星 周作 Blog

★ 福岡より〇〇をこめて  ★

聖霊と三位一体(その⑦)

(その⑥)の続き。

 

今回から三位一体の教理について検討します。

 

三位一体は聖書自体に出てこない語でありキリスト教神学の中の特に難しい領域ですが、当ブログでは、私なりに理解した範囲で検討していこうと思います。

 

三位一体はラテン語で「三であること」を意味する「トリニタス(Trinitas)」に由来する語ですが(英語ではトリニティ・Trinity)、この言葉自体は2世紀のキリスト教神学者テルトゥリアヌスが発明した言葉と言われています。

 

父なる神、子なる神、聖霊なる神の三つの位格(ラテン語でペルソナ・persona、英語でパーソン・person)が一体とはどういうことでしょうか?

 

三位一体の教理は、ひとつの人格が三者の役割を演じているという概念(これを「様態論」という)ではなく、また、ひとまとまりになった三つの神々がいるという概念(これを「三神論」という)でもありません。

 

三位一体を定義すると「神は唯一の存在であるが、その単一の神格の中に、永遠かつ対等な三つの位格が存在する。この三つの位格は、その本質は同じであるが、その存在は別個のものである」ということですが、「ああ~そういうことか、よく分かった」と頷ける人は、まずいないでしょう。

 

アメリカの牧師であり神学者のロバート・チャールズ・スプロール(1939年~2017年)は、著書「三位一体とは何か」の冒頭で次のように書いています。

「三位一体という概念は、正統的なキリスト教にとって真理の基準、譲り渡すことのできない条項となっています。しかしながら、教会史を通して絶えず論争の基であり、今日に至るまで三位一体について混乱は続いていて、多くの人はこの概念について深刻な誤解をしたままです。三位一体という教理は、クリスチャンが信じる神は三人いるという意味だ、と思っている人々もいます。これは三神論の考えであり、教会はその歴史を通して三神論を断固拒否してきました。またある人々は、三位一体とは教会が抱え込んでいる矛盾だと見なしています。たとえば、私は哲学の博士号を持っている人と話したことがあります。その人はキリスト教を否定していましたが、その根拠は、三位一体は、キリスト教信仰の核心に『一が同時に三である』という明らかな矛盾があることを表しているから、ということでした。・・・中略・・・ただし、三位一体は神秘であり、それを十分に理解するには私たちの理解力が及ばないとしても、教会史に刻まれたこの有名な定式に矛盾はないのです。」

 

次の聖書箇所をご覧ください。

旧約聖書申命記6:4

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新約聖書・テモテへの手紙第一2:5

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旧約聖書・創世記1:26

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新約聖書ヨハネ福音書1:1~3

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「主はただひとりである」「神は唯一です」と旧約聖書でも新約聖書でも書いている一方、「われわれとして、われわれに似せて」「ことばは神とともにあった。ことばは神であった」とあり「ことば」であるキリストも神であった、とはどういうことでしょうか。

何とも奇妙で不可思議なことを書いていると感じるのは私だけでなく、これらの聖句を読んだ人は誰でも混乱したり、中には聖書の矛盾だと指摘するでしょう。

 

もし、聖書が小説のような作り話であれば、読者が混乱するような三位一体などという教理が生まれるような奇妙で不可思議なことを書く必要はなく、もっと分かりやすく、例えば、神は唯一であり、イエス・キリストは偉大であったが被造物の人間に過ぎず、聖霊は神の活動力であると書けば十分であったはずです。

 

しかし、聖書記者も「神は唯一」と書く一方で「われわれに似せて」と書く際に当の記者自身が誰よりも奇妙で不可思議なことと感じながら書いたのではないでしょうか。

ただ、真実であったからこそ、事実をありのまま御霊に導かれながら忠実に書くことに努めたに過ぎないのです。

 

私は、この奇妙で不可思議な聖句によって、さらに聖書の真実性を強く感じています。

 

↓ ↓ (その⑧)はこちらをクリック 

hoshishusaku.hatenablog.com

 

 

