星 周作 Blog

★ 福岡より〇〇をこめて  ★

東方の博士たちとは何者か(その②)

 

(その①)の続き。

 

少し長いですが、まずマタイの福音書2:1~16をご覧ください。

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聖書には「東方の博士たち」とだけ書かれていて、具体的な人数は書かれていません。

それなのに何故東方の博士たちが3人だとして多くの絵画(下の画像)などに描かれているのでしょうか。

それは、11節の母マリアに贈られた物が黄金、乳香、没薬(もつやく)の3種類であったことから、古代キリスト教最大の神学者オリゲネス(185年頃~254年頃)以降、東方の博士は3人として語られるようになり、キリスト教の伝説のなかでそれぞれカスパール、メルキオール、バルターザールという名前が与えられるようになったのです(教文館「聖書大辞典」より)。

 

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↑<星に導かれる3人の東方の博士>

 

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↑<左からヨセフ、マリア、イエス、3人の東方の博士>

 

しかし、贈り物が3種類あったから博士が3人であったなどと解釈するのはあまりにも短絡的ですね。

実際の人数が何人であったのかは聖書を読む限り不明です。不明な聖書箇所は不明のままでいいのです。何人であったかなどと推測することは時間の無駄ですね。

 

黄金はもちろんですが乳香や没薬も当時かなり高価なものであったようで、13節に書かれているように父ヨセフ、母マリア、幼子イエスがエジプトに逃れるための資金になったようです。

因みに乳香は美容や死体の化粧に用いられ、祭儀用の香の作成にも用いられ、外傷用の薬品としても有名であり、没薬は宗教的な表敬の贈り物となり、また埋葬の際に芳香としても用いられ、とりわけ結婚式などで香料として用いられた(教文館「聖書大辞典」より)。

 

続いて、東方の博士たちが見た「星」の正体を検討したいと思いますが、イエスが誕生した地がベツレヘムであることから「ベツレヘムの星」と言われています。

東方の博士たちは「東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」と2節に記され、9節では「東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。」と記されています。

この「星」について様々な解釈がされています。

代表的な解釈を2つ取り上げます。

(1)ハレー彗星

イタリアの画家のジョット・ディ・ボンドーネ(1267年~1337年)は聖書を題材にした多くの絵画を描いていますが、その中の一つに「東方三博士の礼拝」を題材にしたものが下の画像です。夜空に大きく描かれた長い尾を引く赤い星は、ハレー彗星と見られています。この強烈なインパクトを放つベツレヘムの星は、ジョットが1301年に実際に見たハレー彗星をもとに描かれたそうです。ハレー彗星は約76年周期で地球に接近するため、誰も見たことがない明るい星という点は当てはまりそうです。

ただ、イエスが誕生したと推測されるのが紀元前4年頃なのに対し、紀元前12年にハレー彗星が現れた事が中国の記録に残されているようですが、イエス誕生の年としては早すぎるようです。

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(2)木星土星の3連会合説

1614年、ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーは、紀元前7年に起きた、木星土星の3連会合、すなわち両惑星が合体して見えるほどの接近を3回繰り返したのがベツレヘムの星の正体であると結論付けている。しかし現在では、両星の間隔は1度(月や太陽の視直径の2倍程度)ほど離れていたので、珍しい現象ではあるが合体してより明るく見えたというわけではないことがわかっている(ウィキペディアより)。

 

これらの解釈と異なり、メシアニック・ジュー(キリスト者)のアーノルド・フルクテンバウムは次のように説明します(一部要約)。

「この星がただの星でないことはその動きを見ればわかる。また、この星は『その方(ユダヤ人の王)の星』(マタイ2章2節)と呼ばれていて、それ以外の星とは一線を画している。この星は東から西に動き、北から南にも動く。ベツレヘムの一軒の家の上空にとどまり、そこにメシアがいることを指し示す。これがただの星でないことはだれの目にも明らかである。間違いなく、星とは違う何か別物である。それは何か。ギリシア語の『星』という単語の元々の意味は『輝き』『光』である。この光を放つ星は、通常の星ではなく、『シャカイナ・グローリー』の表れである。シャカイナ・グローリーとは、神の臨在が目に見える形で現われたものだ。旧約聖書で神が目に見える形をとる時、それはシャカイナ・グローリーと呼ぶ。シャカイナ・グローリーは、たいてい光、火、雲、輝き、あるいはそのいくつかの組み合わせとして現れる。バビロニアの上空に、遠くから見ると星のように見える輝く光が現われた。しかし、この星は通常では考えられない動きをしていた。東方の博士たちが見たのは、実はシャカイナ・グローリーだったのである。博士たちがこの星、通常見かけないような光を見たとき、それをユダヤ人の王であるメシアが生まれたしるしと判断したのである。」

