聖霊と三位一体(その⑩)
(その⑨)の続き。
前回、神には人間の考えるような「名」はなかったのではと書きました。
だとしたら、ある人たちが神の名を「エホバ」と呼んだり、「ヤハウェ」と呼んだりしているのはどうしてでしょうか。
順を追って検討したいと思います。
まず、出エジプト記3:14~15をご覧ください。
<注> ペーパー版の新改訳聖書では、「主」は太字で印字されています。
「主」と記されている箇所は、旧約聖書の原語のヘブル語聖書では次のように記されています。ヘブル語は、右から左に読みます。
ヘブル語では母音は表記されず(22字の)子音で表記します。
上記画像のヘブル語文字を欧文表記すると「YHWH」または「YHVH」などとなります。
いずれにしても、この四文字が創造主(神)の名を表すと神学者は考えているのです。
そして、この四文字をギリシア語で「テトラグラマトン(神聖四文字)」と言います。
イスラエルの民は、「神の御名をみだりに口にすることなかれ」(出エジプト記20章7節)との戒めから、この四文字の聖書箇所にくると「アドナイ」(日本語訳で「主」)」と読み替えました。
例えば、戦国時代に、ある書状の中に「豊臣秀吉」の文字が書かれている箇所を「豊臣秀吉」と呼ぶことが恐れ多いと考えた家来たちが「殿様」と読むと仮定します。
豊臣秀吉の「秀吉」を欧文表記すると「HiDeYoSi」ですが、ヘブル語のように母音を表記しないと「HDYS」ですね。
「HDYS」の表記を、長い年月「殿様」と呼んでいたらどうでしょうか。
いつのまにか、「HDYS」を何と呼んでよいか分からなくなりますね。
そこで、後代のある人が「殿様(ToNoSaMa)」と発音していた母音の「ooaa」を「HDYS」に挿入しました。
すると「HoDoYaSa」となり、以後多くの人が「ホドヤサ」と呼んだのです。
以上、例え話。
この例え話のようなことが、テトラグラマトン(神聖四文字)に起こったのです。
「YHWH」または「YHVH」も長い年月が経つうちにイスラエルの民自身も何と呼んでいいか分からなくなったと神学者は解釈しました。
ところが、16世紀になってキリスト教の神学者が「アドナイ」と発音していた中に含まれる母音を「YHWH」または「YHVH」に挿入させたらしいのです。
それが、「YeHoWaH」または「YeHoVaH」なのです。
YはJとも表記が可能らしく、そのようにすると「JeHoWaH」または「JeHoVaH」となります。
発音すると「ジェホワ」または「ジェホバ」、つまり「エホバ」なのです。
ということは、文語訳聖書にも採用されていた神の名「エホバ」は、明らかに誤読だということです(山本七平著「聖書の常識」より)。
では「ヤハウェ」はどうなのかと言うと、結論から言えば、正しい神の名とは言えません。
なぜなら、テトラグラマトン(神聖四文字)の母音が不明なのですから、「ヤハウェ」であろうが「ヤーウェ」「ヤハヴェ」であろうが全て憶測なのです。
前回、「(わたしは)ある」は、ヘブル語では「エフイェ(ehyeh)」と書きましたが、母音を除くと「hyh」です。
ここで、新共同訳・旧約聖書注解の一部を引用します。
「出エジプト記3章14節(・・・わたしはある・・・)の神の言葉の理解は難しい。神名ヤハウェ(YHWH)が、ここで動詞hyh「ある、いる」と関連させられているからといって、語源的にこの動詞に由来するとは限らないが、両者を関連させる見解が今日広く採られている。」
私もテトラグラマトン「YHWH」が動詞hyh「ある、いる」に関連すると考えます。
前回引用した内村鑑三の言葉にもあったように、神の名は「エホバ」「ヤハウェ」などではなく、「有りて在るもの」つまり、あくまでも「わたしはある(I am)」なのです。
今まで当ブログではエホバはもちろんですが、ヤハウェという言葉も書いてきませんでした。
それは、どちらも神の名とは私が受け入れることができなかったからです。
そして、極力「神」という語も単独で使わないようにして来ました。
「神」という語は偽りの偶像の神にも用いられるので、「創造主(神)」という書き方を多用しています。
私が、崇め、そして、賛美する御方は、天地万物を創造した「わたしはある(I am)」と表明した創造主(神)だけです。
聖書自体を信じるかどうか、聖書の創造主(神)を信じるかどうか、主イエス・キリストを信じるかどうかは、各人の究極的な自己責任であり、さらに、聖書の内容をどのように解釈するかも、自己責任であると私は考えています。
だからと言って、私は自分の都合の良いように解釈するつもりはありません。
聖書の文脈に沿って字義通り解釈して、そこから「真理」を掴み取りたいのです。
私のする聖書研究は、聖書からこの世の御利益(ごりやく)を得るためでも「成功法則」を読み取ろうとしているのでもありません。
興味があるのは「真理」のみです。
創造主(神)の名の検討についても、この姿勢に変わりはありません。
次回は、「聖霊」が神の活動力に過ぎないものではなく、神であることを聖書から確認したいと思います。
↓ ↓ (その⑪)はこちらをクリック
https://bible-seisho.jimdo.com/
★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・天地万物の創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。