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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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聖霊と三位一体(その⑥)

(その⑤)の続き。

 

前回の終わりに書きましたが、現代のキリスト教のある教会では、意味不明の理解できない音を発する人たちがいて、これは聖霊に満たされたことによる賜物の「異言」だと主張します。

ブログやユーチューブで異言を話すことができると語っているクリスチャンがいますが、その異言だと称する意味不明の理解できない音を聞いた人には当然その内容を理解できないのはもちろんですが、当の本人すらも自分が何を言っているのか分からないと語っているのです。

 

クリスチャンにとっての最重要任務は何か。

 

エス大宣教命令に従い、世界の隅々まで福音を宣べ伝えることです。

 

エスの最初の弟子たち(使徒)にとって必要なのは、福音を正しく明確に語ることが出来る他国の言語であって、意味不明の理解できない音を発することではなかったはずです。

 

エスは「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレムユダヤ、サマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)と語りました。

意味不明の理解できない音を発することでは、イエスの証人となることなどできないでしょう。

 

しかし、ローマ人への手紙8:26を引用して反論する人もいるようです。

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つまり、天に祈るときは、「言いようもない深いうめきによって」という天の祈りの言葉を使うというのです。

「言いようもない深いうめき」を意味不明の理解できない音と解釈しているようです。

そして、意味不明の理解できない音であっても、天の祈りの言葉だから神様には理解できるということのようです。

 

私は、このように意味不明の理解できない音を聖霊の賜物の異言だと信じている方を批判するつもりはありません。

ただ、もし私が聖霊に満たされて異言が授けられることがあれば、主イエス・キリストの福音をより多くの人に正しく伝えることができる明確な言語が授けられることを求めたいと思います。

 

カナダの有名な牧師であり著述家であったオズワルド・J・スミス(1889年~1986年)の著書から一部引用(要約)します。

使徒たちの経験を求めずして、彼らの教えに従われよ。聖書の中に使徒たちの経験を受けよと書いてある所はどこにもない。むしろ彼らが記したところに従えと言われている。大切なことは、彼らがどんなことを経験したかではなく、彼らがどんなことを教えたかである。聖書の教えに頼る代りに他の人の経験をまねようとして、実に多くの人が道をふみはずしている。・・・中略・・・恐らくあなたは異言の賜物のことで悩まされているかも知れない。ペンテコステの日に初めて御霊が注がれた時と、それに続く二度(使徒の働き10章と19章)の場合に、何人かの者が一度に異言を語ったことが記されている。それ故に、使徒の経験をまねるべきであるとするならば、我々も彼らと同様に異言を語らねばならないように感ずるであろう。しかし彼らの教えに従うべきであるとするならば、これとは違った方向に導かれることになる。・・・中略・・・ここで私はペンテコステの日に異言の賜物が与えられたのは、福音を各国語で表現するためであったことを指摘しておきたい。彼らは純粋の国語を語ったのである。であるから色々な国の人が集まっていない限り、このペンテコステの恵みが繰り返して与えられるということはない。・・・中略・・・パウロは、異言の賜物は自己の徳を建てるためのものであるから、人に分からない異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために五つのことばを話したほうが良いと言っている(コリント人への手紙第一14:19)」

 

使徒たちが宣教を開始した当時は他国の言語を話す必要性が高いこともあり、使徒の働き2章に記されたペンテコステの日の聖霊降臨による異言と使徒の働き10章及び19章の計3回の異言の賜物が授けられたことは、まさに時宜を得たものであったのです。

 

しかし、現代では多くの言語で聖書が翻訳され、通訳者も多く、ネットでもクリスチャンが様々な言語で福音を伝えているので、異言の賜物の必要性は、全くないとは言わないまでも、少なくなっているのではないでしょうか。

ましてや、意味不明の理解できない音をクリスチャンが発する必要性はないと私は考えますが、皆さんはどうお考えになりますか。

 

次の聖書箇所をご覧ください。

コリント人への手紙第一14:33(新改訳聖書)

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新共同訳聖書では「神は無秩序の神ではなく」と訳されています。