アーノルド・フルクテンバウムが説明するこのシャカイナ・グローリーは聖書記事の中で神の臨在を現わすものとして記されていますが、2つの聖書箇所をご覧ください。

出エジプト記3:1~6

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ここでは神の臨在の現われ、すなわちシャカイナ・グローリーが火の炎として現れている。

 

出エジプト記13:21~22

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エジプトから脱出したイスラエルの民をシャカイナ・グローリーである「火の柱」「雲の柱」が導いている。

 

シャカイナ・グローリーという言葉自体は聖書に書かれている言葉ではありませんが、神の臨在が人間の目に見える形で現われる現象として、アーノルド・フルクテンバウムの説明を私は支持します。

皆さんはどう思われますか。

 

本日はここまでです。次回はユダヤ人の王が生まれたと東方の博士から聞いたヘロデ王が恐れ惑った(3節)のは何故か、東方の博士は星を見ただけで何故ユダヤ人の王が生まれると考えたのか等を検討したいと思います。

 

↓ ↓ 次回(最終回)はこちらをクリック

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https://bible-seisho.jimdo.com/



★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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東方の博士たちとは何者か(その①)

 

早速ですが、次の聖書箇所をご覧ください。

マタイの福音書2:1~2(新改訳聖書)

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ここに登場する「東方の博士たち」とは何者なのでしょうか。

 

聖書を学び始めた当初この「東方の博士たち」の正体がよく分からず、マタイの福音書を書いた著者の創作のような印象を持っていましたが、後の学びによって実在した人物であったことが理解できるようになったのです。

 

実在した人物であることを以下検討していきたいと思います。

 

新共同訳聖書では「占星術の学者たち」と訳し、リビングバイブルでは「星占いの学者たち」と訳しています。

 

内村鑑三は次のように書いています。

「『博士』はこんにちわれらの称する博士にあらず、ドクトルにあらず、magos(ギリシア語)と称し、当時の識者なり。天文に通じ、時勢を解し、王を助けて民を導くものなりき。政治家にあらず。さればとて哲学者にもあらず。」

 

上記のmagosについて聖書大辞典(教文館)では次のように解説しています。

「magosとは、ペルシアのゾロアスター教における祭司階級であるマギ(魔術師)に由来すると考えられるが、ここでは単に東方の知者というほどの意味であると思われる。」

 

「magos」「マギ」はマジシャンの語源のようです。

そう言えば、マジシャンの中にコメディアン的なマジシャンのマギー司郎がいますね。

 

結局、このマタイ2章に登場する「博士」とは、天文学者占星術師であり当時の知者であったようです。

一部解説が重複しますが日本基督教団出版局の新約聖書略解もご覧ください。

「博士(magosマゴス)はもとは中央アジア民族宗教の祭司の名称であるが、また古代の天文学者(占星家)もマギと呼ばれた。ここの博士はおそらくバビロンあたりの天文学者であったろう。」

この解説からわかるように「東方の博士たち」の「東方」とはバビロンのようです。

バビロンはバビロニア帝国の首都です(下の地図画像)。

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なお、「東方の博士たち」は王でもあったという伝承もあるようであるが(新改訳聖書・注解書)、もしそうであるなら著者のマタイは「東方の王たち」とハッキリ書いたのではないでしょうか。

 

本日はここまでです。

次回は、東方の博士たちの人数が3人だと説明する人たちがいるのですが、本当に3人なのか、そして、博士たちが見た星の正体が何なのか等を検討したいと思います。

 

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メシア預言(最終回)

 

