手紙第一5:6~10

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御霊(聖霊)は真理です。

エスを神の御子であると証し(証明)することができるのも知性があるからです。

9節及び10節でイエスを神の御子であると証し(証明)された聖霊が神だとヨハネは語っているのです。

 

(2)聖霊には「感情」がある。

ローマ人への手紙15:30

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聖霊は憐れみや気配りのできない無感情な存在ではありません。

聖霊は私たち人間を愛してくださる御方なのです。

 

エペソ人への手紙4:30

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感情をお持ちの聖霊を悲しませるようなことがないように。

 

(3)聖霊には「意志」がある。

コリント人への手紙第一12:11

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キリストを信じる者に与えられる様々な聖霊の賜物は、適当に与えられるものではありません。

聖霊ご自身の意志によって分け与えられるのです。

 

ヨハネの黙示録2:7

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明確な意志によって聖霊が言われることを聞き、導きに従うことは、キリストを信じる者にとって非常に重要なことです。

 

以上が聖霊に人格があることが記された代表的な聖書箇所です。

上記以外にも数多くありますが、今後の皆さんの聖書の学びの中で掴み取っていただきたいと思います。

 

聖霊が神であることを今回は少し触れましたが(ヨハネの手紙第一5:9~10)、次回(最終回)「はさらに聖霊が神であることを探っていきたいと思います。

↓ ↓ (最終回)はこちらをクリック

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〈私の信条〉

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聖霊と三位一体(その⑩)

(その⑨)の続き。

 

前回、神には人間の考えるような「名」はなかったのではと書きました。

だとしたら、ある人たちが神の名を「エホバ」と呼んだり、「ヤハウェ」と呼んだりしているのはどうしてでしょうか。

順を追って検討したいと思います。

まず、出エジプト記3:14~15をご覧ください。

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<注> ペーパー版の新改訳聖書では、「主」は太字で印字されています。

」と記されている箇所は、旧約聖書の原語のヘブル語聖書では次のように記されています。ヘブル語は、右から左に読みます。

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ヘブル語では母音は表記されず(22字の)子音で表記します。

上記画像のヘブル語文字を欧文表記すると「YHWH」または「YHVH」などとなります。

いずれにしても、この四文字が創造主(神)の名を表すと神学者は考えているのです。

そして、この四文字をギリシア語で「テトラグラマトン(神聖四文字)」と言います。

 

イスラエルの民は、「神の御名をみだりに口にすることなかれ」(出エジプト記20章7節)との戒めから、この四文字の聖書箇所にくると「アドナイ」(日本語訳で「主」)」と読み替えました。

 

例えば、戦国時代に、ある書状の中に「豊臣秀吉」の文字が書かれている箇所を「豊臣秀吉」と呼ぶことが恐れ多いと考えた家来たちが「殿様」と読むと仮定します。

豊臣秀吉の「秀吉」を欧文表記すると「HiDeYoSi」ですが、ヘブル語のように母音を表記しないと「HDYS」ですね。

「HDYS」の表記を、長い年月「殿様」と呼んでいたらどうでしょうか。

いつのまにか、「HDYS」を何と呼んでよいか分からなくなりますね。

そこで、後代のある人が「殿様(ToNoSaMa)」と発音していた母音の「ooaa」を「HDYS」に挿入しました。

すると「HoDoYaSa」となり、以後多くの人が「ホドヤサ」と呼んだのです。

以上、例え話。

 

この例え話のようなことが、テトラグラマトン(神聖四文字)に起こったのです。

YHWH」または「YHVH」も長い年月が経つうちにイスラエルの民自身も何と呼んでいいか分からなくなったと神学者は解釈しました。

ところが、16世紀になってキリスト教神学者が「アドナイ」と発音していた中に含まれる母音を「YHWH」または「YHVH」に挿入させたらしいのです。

それが、「YeHoWaH」または「YeHoVaH」なのです。

YはJとも表記が可能らしく、そのようにすると「JeHoWaH」または「JeHoVaH」となります。

発音すると「ジェホワ」または「ジェホバ」、つまり「エホバ」なのです。

ということは、文語訳聖書にも採用されていた神の名「エホバ」は、明らかに誤読だということです(山本七平著「聖書の常識」より)。

 

では「ヤハウェ」はどうなのかと言うと、結論から言えば、正しい神の名とは言えません。

なぜなら、テトラグラマトン(神聖四文字)の母音が不明なのですから、「ヤハウェ」であろうが「ヤーウェ」「ヤハヴェ」であろうが全て憶測なのです。

 

前回、「(わたしは)ある」は、ヘブル語では「エフイェ(ehyeh)」と書きましたが、母音を除くと「hyh」です。

ここで、新共同訳・旧約聖書注解の一部を引用します。

出エジプト記3章14節(・・・わたしはある・・・)の神の言葉の理解は難しい。神名ヤハウェYHWH)が、ここで動詞hyh「ある、いる」と関連させられているからといって、語源的にこの動詞に由来するとは限らないが、両者を関連させる見解が今日広く採られている。」