神は混乱や無秩序をもたらす御方ではありません。

意味不明の理解できない音をクリスチャンに授けて、人間に混乱を起こすようなことはなさらないはずです。

 

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・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

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<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

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聖霊と三位一体(その⑤)

(その④)の続き。

 

今回は、「異言」について検討しますが、その前に、ユダヤ人の成年男子が年に三度エルサレムに出向き創造主(神)を礼拝しなければならない三大祭り(三大巡礼祭とも呼ぶ)のことが記されている聖書箇所を確認して置きたいと思います。

出エジプト記23:14~17

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15節の「種を入れないパンの祭り」はアビブの月(ニサンの月とも言う)とも呼ばれる春(3月~4月)に行われる祭りであり「過ぎ越しの祭り」を含みます。

16節の「初穂の刈り入れの祭り」はシワンの月(5月~6月)に小麦の収穫を祝う祭りであり、当ブログの3月27日でも触れたように「七週の祭り」あるいは「五旬節(ペンテコステ)」とも呼ばれる祭りです。

同じ16節の年の終わりの「畑から取り入れる収穫祭」は秋の祭り(9月~10月)でありオリーブやブドウなどの収穫を祝いましたが、後に「仮庵の祭り」と呼ばれるようになり、モーセに率いられてエジプトを出たユダヤ人が荒野を約40年間放浪した体験を記念している祭りです。

三大祭りには、世界各地から様々な言語(国語)を持ったユダヤ人が大勢集まって来ていたことを頭に入れながら、少し長くなりますが次の聖書箇所をご覧ください。

使徒の働き2:1~13

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五旬節(ペンテコステ)の日は、キリスト教にとって重要な日であることを当ブログの3月27日に内村鑑三の言葉を引用して説明しましが、再度引用します。

ペンテコステの日の聖霊降臨は二大事件を引き起こした。第一は使徒たちがその時から福音宣教者となったことである。第二にはエクレーシアすなわち教会の成立せしことである。」

 

マタイの福音書28:19~20及びマルコの福音書16:15に記されたイエスが命じた全世界への大宣教(エス大宣教命令)が、聖霊が降臨した五旬節(ペンテコステ)の日から使徒たちによってスタートしたのです。

マタイの福音書28:19~20

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マルコの福音書16:15

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当時、ローマ帝国のあらゆる地から五旬節の日にエルサレムに巡礼に来た大勢のユダヤ人に福音を宣教する絶好の機会と捉えた創造主(神)は、聖霊の賜物として異言を与えたのでしょう。

 

以上のことを踏まえ、皆さんは「異言」とは何だと考えますか?

 

言うまでもなく、異言とは、外国の各国の言語であることは疑いようがないですよね。

 

上記の使徒の働き2:9~11に記されているように、この箇所で少なくとも15か国の言語(アラム語ギリシア語、ラテン語など)の群衆がいたことが読み取れます。

 

エス大宣教命令に従って世界各地に福音を宣教するには、宣教地の国々の言語が話せることが必須です。

意味不明の分けのわからない発音(敢えて言葉とは書きません)では福音の宣教は不可能でしょう。

 

ところが、現代のキリスト教のある教会では、意味不明の分けのわからない発音をする人たちがいて、これは聖霊に満たされたことによる賜物の「異言」だと主張するのです。

この主張をどのように考えればいいのでしょうか?

次回検討したいと思います。

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<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

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聖霊と三位一体(その④)

 

(その③)の続き。 

 

今回は「御霊の実」について考えたいと思いますが、その前に、イエスが弟子たちに語った有名な御言葉をまずご覧ください。

ヨハネによる福音書15:1~5(新改訳聖書)

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2節の「・・・刈り込みをなさいます。」は新共同訳聖書では「手入れをなさる。」と記されています。

要するに、多くの実が結ぶためには枝の剪定(刈り込み)が必要なように、父なる神は信者がより多くの実を結ぶために訓練するということなのでしょう。

5節では、イエスは「・・・わたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。・・・」と語られましたが、どのような多くの実を結ぶのでしょうか。