前回からイザヤ書53章を検討していますが、イギリスのキリスト者(牧師)のフレデリック・ブロザートン・マイヤー(1847年~1929年)はイザヤ書53章について次のように語っています。

イザヤ書のみか、旧約聖書中でも最も偉大な章というべきは、この章です。私たちは年とともに、この預言に従って、私たちの罪を背負われた救い主イエス・キリストのお姿を思って涙を覚えるのです。老使徒ペテロは彼なりのイザヤ書53章を、その第一の手紙に書き残しました。『キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです』と(ペテロの手紙第一2:22~25)。牛は飼い主を、ロバは主人の小屋を、犬や猫もその家を知っています。愚かな羊たちよ、唯一の牧者に帰れ。」

 

前回はイザヤ書53章の6節まで見ましたので、本日は残りの節を見ていきたいと思います。

イザヤ書53:7~9をご覧ください。

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7節では、メシアはほふり場に引かれて行く羊のように黙って口を開かず、毛を刈られる雌羊のように黙って口を開かずとイザヤは預言しているのですが、これは、イエスユダヤ人の裁判とローマ人の裁判の両方で示した態度と一致します。

マタイの福音書27:12~14をご覧ください。

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8節では「彼(メシア)がわたし(神)の民のそむきの罪のために打たれ」と預言されているように、メシアは自分の犯した罪で裁かれるのではなく神の民が神に背いた罪のために処刑されたのです。

処刑されるメシアは9節に記されているように悪者どもとともに墓に葬られるのですが「彼は富む者とともに葬られた。」とあるように実際にイエスは富む人のアリマタヤのヨセフの墓に葬られたとマタイの福音書27:57~60に記されています。

マタイの福音書27:57~60をご覧ください。

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続いてイザヤ書53章の残りの3節をご覧ください。

イザヤ書53:10~12

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この最後の3節こそ驚きの内容が書かれている箇所です。

まさにフレデリック・ブロザートン・マイヤーが語ったようにイザヤ書53章が「旧約聖書中でも最も偉大な章」と言われる所以なのです。

10節で「彼を砕いて、痛めることは主の意図することではなかった。」と記されていれば、聖書が人間の知恵で書かれた創作だと言えるかもしれませんが、「彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。」と驚きのことが記されているのです。

前回も書きましたが、神の奥深い知恵でなければ到底書くことができない内容なのではないでしょうか。

メシアが初めて地上に現れる(初臨)のはスーパーマンのように偉大な力を存分に振るって人間の現実の苦難から解放するのではなく、10節から12節に記されているように人間の罪過のいけにえとして、人間の咎をメシアが担って、メシア自身のいのちを死に明け渡すために地上に現れるのです。そして神に背いた人間たちのために天において今この時もとりなしをしてくださっているのです。

 

イザヤ書53章はメシア預言でありますが、メシアの受難を記した箇所でもあるのです。

使徒の働き3:18~21をご覧ください。

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最後に過去ブログでも取り上げた聖書箇所であるピリピ人への手紙2:6~8をご覧ください。

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今回取り上げたテーマ「メシア預言」は主に初臨について触れました。

メシアの再臨については別の機会に書きたいと思います。

 

当ブログは聖書を学び始めたばかりの初学者を念頭に聖書のエッセンスを書かせていただいています。

今回取り上げたメシア預言が、読者の皆さんのこれからの聖書研究の一助になれば幸いです。

 

↓ ↓ 聖書の他の重要なテーマについては、こちらをご覧ください。

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メシア預言(その④)

 

(その③)の続き。

 

今回はメシア預言の中でも特に有名なイザヤ書53章を見ていきたいと思います。

何故有名なのか、それは、イザヤ書53章がメシア(キリスト)の生涯を明確に預言している箇所だからなのです。

まず、1節から3節をご覧ください。

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1節冒頭の「私たち」とは、預言者イザヤと彼と通して神のメッセージを聞いた人々を指します(新改訳聖書・注解書より)。

この1節を新約聖書ヨハネ福音書12:37~38では次のように引用しています。

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私たちのイメージするイエス・キリストの姿はどういうものでしょうか。

今風に言うとイケメンだったのでしょうか。

2節では「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」と記されているようにイケメンではなかったようです。