 

私もテトラグラマトンYHWH」が動詞hyh「ある、いる」に関連すると考えます。

 

前回引用した内村鑑三の言葉にもあったように、神の名は「エホバ」「ヤハウェ」などではなく、「有りて在るもの」つまり、あくまでも「わたしはある(I am)」なのです。

今まで当ブログではエホバはもちろんですが、ヤハウェという言葉も書いてきませんでした。

それは、どちらも神の名とは私が受け入れることができなかったからです。

そして、極力「神」という語も単独で使わないようにして来ました。

「神」という語は偽りの偶像の神にも用いられるので、「創造主(神)」という書き方を多用しています。

私が、崇め、そして、賛美する御方は、天地万物を創造した「わたしはある(I am)」と表明した創造主(神)だけです。

 

聖書自体を信じるかどうか、聖書の創造主(神)を信じるかどうか、主イエス・キリストを信じるかどうかは、各人の究極的な自己責任であり、さらに、聖書の内容をどのように解釈するかも、自己責任であると私は考えています。

だからと言って、私は自分の都合の良いように解釈するつもりはありません。

聖書の文脈に沿って字義通り解釈して、そこから「真理」を掴み取りたいのです。

 

私のする聖書研究は、聖書からこの世の御利益(ごりやく)を得るためでも「成功法則」を読み取ろうとしているのでもありません。

興味があるのは「真理」のみです。

創造主(神)の名の検討についても、この姿勢に変わりはありません。

 

次回は、「聖霊」が神の活動力に過ぎないものではなく、神であることを聖書から確認したいと思います。

↓ ↓ (その⑪)はこちらをクリック

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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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聖霊と三位一体(その⑨)

(その⑧)の続き。

 

前回と同様に本日もイエス・キリストが神であることを他の聖句によって確認したいと思いますが、その前に神の「名」について検討したいと思います。

 

神を知らず、聖書を知らなかった頃、自宅にエホバの証人が訪問して来ました。

いつもは、話など聞くこともないのですが、その日は何故か聞く羽目になりました。

話の中で、神の「名」を知っていますか、と問われましたが、もちろん、神の「名」など知るはずはないし、興味もないと返事をしたように記憶しています。

ただ、エホバの証人が、何故「エホバ」の証人と名乗っているのか、この訪問で初めて知ることになったのです。

 

後年に聖書を読むようになって、文語訳聖書には神の名が「エホバ」と書かれていて、聖書関連の書籍などには「ヤハウェ」と書かれていることを知るようになりました。

しかし、出エジプト記3:13~15を初めて読んでからは、神の名が、「エホバ」や「ヤハウェ」どころか、そもそも神には人間の考えるような名などないし、神に人間のような名など必要もないのでは?と思い始めたのです。

出エジプト記3:13~15をご覧ください。

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ギリシア神話であれば「わたしの名はゼウスである」と著者は書いたでしょう。

 

聖書が神話や作り話であれば、「わたしの名はヤハウェである」と著者は書いたのではないでしょうか。

 

わたしはある」とは、奇妙で不可思議です。

しかし、私には、この一見すると奇妙な創造主(神)の返答が、本当は不可思議でも何でもなく、聖書の真実性を物語っているように思えてなりません。

 

「人間」という「名」の普通名詞は、他の事物と区別するためにありますが、「内村鑑三」という「名」の固有名詞は他の人間と区別するためにあります。

広辞苑では「名」について、次のように説明しています。

「有形・無形の事物を、他の事物と区別して、言語で表した呼び方。」

 

皆さん、次のことを想像してくれませんか。

人間のあなたという存在が、過去、現在、将来にわたって、この世界に唯一ひとりだと仮定した場合に、あなたに固有名詞の「名」は必要でしょうか。

 

他の事物など存在しない天地万物が創造される遥か以前から時を超えて存在する唯一の創造主(神)に、他の事物と区別するための人間の考えるような「名」などの必要性はなく、無意味なのではないか、とわたしは考えています。

 

天地万物の上に超然として存在される創造主(神)は、他の事物の存在に関係なく存在するのですから、「わたしはある」とお答えになったのは、極めて妥当な答えだったのではないか、とわたしは考えています。

 

神学者や牧師でもなく、そして、あらゆる教会(宗教組織)に属していない無教会のキリスト者に過ぎない私は確かな答えを見い出すべく様々な文献を当たり研究しましが、結局のところ私は神には人間の考えるような名はないのではないかと考えるようになりました。

ところで、無教会主義の内村鑑三は次のように書いています。

出エジプト記はもちろん哲学書ではない。これは単純なる歴史である。ゆえにモーセのこの問いに対して、わが名はエホバであるといえばそれで事はすむのである。しかし、まことの神に名の付すべきものがない。日本の皇室に姓の必要なきがごとく、宇宙万物をつかさどる神に名のあるはずはない。もししいて名づけんとするならば、すなわち、「有りて在るもの」である。エホバというも実はかかる意味より出たのであろう。それがいつの間にか深き意味を離れ特殊の名のごとくに思われるようになったのである。」