パウロが語った次の聖書箇所をご覧ください。

ガラテヤ人への手紙5:22~23

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この聖句を逆に考えると、私たち人間は、天地万物の創造主(神)の存在を認めず、イエスを救い主(キリスト)と信じない間は、真の意味の「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という多くの実を結ぶことはできないのです。

天地万物の創造主(神)を信じて、イエスを救い主(キリスト)と信じて、はじめて、イエスがぶどうの木となり信者はその枝として、御霊(聖霊)が内住して御霊に満たされて、真の意味の「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という多くの実を結ぶことができるのです。

 

聖書を読んだことがない人でも、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」というイエスの驚くべき教えは知っているのではないでしょうか。

マタイの福音書22:36~39

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まさに驚くべき教えなのです。

自分自身のことのように隣人を愛することなど生身の人間には不可能です。

 

エスは不可能なことを無理強いしているのでしょうか。

 

いや、そうではないようです。

いつもの内村鑑三の言葉を引用(一部要約)します。

聖霊を受けることなくしては、福音を実際的に獲得し、かつその命ずるところを守ることは不可能である。一例を挙げて言おう。『おのれのごとく、なんじの隣を愛すべし』(文語訳・マタイ22:39)というは、主イエス・キリストが第二の大いなる戒めとして与えたまいしところである。この簡単なるキリスト教道徳にても、聖霊によらずしては完全に守ることを得ないのである。われら、あるいは地上において営まれしキリストのご生涯にならわんと努めて、この愛の戒めを実行しようとする。またはキリストを仰ぎ、その助けを受けて、人を愛そうと努める。あるいはまた未来に現れるべきキリストの栄光を待望することによって、愛の徳をおこなおうと努める。いずれもむなしい努力ではないが、これらによってはとうてい愛を有効的に実行することはできないのである。愛の実行を促すものは聖霊それ自身である。パウロは言う『そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』(ローマ人への手紙5:3~5)と。われらは聖霊によって直接愛を感じるのみならず、聖霊が直接にわが心に臨みて愛を注ぎたもうことを願わなければならない。かくして人に対する愛が実行し得るに至るのである。」

 

愛に欠けることを自認している私ですから、愛を語る資格がなく、愛を語るのは苦手です。

聖霊に満たされることを望み、ほんの少しでも愛を実行することができるよう祈りたいと思います。

 

次回は「異言」について検討します。

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私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

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聖霊と三位一体(その③)

(その②)の続き。

 

突然ですが、もし全人類が言葉をしゃべること以外はイヌと同じような動作しかできないと想像してください。

・・・

・・・

想像しましたか?

ところが、全人類の中であなただけが、イヌには出来ないクロールや平泳ぎの水泳をしたり、スケートやスキーをしたり、絵を描いたり、作曲をしたり、針の穴に糸を通したりといった本来の人間が出来る様々な細かい作業も出来るとしたら、あなたのしていることを他の人間はどのように感じるでしょうか。

イヌと同じような動作しかできない人間は自分と比較して、あなたの一つ一つの動作を奇蹟だと賛美しないでしょうか。

多くの人間は、様々な動作が出来ることを「当たり前」、食物を食べた時に美味しいと感じる味覚があることを「当たり前」、この世で生きていることさえも「当たり前」と思い込み、創造主(神)が私たち人間に授けてくださった多くの奇蹟の賜物に気が付くことがないようです。

鳩や雀はやすやすと空を飛び廻りますが、一羽の鳥以外は全てダチョウと同じで空を飛ぶことができないとしたら、鳥が空を飛べること自体も決して「当たり前」ではなく奇蹟であり、創造主(神)から与えられた賜物ではないでしょうか。 

 

さて、前回の続きに入ります。

エスを救い主(キリスト)と信じる者には聖霊が注がれますが、パウロは教会の信者(兄弟たち)に、聖霊の働きとしての「御霊の賜物」について、次のように語っています。

コリント人への手紙第一12:1~10

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クリスチャンであっても、上記の聖句にあるような奇蹟を行う賜物が授けられたわけでもなく、異言(いげん)を語ることもできないので、自分には「聖霊の内住」が感じられないという人たちが結構たくさんいるようです。

 

なぜでしょうか?