メシアニック・ジュー(キリスト者)のアーノルド・フルクテンバウムは次のように書いています。

「初臨時のイエスには、人の目を引く要素は何もなかった。出自もごくふつうで、いやむしろかなり貧しい家に生まれた。それだけでなく、容姿の面でもイエスには人を引きつけるようなものはなかった。この点で、一般に描かれるようなイエス肖像画は事実に反している。イエスユダヤ人で、ユダヤ人のひげをたくわえ、目は黒く、背もそれほど高くなかっただろう。この節によると、特にハンサムというわけでもなかったことがわかる。」

 

メシア(キリスト)はイケメンではなかったというだけでなく、人々からのけ者にされ、人が顔をそむけるほどさげすまれたのです(3節)。

エスは公生涯の終わりに人々から「十字架につけろ」と叫ばれ、ムチ打たれ、つばきをかけられもしました。

新約聖書のマルコの福音書15:14~20をご覧ください。

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聖書を学ぶ前までの私は、イエス・キリストを無視した生活をし、イエス・キリストを信じて天国と永遠の命を信じているクリスチャンを半ば馬鹿にしたような見方をしていましたが、今では痛切に恥じています。

何故なら、3節末尾の「私たちも彼を尊ばなかった。」とあるように、イエス・キリストを尊ばなかった「私たち」の中の一人こそ私自身であったからです。

 

続いて、イザヤ書53章の4節から6節をご覧ください。

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4節及び6節について、アーノルド・フルクテンバウムの説明を引用します。

「4節で強調しているのは、しもべ(メシア)は自分自身ではなく、他の人のために苦しみを受けたという点である。ただ、当時イスラエルはこのことを理解せず、しもべの苦しみは神から下った罰(4節後半の「神に打たれ、苦しめられた」)だと考えた。しもべは自分自身の罪のために苦しみを受けたのであって、他人の罪のためではないと考えたのである。5節でイスラエルは、しもべが『私たち(イスラエル)のそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた』こと、しもべの死が身代わりの死で『彼の打ち傷によって、私たちはいやされた』ことを認める。」

 

しかし、神は何故、しもべ(メシア)を「打たれ、苦しめる」ことが人間を罪から救われる方法としたのか、という最大の疑問が生ずるのです。

人間の浅はかな知恵からすれば、王の中の王であるメシアであり、かつ、神のひとり子であるにもかかわらず、そのメシアを神が打たれること、つまり、人間の罪の贖いのために十字架につけられることなど考えも及ばないことです。

これこそ、神の奥深い知恵であり、神の人間にたいする愛の証しであることを人間は学ばなければならないのではないでしょうか。

ヨハネ福音書3:16~17をご覧ください。

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聖書を神話や作り話と考える人たちは聖書のどの箇所を読み、そして、どう理解して神話や作り話と考えたのでしょうか。

このことに関して私にも身に覚えがあります。

それは、数十年前にほんの少し聖書に興味を持った時期があり、部厚い聖書の最初の書である創世記の数行の天地万物がわずか6日間で創造されたと書かれている箇所を読み、それから新約聖書の最初の書のマタイの福音書の数行のイエスが処女マリアから生まれたとする箇所だけを読んで、聖書を神話であり作り話であると早合点して、その他の聖書箇所を読むことを全くしなかったのです。

 

しかし、聖書を真剣に学ぶようになり、このイザヤ書53章などを読んでみると、人間の罪の贖いのためにメシアが「打たれ、苦しめられる」などという知恵を、人間が神話や作り話として発想できるものでは決してなく、この驚くべき知恵は、創造主(神)の知恵だからこそと確信できるようになったのです。

 

一人でも多くの人たちが、聖書の一部だけを読むことで満足して神話や作り話だと早合点することなく、聖書全体を一日でも早く読み、そして、研究することによって、創造主(神)でありメシアである主イエス・キリストの愛と真理を掴み取っていただくことを心より願います。

 

次回はイザヤ書53章7節以降を検討したいと思います。

↓ ↓ 次回(最終回)はこちらをクリック

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メシア預言(その③)

 

(その②)の続き。

 

