聖霊と三位一体(その⑤)
(その④)の続き。
今回は、「異言」について検討しますが、その前に、ユダヤ人の成年男子が年に三度エルサレムに出向き創造主(神)を礼拝しなければならない三大祭り(三大巡礼祭とも呼ぶ)のことが記されている聖書箇所を確認して置きたいと思います。
出エジプト記23:14~17
15節の「種を入れないパンの祭り」はアビブの月(ニサンの月とも言う)とも呼ばれる春(3月~4月)に行われる祭りであり「過ぎ越しの祭り」を含みます。
16節の「初穂の刈り入れの祭り」はシワンの月(5月~6月)に小麦の収穫を祝う祭りであり、当ブログの3月27日でも触れたように「七週の祭り」あるいは「五旬節(ペンテコステ)」とも呼ばれる祭りです。
同じ16節の年の終わりの「畑から取り入れる収穫祭」は秋の祭り(9月~10月)でありオリーブやブドウなどの収穫を祝いましたが、後に「仮庵の祭り」と呼ばれるようになり、モーセに率いられてエジプトを出たユダヤ人が荒野を約40年間放浪した体験を記念している祭りです。
三大祭りには、世界各地から様々な言語(国語)を持ったユダヤ人が大勢集まって来ていたことを頭に入れながら、少し長くなりますが次の聖書箇所をご覧ください。
使徒の働き2:1~13
五旬節(ペンテコステ)の日は、キリスト教にとって重要な日であることを当ブログの3月27日に内村鑑三の言葉を引用して説明しましが、再度引用します。
「ペンテコステの日の聖霊降臨は二大事件を引き起こした。第一は使徒たちがその時から福音宣教者となったことである。第二にはエクレーシアすなわち教会の成立せしことである。」
マタイの福音書28:19~20及びマルコの福音書16:15に記されたイエスが命じた全世界への大宣教(イエスの大宣教命令)が、聖霊が降臨した五旬節(ペンテコステ)の日から使徒たちによってスタートしたのです。
マタイの福音書28:19~20
マルコの福音書16:15
当時、ローマ帝国のあらゆる地から五旬節の日にエルサレムに巡礼に来た大勢のユダヤ人に福音を宣教する絶好の機会と捉えた創造主(神)は、聖霊の賜物として異言を与えたのでしょう。
以上のことを踏まえ、皆さんは「異言」とは何だと考えますか?
言うまでもなく、異言とは、外国の各国の言語であることは疑いようがないですよね。
上記の使徒の働き2:9~11に記されているように、この箇所で少なくとも15か国の言語(アラム語、ギリシア語、ラテン語など)の群衆がいたことが読み取れます。
イエスの大宣教命令に従って世界各地に福音を宣教するには、宣教地の国々の言語が話せることが必須です。
意味不明の分けのわからない発音(敢えて言葉とは書きません)では福音の宣教は不可能でしょう。
ところが、現代のキリスト教のある教会では、意味不明の分けのわからない発音をする人たちがいて、これは聖霊に満たされたことによる賜物の「異言」だと主張するのです。
この主張をどのように考えればいいのでしょうか?
次回検討したいと思います。
↓ ↓ (その⑥)はこちらをクリック
https://bible-seisho.jimdo.com/
★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・天地万物の創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。