 

おそらく、ペンテコステの日のように聖霊が「炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった(使徒の働き2:2)」という経験を実体験したわけでもなく、真偽のほどは分かりませんが一部の人が言うような「体中を電気のような力強い流れを感じて聖霊が注がれた」、「イエスが夢に出てきて語ってくださった」、「まばゆいばかりの真っ白な衣を着たイエスが現われてくださった」というような劇的な体験をほとんどのクリスチャンはしていないからかもしれません。

 

前回も引用したアンドリュー・マーレーは次のように語っています。

聖霊の内住はまず何よりも徹底的に信仰によって認められなければなりません。たとい、信者がその働きの証拠をほとんど認めないときでさえも、信者は、静かに敬虔に聖霊がうちに住んでいることを信じるべきなのです。この信仰によって、信者は安心し信頼して、その働きを待ち望むべきなのです。その信仰によって信者は、断固として自分自身の知恵と力とを拒絶し、子どものような自己否認をもって、聖霊により頼みつつその働きを待つのです。その最初の働きは、この上なく弱く、ひそかであって、それが聖霊から来たものであることをほとんど認めることができないかもしれません。それは良心のささやきとか、聞きなれた聖句のひびきにすぎないと思われるかもしれません。このようなときこそ、信仰をもって主イエス・キリストのお約束と父なる神の賜物をしっかりとらえ、聖霊がうちにいまして導いてくださることを信じるべきです。信仰は、それがどんなにありそうもないように見えても、神についてのことがらを認識する私たちの霊的性質の能力です。どうか私たちが、父なる神がその御子イエス・キリストを通して与えてくださる唯一の賜物は私たちのうちに住んでおられる御霊であるということを信じる信仰を、さらに養い訓練することができますように。また、御子を、その人格もみわざも栄光も、すべてこの内住の御霊に帰着するのだと信ずる信仰を、さらにあつくすることができますように。」

 

「創造主(神)の存在」や「聖霊の内住」を認識するために劇的な体験を待ちわびるより、信仰によって認めるべきなのです。

 

前々回の「聖霊と三位一体(その①)」で引用した聖句を再度ご覧ください。

ヨハネ福音書14:16~17

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過去を振り返ってみれば、表面的には理解できないあの時のあの事が神のメッセージだったのかなと思える体験がないではありませんが、私の目の前にイエスが現われたなどという顕著な劇的体験は私にはありません。

しかし、私が絶対的に信頼しているイエスが「その方(聖霊)はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」と断言してくださったのです。

私は、イエスの御言葉を信じ、聖霊が私に内住してくださっていることを信じています。

 

冒頭で書きましたが、創造主である三位一体の神は、人間に他の生物とは全く異なる様々な賜物を授けてくださっています。

この特別の賜物に気付くならば、体中に電流が流れるような体験によって聖霊の存在を感じることがなくても、イエスが目の前に現れるなどの劇的体験がなくても、イエスを救い主(キリスト)と信じた時に三位一体の第三位格の神である聖霊が内住しているという確信を持つことが出来るのではないでしょうか。

 

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・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

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★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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聖霊と三位一体(その②)

(その①)の続き。

 

前回、助け主(パラクレートス)である聖霊がイエスを救い主(キリスト)と信じた者に授けられて、聖霊が信者の内に宿られる(聖霊の内住)ということを新約聖書の聖句によって確認しましたが、聖霊について語られている箇所は新約聖書では388あり、旧約聖書では88の箇所で記されています。

 

旧約聖書聖霊が語られている聖句を2箇所ご覧ください。

イザヤ書44:3

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この聖句は創造主(神)が預言者イザヤをとおして御霊を注ぐことを約束されたのものです。

 

エゼキエル書36:26~27

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この聖句は創造主(神)が預言者エゼキエルをとおして御霊を授けると語ったものです。