早速ですが、次の聖書箇所をご覧ください。

この箇所もメシア預言を記しているものです。

創世記49:10(新改訳聖書)

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この箇所を新共同訳聖書では次のように訳しています。

「王笏はユダから離れず統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。」

何故、この聖句がメシア預言を示していると言えるのか。

前回登場してもらったメシアニック・ジュー(キリスト者)のアーノルド・フルクテンバウムの説明が理解し易いと思われるので、その一文を引用します。

「創世記49章には、ヤコブが十二人の息子について語った預言が記録されている。10節はユダに対する預言である。そこで、ユダは他の部族を治める部族というアイデンティティ統治権を失うことはないが、それはあるお方が来るまでのことだ、と語られている。言い回しは翻訳によってさまざまだが、たいていどの訳も「シロ」という言葉をあたかもメシアの固有名詞であるかのように訳している。実は、それがこの文の本当の意味をわかりにくくしている原因である。「シロ」は、本来「所有代名詞」として訳すべき言葉である。この節(新共同訳聖書)を直訳すると次のようになる。『王笏はユダから離れず統治の杖は足の間から離れない。しかし、それは権威を身に帯びた者がくるまでのことである。諸国の民はその方に従う。』ユダの王笏(王権)、統治の杖(統治権)は失われない、ただし、それは王権・統治権を本来持つはずの方が来るまでのことである。」

このように創世記49:10は、メシアがユダ族から現れると解釈できるのです。

 

続いて、次の聖書箇所をご覧ください。

歴代誌第一17:1~2

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歴代誌第一17:10~15

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マタイの福音書1:1

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上記の聖書箇所は、預言者ナタンが主である神(この聖句では「わたし」と記されている)から授けられた御言葉をダビデ王に告げたものですが、メシアがユダ族の中でもダビデの子孫から現れることがわかります。

そして、聖書を学ぶと上記の聖書箇所のように新約聖書旧約聖書と完全にリンクしていることもよく理解できると思います。

 

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https://bible-seisho.jimdo.com/



★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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メシア預言(その②)

 

 

(その①)の続き。

 

聖書を学ぶようになってからしばらくの間、ほとんどのユダヤ人はナザレのイエスをメシア(キリスト)と認めていないユダヤ教徒だと思っていました。

ユダヤ教徒にとってナザレのイエスは架空の人物ではないけれど、あくまでも人間であり、それも魔術を使う者に過ぎず、(旧約)聖書のメシア預言は成就していない、つまり、メシアは未だ現れていないという認識なのです。

ですから、今更言うまでもなく、ユダヤ教徒にとっての聖書とは旧約聖書だけを指し、イエスをメシア(キリスト)と教える新約聖書は聖書でも何でもないのです。したがって、ユダヤ教徒新約聖書を読むことなどは普通はありえません。

しかし、今まで新約聖書を読むことをしなかったユダヤ人の中でも旧約聖書の中に記されているメシア預言が新約聖書のイエスの生涯をしっかりと学ぶことによってナザレのイエスこそがメシア(キリスト)だと認めるようになったメシアニック・ジュー(キリスト者)も少なからず居て、現在ではユダヤ教からキリスト教に改宗するユダヤ人も増えているのです。そして、今後増々メシアニック・ジューは確実に増えていくことでしょう。

 

さて、次の聖書箇所をご覧ください。

創世記3:15

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この聖句は聖書の中の最初のメシア預言が記されている箇所です。

 

過去ブログでも書きましたが、禁断の木の実を食べたエバに対して創造主(神)がエバの子孫からメシアが生まれ、メシアが蛇(サタン)の頭を踏み砕き、蛇(サタン)がメシアのかかとにかみつく(メシアが十字架に処せられる)と語られたのです。

 

続いて、創世記4:1をご覧ください。

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この聖句は実に興味深いものです。

エバは自分の子孫からメシアが出るという創造主(神)のことばがすぐに成就したと思い「私は、主によってひとりの男子を得た」と言ったのです。

つまり、エバは最初の男子カインをメシアだと勘違いしたのです。

 

