星 周作 Blog

★ 福岡より〇〇をこめて  ★

古代人の知能指数は現代人より低い?

進化論の影響を知らず知らずのうちに受け、現代人は古代人が自分たちより知能が少なからず劣っていたはずだと考えていないでしょうか。

ですから、高度な技術を要したエジプトのピラミッドやスフィンクスマチュピチュの空中都市などを古代人が作ることが出来たことがなかなか理解できないのです。

 

私自身も古代人が現代人よりも知能が劣っていたという考えに影響されていたのでしょうか、ノアがタンカー並みの構造を持つゴフェルという木で三階建ての箱舟を造り(創世記6:14~16)、そこに多数の動物を収容しても水漏れもせず壊れて沈むこともない堅牢な構造の舟が造れたことがもう一つ信じられずにいた頃がありました。

 

ここで皆さん想像してみてください。

大工や職人でもないサラリーマンが、ある日2階建ての本格的な木造住宅を建てることを思い立ちました。建築業者に依頼するのではなく、全て自分自身の手でやるつもりでいます。意気込みだけでは事は成就しません。山の木を切倒し製材をすることからしなければならないとしたらどうですか。

自分の手で建築することを諦めるはずですね。 

多くの船を目にしている現代人が、仮に大型の旅客船の設計図や建造するための様々な機械工具を手渡されも、旅客船はおろか一人乗りの小船すら造った経験もなかったとしたら大型の旅客船を建造することなど不可能でしょう。

 

ノアは一度も水に浮かぶ箱舟を見たこともないのに、何故、水漏れもしない頑丈なタンカー並みの箱舟を建造することが出来たのでしょうか。

 

ここで、次の聖書箇所をご覧ください。

創世記1:26~28

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詩篇:4~8

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ヘブル人への手紙2:6~9

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上記のヘブル人への手紙2:6~7は上記の詩篇:4~8の引用ですが、このヘブル人への手紙の記者も言っているように詩篇8:5の「」とは「御使い(天使)」を指すことがわかります。

そして、ヘブル人への手紙の記者は詩篇8の「人」をイエスを指すものとして適用しています。

そこで、聖書を研究する学者や牧師などの中には、詩篇8の「人」は人間全体を指すものではなくイエスを指すものであって、この詩篇8の聖句をメシア預言の中でもメシア(キリスト)の「初臨(しょりん)」(受肉したキリストの誕生)の預言と解釈する人たちもいます。

ちなみに、新改訳聖書の注解書では、ヘブル人への手紙2:7の「しばらくの間」に関して次のように解説し、詩篇8の「人」を人間と解釈しています。

「『しばらくの間』とは、時間的、あるいは程度において少し、という意。ここでは、人間は創造の秩序において御使いより少し低い者とされたという本来の意味が、キリストが受肉して人間の形をとってしばらくの間だけ、人間と同様に御使いよりも低いものとされたという意味に解される。」

私はこの新改訳聖書の注解書の説を支持します。

 

人間が創造された当時の人間の能力(知恵)は現代人と比較すると「御使いよりいくらか劣る」程度の極めて高い能力を持っていたのです。

 

ここから先は「番外編」として私の個人的考えを述べたいと思います。

ですから、読者の皆さんは軽く読み流していただいても結構です。

 

私は、アダムが創造主(神)に背いたことにより創造された当時の「御使いよりいくらか劣る」程度の極めて高い能力は、後の世代になればなるほど徐々に減退したと考えるのです。

 

現代人はスマートフォンやAIロボットを製造する能力があって古代人よりも知的能力が一見高そうですが、この能力は過去の多くの人たちの知識や経験の積み重ねの上に成り立っている能力です。

 

しかし、大洪水を乗り切った箱舟を造ったノアの能力は過去の知識や経験の積み重ねによるのではなく、まさに「御使いよりいくらか劣る」程度の極めて高い能力がアダムより引き継いだ後まだほとんど減退しない状態の能力があったと考えられます。

 

私たち現代人がエジプトのピラミッド建造の技術の高さに驚きを覚えるように、もしノアの箱舟の現物を見ることが出来たなら、ノアの箱舟がただの木造船ではなく、その構造の精密さや堅牢さにピラミット同様に驚きを覚えたはずでしょう。

 

エジプトのピラミッドやスフィンクスの設計や建造技術を開発した人間も「御使いよりいくらか劣る」程度の極めて高い能力がまだまだ十分に残っていた状態の人間だったはずです。

