星 周作 Blog

★ 福岡より〇〇をこめて  ★

罪とは何ぞや(その②)

一昨日の日曜日に机の引き出しや押入れの中に仕舞っていた昭和時代の映画のパンフレット、ポスター、レコードを壁や天井に貼ることにしました。

見たこともない聴いたこともない人にとって、映画パンフレット、ポスター、レコードなどゴミみたいなものでしょうが、私には若かりし頃の思い出の一杯詰まった映画であり音楽です。

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さて、本日のテーマに入ります。

前回のブログで引用した内村鑑三の文章の一文に「禁制の果物を食いし事、その事は小さな罪である。」とありましたが、禁制の果物である「善悪の知識の木」をアダムとエバが食べたことは本当に「小さな罪」だったのでしょうか。

 

筋金入りの進化論者のリチャード・ドーキンスも著書の「神は妄想である」の中で次のように書いています。

「原罪そのものは、『旧約聖書』のアダムとエバの神話から直接に由来するものである。彼らの罪(禁断の木の実を食べたこと)は、単なる叱責ですみそうな、軽微なものである。」

創造主(神)の存在を知らない進化論者だから当然ですが、ドーキンス旧約聖書を神話だと考えています。

そして、禁断の木の実を食べたことは重罪ではなく軽犯罪だと書いています。

 

創造主(神)はアダムに「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:17)と明確に言われたのです。

アダムは永遠に生きることを前提に創造されたのですが、禁断の果実を食べたことによって、創造主(神)が言われた「ことば」通り死ぬことになり、アダムの子孫の私たち人類全体にも死が訪れることになったのです。

 

創造主(神)の存在を知っている私であっても、創造主(神)の人格の全貌を知る由もありませんが、少なくとも創造主(神)の「ことば」ほど重いものはないということは少しは理解しているつもりです。

イザヤ書5:11をご覧ください。

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人間が語る「ことば」にどれほど信頼を置くことができるでしょうか。

真に受けて信じたものの、「あれは、冗談だよ」「これこれの理由があって、あなたのためを考えて仕方なくウソをついたんだよ。」と、悪意がなくても人間がウソをつくことは日常茶飯事です。

つまり、人間の「ことば」に絶対的な信頼を置くことはできません。

しかし、創造主(神)の口から出た「ことば」には絶対的権威があり、私たち人間は、絶対的な信頼を置くべきなのです。

 

天地万物の創造は創造主(神)の「ことば」によって行われました。

ヨハネ福音書1:1~3

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創造主(神)の口から出た「ことば」には偉大な力があることを忘れてはなりません。

 

言い方はよくありませんが、創造主(神)の口から出た「ことば」を真に受けて信じなければなりません。

創造主(神)の口から出た「ことば」は、全て重いものであり、軽重はないのです。

したがって、禁断の果実を食べたことは「小さな罪」でもなければ「軽犯罪」でもなく、極めて重い罪だったことを認識する必要があると私は考えるのですが、皆さんはどう考えますか。

 

旧約聖書の記事の中で創造主(神)の「ことば」の重さを私が思い知らされたエピソードがあります。

サムエル記第二6:6~7をご覧ください。

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ウザという人が「神の箱」に触れたことにより死んでいますが、これはどうしてでしょうか。

民数記4:14~15に次のように記されています。

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つまり、「神の箱」など祭壇で用いられる用具は覆いが何重にもかけられ担ぎ棒を通されて、直接人間の手が触れないようにされました。

それは、「聖なるものを触れて死なないためである。」と創造主(神)は言われたのです。

「ことば」の重さに気付いていない人間は、「神の箱を触ったぐらいで死刑なんてヒドイ」と思うでしょう。

人間の「ことば」を真に受けると、その「ことば」にはウソがあったりするので、真に受けることに慎重さが必要ですが、創造主(神)の「ことば」には100%絶対に偽りはなく、そのまま真に受けなければなりません。

だから、私たち人間は創造主(神)の「ことば」に絶対的信頼を置くことができ、そして、従うことができるのです。

もし、「聖なるものに触れてはならない。触れれば死ぬことになる」と創造主(神)が命じたにもかかわらず、触れても死ぬことがなかったら、「あ~良かった。死なずに済んだ」と創造主(神)の寛容さに感謝することができても、その後に語られる創造主(神)の「ことば」を人間は侮り、創造主(神)のあらゆる「ことば」を軽く扱うことになりはしないでしょうか。

 

創造主(神)の一つ一つの「ことば」に人間が勝手に軽重の差をつけることになれば、主イエス・キリストは「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)と語った「ことば」に対しても疑いの心が芽生え、結局、信仰が揺らぎかねないことになるのです。

逆に言えば、創造主(神)の一つ一つの「ことば(聖書のことば)」に軽重がないからこそ「イエスを信じる者が永遠の命を持つ」(ヨハネ3:16)ことを確信することができるのです。

 

本日はここまでです。

創造主(神)の「ことば」の重さを認識できる「メリバの水事件」について書いた当ブログの昨年8月29日の「聖書の妙な癖(パートⅣ)」を未読の方は、こちらもご覧ください。

hoshishusaku.hatenablog.com

 

ブログアップは日曜日・火曜日・木曜日の週3回です。

次回は4月26日(木)にアップします。


★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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