 <注>「わたしはある」を文語訳聖書では「有りて在るもの」と記しています。

 

皆さんは、どうお考えになりますか。

 

再度、上記の出エジプト記3:14をご覧ください。

「(わたしは)ある。」はヘブル語では「エフイェ(ehyeh)」、英語では「アイ・アム(I am)」、ギリシア語では「エゴー・エイミー(ego eimi)」です。

 

次の聖書箇所をご覧ください。

ヨハネ福音書8:58

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新約聖書の原語はギリシア語ですが、イエスが言われた「・・・わたしはいる・・・。」が「エゴー・エイミー」です。

つまり、イエスご自身が自ら創造主(神)だと明かされているのです。

 

次回は、創造主(神)を「エホバ」と呼んだり、「ヤハウェ」と呼んでいるのはどういうことなのかを検討したいと思います。

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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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聖霊と三位一体(その⑧)

 

(その⑦)の続き。

 

前回、「主はただひとりである(申命記6:4)」「神は唯一です(テモテへの手紙第一2:5)」と記されている聖句を確認しました。

その一方で、「われわれとして、われわれに似せて(創世記1:26)」という聖句では神が複数存在することが読み取れる聖句も確認しました。

この創世記1:26の「われわれ」と記されている表現について、ある人たちは、「われわれ」と記されているのは、神が複数いるということではなく、ヘブル語文法の「尊厳の複数形」を用いていると主張します。

しかし、「尊厳の複数形」が用いられるのは旧約聖書が書かれた後の時代であって、旧約聖書が書かれた時代に「尊厳の複数形」が用いられた証拠はないようです。

<注>尊厳の複数形とは、欧州言語で国王などの高位身分にある者が自らを指す場合に代名詞を一人称単数でなく一人称複数を用いることをいう(ウキペディアより)。

 

聖書冒頭の創世記1:1で「初めに、が天と地を創造した。」と記されていますが、この「神」はヘブル語では「エロヒム」という複数形の男性名詞です。

そして、「エロヒム」の単数形は「エル」です。

聖書の中で「エロヒム」は、真(まこと)の神だけでなく、偶像の神々にも使われています。

真の神としての複数形の「エロヒム」は2500回ほど聖書に出て来ます。

したがって、神が複数いることが類推されるのです。

つまり、聖書は「神は唯一である」とする単一性と「エロヒム」のように複数性を教えているのです。

 

複数性を教えていると言っても、聖書は真の神が多数の4以上も存在するとは書いてはいません。

つまり、「父なる神」と「子なる神(イエス)」と「聖霊なる神」の3つの存在を記しているのです。

 

そこで、イエス・キリスト聖霊が神ご自身であるのかを検討していきたいと思いますが、まず、イエス・キリストが神ご自身であるのか、聖書から読み解いてみたいと思います。

 

すでに前回、ヨハネ福音書1:1の「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」を引用して、「ことば」であるキリストが「神」であると明確に聖書が記していることを確認しましたが、その他の聖句も確認したいと思います。

 

ヨハネ福音書20:28

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テトスへの手紙2:13

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ローマ人への手紙9:5

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この様に明確にイエス・キリストが神であると記しています。

神の存在を信じていない日本人が、一般人より優れた能力を持つ人間を不用意に、いとも簡単に「神業」とか「神の手(ゴッド・ハンド)」だとか言って囃し立てるのとは分けが違い、己自身に偶像崇拝を厳しく戒めている聖書記者が真の神以外を神と呼ぶことなどありえません。

イエス・キリストが間違いなく真の神であったからこそ聖書に記したのです。

 

続いて次の聖書箇所をご覧ください。

イザヤ書9:6

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旧約聖書の中に将来現れる救い主(メシア、キリスト)を預言する聖書箇所が幾つかありますが、その一つがこの聖句です。

「不思議な助言者」の不思議と言う言葉は日本語や英語の「ワンダフル(wonderful)」では様々な場面で使われる言葉ですが、ヘブル語では「ペレ(pele)」と言い、神にしか使われない言葉なのです。

因みに、出エジプト15:11では、イスラエルの民がエジプトを脱出した後にエジプトの軍隊から追われ紅海に来たとき、紅海を割って通り道を造った神の御業をペレ(日本語訳では「奇(くす)しいわざ」)と記しています。

「力ある神」は、文字通り神であり人間を指す言葉ではありません。

「永遠の父」は、生まれてくる御子が、ただの人間ではなく、人類全体の救い主の神であることを表しているようです。

「平和の君」は、生まれてくる御子が混乱や争いをもたらす御方でないことが分かります。

 

今回はここまでですが、次回もイエス・キリストが神であることを他の聖句によって確認したいと思います。

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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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