今風に言えば大天才がピラミッドやスフィンクスの建造を主導したのです。

ピラミッドがどのような技術で建造されたのか多くの学者によって研究されていますが、いまだに、これだとする証明はされていないようです。

ピラミッドの建造を主導した「御使いよりいくらか劣る」程度の極めて高い能力を持った人間が考案した技術をもし見ることができるとしたら、アッと驚くような予想外の方法であるが、目からウロコの極めて合理的で単純な方法であったのかも知れない、と私は勝手に想像しています(ニヤリ)。

 

ピラミッド建造の技術力の高さは人間業では理解できないとして、宇宙人建造説を主張する人もいますが、ナンセンスです。

もし、宇宙人が地球に来たとするなら、宇宙人が乗って来た宇宙船は何らかの金属のはずです。ですから、ピラミッドを建造する際に何らかの金属を地球の資源より精製して構造体の全体ないし一部で使われていてもいいはずなのに、すべてが「石」ということは宇宙人関与説に何ら根拠がないことを物語っているのです。

過去ブログでも書きましたが、そもそも宇宙人など存在していないのです。

 

古代の遺跡が発掘されると、その遺跡そのものや発掘品の技術力の高さに驚かされるのですが、それは、人間が「御使いよりいくらか劣る」程度の極めて高い能力を持っていたことを証明するものではないでしょうか。

 

本日の表題(テーマ)「古代人の知能指数は現代人より低い?」に対する私の下した結論は、「古代人は現代人より知能指数は高い」です。

皆さんはどのように考えますか?

最後まで私の個人的な考えに付き合っていただき、ありがとうございます。

 

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https://bible-seisho.jimdo.com/


★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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スマホの本来の所有権者は誰か?

風邪をひいてしまい熱もあって味覚が鈍くなり食べ物の味があまり感じられず2週間ほど気分がすぐれない日々が続いていましたが、一昨日から風邪も治り味覚も回復して本来の食事を楽しむことができるようになりました。

もし、味覚が人間(や動物)に備わっていなくて食事が生きるためだけのエネルギー補給だとすれば、人間の一生は何と味気ないものとなることでしょう。

食事を美味しくいただくことが出来る味覚を授けてくださった創造主(神)に本当に感謝です。

 

さて、次のことを想像してください。

Aオーナーが経営する人気のパン屋さんがあります。

朝早くから三人の職人BCDが色々な種類のパンを作っています。

出来上がったパンの所有権を持つ者は誰でしょうか。

製造した職人BCDですか、それともAオーナーですか。

もちろん、Aオーナーがパンの所有権者ですね。

 

ペットを可愛がる人の中にはペットの犬に衣服を着せる人もいるようですが、ペットの犬が身に着けている衣服や首輪の所有権を持つのは、仮に犬に意志があって犬自身が身に着けている衣服に所有権があると思っていても、飼い主に所有権があることは言うまでもないことです。

 

バカなことを書いているようですが、もう少し辛抱して最後までお読みください。

 

ある自動車メーカーではクルマの製造するためのロボットをまず製造しました。そして、全ての製造工程でロボットがクルマの製造を担当しました。

完成したクルマの所有権者は誰でしょうか。

製造したロボットですか、それとも自動車メーカーですか。

もちろん、ロボットの創造者である自動車メーカーが完成したクルマの所有権者であり、被造物のロボットではないですね。

 

分かり切ったことを長々と書いて来ましたが、上記のことを念頭に置けば、天地万物が創造主(神)によって創造されたことを信じている者は、次のことが容易に理解できるのではないでしょうか。

私たちが所有していると思っているマイカーの本当の所有権者は誰でしょうか。

私たちが所有していると思っているスマートフォンの本当の所有権者は誰でしょうか。

私たちが所有していると思っている衣服の本当の所有権者は誰でしょうか。

 

被造物の人間は確かにクルマ、スマートフォン、衣服を製造し又はそれらの商品を購入してはいるものの人間社会が作った法律の所有権の帰属に関係なく、これらの本来の所有権者は創造主(神)であるのです。と私自身は考えています。

 

今、私はこのブログを書きながら部屋の中を見回していますが、すべての物が創造主(神)のものであり、この地上に私が生きている間に創造主(神)から借りているのであり、あるいは管理を任されているに過ぎないのだと認識しています。

 

次の五つの聖書箇所をご覧ください。

テモテへの手紙第一6:7~10

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伝道者の書5:15

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詩篇49:17

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コリント人への手紙第一8:6

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コロサイ人への手紙1:15~17

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万物は創造主(御子イエス・キリストによって造られ、そして、維持されています。

 

私たち人間は、この世に何も持たずに生まれ、何も持たずに死ぬことになるのです。

人間がこの世に生きている間に人間が造った全ての物も、創造主(神)から授けられた能力(賜物)があるからこそ造ることが出来たのです。

創造主(神)が直接造った万物の所有権はもちろん、被造物の人間が造ったあらゆる物の所有権は創造主(神)にあるのです。

これらのことを認識すれば、すべてのことに対して創造主(神)に感謝する心が自然に芽生え、創造主(神)の栄光を崇め讃えたくなる気持ちも自然に湧いてくるのです(という現在の私の心境)。