 

前回引用したドワイト・ライマン・ムーデー牧師と同様に有名な牧師のアンドリュー・マーレー(1828年~1917年)は、著書で次のように語っています。

「神は、二つの偉大な約束によって、ご自身を啓示されました。旧約と新約がそれです。旧約は約束と準備の時代でしたが、新約はその完成と領有の時代です。この二つの時代の相違と調和を知ろうとするなら、神の御霊には二重の働きがあることを知らなければなりません。旧約においては、神の霊は人々の上に臨んで働き、特別な時と特別な方法により、上から外に向かって働かれました。新約においては、聖霊は、まず人々の心にはいり、そのなかに住み、内から外に向かって、また上に向かって働かれるのです。」

 

ところで、イエスは十字架の後、40日間復活の姿を現して天に昇られる(昇天)までのある時点で使徒に対して聖霊について語っています。

次の聖書箇所をご覧ください。

使徒の働き1:3~10

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5節の洗礼者ヨハネの水のバプテスマ(洗礼)は、人間を神に立ち返らせる悔い改めのバプテスマですが、キリストが授ける聖霊バプテスマ聖霊を満たすバプテスマです。

この聖霊バプテスマ使徒たちに授けられる約束は五旬節(ごじゅんせつ)の日に成就しますが、これを「聖霊降臨」と言い、新約聖書使徒の働き2章に記されています。

使徒の働き2:1~4をご覧ください。

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五旬節(ギリシア語で「ペンテコステ」)とは、第五十を意味する言葉で「五十日祭」と訳される場合もあり、「過ぎ越しの祭り」と「仮庵(かりいお)の祭り」と並ぶユダヤの三大祭りの一つです。

ユダヤ教では五旬節を「七週の祭り(シャヴオート)」と呼びますが、イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出した救いを確認する「過ぎ越しの祭り」より第五十日目、すなわち全七週後にあたる祝祭です。

ユダヤ人にとっては祭りですが、キリストを信じるクリスチャンにとっては「聖霊降臨」の記念日となったのです。

ペンテコステの日の聖霊降臨は、イエスが十字架で死んで50日後のこと、昇天して10日後のことです。

 

4節の「他国のことば」とは「異言(いげん)」と呼ばれるものですが、この「異言」は現実のクリスチャンの信仰生活の中でかなり問題があるものです。

「異言」の問題点については、この「聖霊と三位一体」のテーマの中で後日アップします。

 

なお、ペンテコステの日に教会(ギリシア語で「エクレーシア」)が誕生したとされています。

この教会は建物の教会堂ではなく、イエスを信じる人々の集まりである「人々の群れ」を指して教会と呼ぶのです。

なお、教会がキリストのからだであることが次の聖書箇所で分かります。

コロサイ人への手紙1:18

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内村鑑三は「聖霊降臨」の意義について次のように語っています。

ペンテコステの日の聖霊降臨は二大事件を引き起こした。第一は使徒たちがその時から福音宣教者となったことである。第二にはエクレーシアすなわち教会の成立せしことである。」

 

↓ ↓ (その③)はこちらをクリック 

hoshishusaku.hatenablog.com

 

 

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https://bible-seisho.jimdo.com/



★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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聖霊と三位一体(その①)

当ブログでは聖書に関して私なりに理解したことを、聖書の学びをこれから始めようと考えている方や聖書の学びを始めて間もない方を念頭に置いて書いています。

すでにクリスチャンである方々にとっては、物足りない内容であるかもしれませんが、ご了承ください。

 

本日より聖霊と三位一体について検討しますが、あまり細かいところまで深入りせず、最低限これだけは押さえて置きたいと私が勝手に考えているポイントだけを書いていきたいと思います。

 

「三位一体」という文言自体は、聖書のどこを見ても書かれていません。

それなのに何故、三位一体という教義が生まれたのか?

キリスト教を支持する神学者たちが創り上げた空想、妄想なのか?

三位一体の第二位格の「子なる神」とされるイエス・キリストが、そもそも神なのか?