ここで、メシアニック・ジューのアーノルド・フルクテンバウムの著書から引用します。

「創世記4:1のヘブル語原典を直訳すると、以下のようになる。『人はその妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、言った。「私はひとりの男子、ヤハウェを得た」』、ここでエバが何を言っているのか、理解している聖書翻訳者はほとんどいないようである。そのため、既存の訳では、上記の直訳のようには訳されていない。エバは、創世記3:15のみことばから、神であり人である神人が蛇を打ち負かすとはっきり理解していた。そして、どうやらカインがその方(ヤハウェ)だと思ったようである。エバの神学は基本的に正しい。メシアは人であると同時に神である。エバが間違っていたのは、その適用である。エバは、初子のカインが約束されていた神人だと思い込んだ。エバがその間違いにすぐに気づいたことは、弟アベルの誕生記事を読めばわかる。エバがつけたアベルという名の意味は「空しさ」である。」

<注> アーノルド・フルクテンバウムは神の御名を「ヤハウェ」と書いています。

 

上記のアーノルド・フルクテンバウムの説明を皆さんどう思われますか。

街の一般書店で売られているキリスト教の入門書や関係書籍では触れられることのないものですね。

つくづく、聖書研究は面白いものだと感じます。

 

続いて、次の聖書箇所をご覧ください。

創世記22:18

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ガラテヤ人への手紙3:16

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ガラテヤ人への手紙の著者パウロが言っているように、創世記22:18の「あなたの子孫によって・・・」の「子孫」は単数名詞であり、「子孫たち」という多数のイスラエル民族を指しているのではなく、創造主(神)が御使いを通してアブラハムに語ったメシア預言なのです。

 

 

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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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メシア預言(その①)

 

「救い主」のことをヘブル語では「メシア」、ギリシア語では「クリストス、日本語カタカナ表記でキリスト」、英語では「クライスト」です。

人間がアダムから引き継いだ罪から解放されて永遠のいのちに至る、つまり、救われるためには、「救い主」の御力が必要です。

人間を救う御力は、人間を創造した「創造主(神)」しかお持ちになっていないはずですから、「救い主」メシアは創造主(神)だということになります(救い主が神であることは過去の当ブログで書いてきているので詳細は省略)。

 

旧約聖書には将来メシアが現われるとする預言が50箇所以上記されていると言われています。

そして、このメシア預言はメシアが将来二度に渡って現れると記されてもいるのです。

最初の現われが「初臨」に関する預言であり、後の現われが「再臨」に関する預言なのです。

当ブログでは主に「初臨」に関する預言について検討したいと思います。

 

まず、次の聖書箇所をご覧ください。

数あるメシア預言の中の代表的なものです。

イザヤ書7:13~14

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この聖句をマタイの福音書1:23で引用しています。

 

マタイの福音書1:21~23

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イザヤ書9:6

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上記の聖句が記されているイザヤ書について少し触れたいと思いますが、いのちのことば社新改訳聖書の注解書にイザヤ書について簡潔に書かれているので、これを引用することでイザヤ書の説明とさせていただきます。

「この書は、預言者イザヤに啓示された託宣が記されているので、『イザヤ書』と呼ばれる。本書は、聖書中他に類例を見ないほど、その内容と表現力に優れ、最も偉大な書、崇高な書と評価されている。本書は旧約聖書中、最も多く新約聖書に引用され、そのメッセージはきわめて福音的である。さらに、キリストの生涯が預言されているところから、『第五福音書』とも呼ばれる。・・・中略・・・イザヤの父はアモツである。伝承によれば、イザヤはユダの王アマツヤの兄弟であり、したがってウジヤ王のいとこと言われている。その真偽のほどは不明であるが、彼が預言者として、直接王たちに忠告を与える立場にあったことは確かである。彼はウジヤ王の死んだ年(前742年ごろ)に召命を受け(イザヤ6:1)ヨタム王、アハズ王、ヒゼキヤ王(イザヤ1:1)、さらにマナセ王の時代まで、約50年もの年月を預言者として活動した。」

 

預言者イザヤは、イエス・キリストが処女マリアから生まれる約700年以上も前にメシア預言していたことになります。

仮にこれを日本の現在の2018年から700年前に遡るとすると、おおよそ鎌倉時代に相当する時代に、ある特定の重要人物の誕生を預言していたということになるのです。

 

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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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