同様に第三位格の「聖霊」が、そもそも神なのか?

 

そこで、三位一体の教義の検討に入る前に「聖霊」という存在が聖書にどのように記されているのかを、まず、見ていきたいと思います。

次の聖書箇所をご覧ください。

コリント人への手紙第二1:21~22

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コリント人への手紙第一6:19

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上記の聖句に出て来る「御霊」とは「聖霊」のことですが、パウロは、イエスを救い主(キリスト)と信じた者には、信じた瞬間に聖霊が授けられると語っているのです。

授けられた聖霊は信者の内に宿ることになりますが、これを「聖霊の内住」と言います。

21節の「私たちに油を注がれた方は神です。」の「油注ぎ」とは、本来、旧約聖書において、祭司や預言者の任職にあたって行われたもので、神の選定と祝福をあらわしています。これが、新約聖書においては、おもに聖霊が注がれることを意味しています。

なお、キリストあるいはメシアとは「油注がれた者」の意でもあります。

 

19節の「聖霊の宮」とは、信者のからだが、三位一体の第三位格の神である聖霊が宿る神殿(宮)ということなのです。

 

さらに、パウロはエペソ人への手紙1:13~14では次のように記しています。

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日本人が契約書などに証印を押すというとハンコを押すイメージがありますが、キリスト教世界で有名なアメリカの大衆伝道者であったドワイト・ライマン・ムーデー(1837年~1899年)は、著書で次のように語っています。

「印を押す時に最初にすることは、熱い蝋(ろう)をたらします。そして、蝋が固まる前に、印を押すわけです。もしも、蝋が冷えて固まっていたなら、決して印を押すことはできません。多くの人たちが集会に集まります。しかし、彼らの心に感銘を与えることは、まさに冷えて固まった蝋に、印を押すようなものだと感じることがあります。蝋を暖めさえすれば、印は押せます。人が心を開き、心の中にある蝋を暖めるのならば、神は喜んで贖い(あがない)の日のための印(キリストの十字架の贖いの約束の印)を押されるのです。その印とは、神の子とされる特権なのです。」

 

内村鑑三も「神の子」について、著書で次のように語っています。

「人は生まれながらにして神の子ではない。罪を悔い、キリストに従い、聖霊を受け、旧(ふる)きを捨てて新しくなって初めて神の子となるのである。」

 

聖霊について地上で活動していた時のイエスは弟子たちに次のように語っていました。

ヨハネ福音書14:16~17

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ヨハネ福音書14:26

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16節及び26節に「助け主」という言葉が出てきていますが、これも聖霊のことです。

この「助け主」という言葉は、ギリシア語でパラクレートス(PARAKLETOS)といい、「助けるためにそばに呼ばれた者」という意味です。

つまり、聖霊はイエスを救い主(キリスト)と信じた者に寄り添って助けてくれる存在なのです。

さらに、「真理の御霊」と記されているように、聖霊はイエスを信じた者に真理を解き明かしてくれる存在でもあるのです。

 

エスを救い主(キリスト)と信じた者でなければ、聖霊の存在を受け入れることはできません。

創造主(神)及びイエスを信じることができない人たちは、聖霊の存在など全く気付きもしないし、もちろん、受け入れることもできません。

 

創造主(神)及びイエスを信じているクリスチャンの中にあっても一部の人たちは、聖霊の存在自体は認めますが、聖霊は人格の備わった三位一体の神などではなく、神から出る神の活動力(パワー)に過ぎないと考えています。

しかし、聖書を素直に読めば、聖霊が単なる神の活動力ではなく、人格を持つ神であることが理解できるはずです。

ここでも内村鑑三の言葉を引用します。

聖霊は神より来る力にあらず、またキリストによる感化力にあらず、聖霊はすなわち神にして、人格者(person)としてわれらに臨むということ、これである。これ聖書の明白に示すところにして、疑いもなく革命的大真理である。」

 

次回から少しずつ、聖霊の働き等を聖書から読み解きながら人格を持つ御方であることを理解していきたいと思います。

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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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