皆さんはどのようにお考えになりますか。

 

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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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人間の考えと創造主(神)の御心

イエス・キリストを信じていないA・B・Cの三人は、それぞれ心の中で「神が愛なら、こんなこと(戦争、災害、病、障害など)を許すはずがない。」と思っています。

しかし、A・B・Cの考える「愛」の定義にはかなりの違いがあるようです。

 

創造主(神)は、この三人の機嫌を窺うために創造主(神)が定めておられる「愛」を曲げて、この三人それぞれが主張する愛の希望に沿うように行動しなければならないのでしょうか。

この三人の一時的な非難を避けるために創造主(神)が天地万物の創造の初めからご計画されている人類救済計画を放棄しなければならないのでしょうか。

 

「愛」が何であるかは創造主(神)が定められるのであって、被造物の人間が定めるべきものではありません。

 

イエス・キリストを信じる者が救われる人類救済計画は必ず実現します。

 

ここで、内村鑑三の言葉を引用します。

我(人間)が思うところはつねに神の見るところと異なる。

 

「人間は幸福になるために生まれてきた。だから、あなたも幸福になる権利がある。」という言葉を耳にすることがあります。

誰もこの言葉に反論しない?でしょう?

 

しかし私は聖書を学ぶ前からこの言葉に素直に頷くことは出来ないでいました。

何故、この言葉に疑問を持っていたのか、具体的な答えをもっていたわけではありませんでしたが、違和感だけはいつも持っていたのです。

 

この疑問と違和感が聖書を学ぶようになって初めてわかりました。

聖書のどこにも「人間は幸福になるために生まれてきた。」などとは書いていないのです。

真理の書である聖書に書いていないということはどういうことでしょうか。

つまり、人間にとって最重要ではないということなのかもしれません。

 

聖書に書いていること、つまり、創造主(神)の望まれることは「聖」であるキリストのようになることであり(レビ記14:44~45)、マルコの福音書に書かれているキリストの次の言葉です。

マルコの福音書12:28~31

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敢えて言えば、創造主(神)の御心に従うことが、結局、人間にとっての「幸福」なのではないでしょうか。

もちろん、人間が幸福になることを願うのはごく自然な感情であり何ら問題ないのですが、創造主(神)に背を向けた(主イエス・キリストを信じない)状態で幸福を人生の目的とすることに問題があるのです。

人間は「幸福」になることを目指すのではなく、「キリスト」のようになることを目指すべきなのです(このことが全くできていない私です。自戒を込めて)。

 

キリストが語った次の聖書箇所をご覧ください。

ヨハネ福音書12:25

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この聖句に関して、内村鑑三は次のように言っています。

幸福は人生最大の獲物ではない。義務は幸福にまさりてさらに貴くある。義務のゆえにわれらはたびたび幸福をすてざるを得ない。しかして義務のためにわれらのこうむる損失は損失ではないのである。・・・中略・・・人生は犠牲である。犠牲なくして人生は無意味である。幸福は人生の目的ではない。犠牲こそ人生の華(はな)なれである。

 

↓ ↓ 聖書の他の重要なテーマについては、こちらをご覧ください。

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・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

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・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

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義認 → 聖化 → 栄化(その⑤)

「何故、創造主(神)は人間を罪を犯すことのない『聖』なる者として創造しなかったのか?」

「聖」なる者として創造していれば、いけにえの血やキリストの血も必要なかった筈だし、「義認」「聖化」「栄化」などの過程を経る必要もないのです。

 

聖書を学び始めた頃はもちろんですが、聖書の学びがかなり進んだキリスト者であっても、上記の疑問が解決出来ないでいる人が少なからずいるのではないでしょうか。

私もアレコレと無い知恵を絞りながら考えてみたのですが、当然ですが創造主(神)の御心がそう簡単にわかるはずもありません。

ところが、ある時、ふと気付きました。聖書を丸ごと信じているように「創造主(神)のなさることに間違いはないのだから丸ごと徹底的に信頼しよう。」ということを。

人間がキリストのようになるためには、いけにえの血が必要であり、キリストの血も必要であり、義認から聖化を経て栄化によって完成することが必要である、と創造主(神)が定めたことを「ハイ、わかりました」と受け入れるだけなのです。

 

私たち人間は、土のチリから造られた土の器に過ぎません(創世記2:7)。

土の器に過ぎない人間が、陶器師である創造主(神)の御心にケチをつけて「これじゃダメだ。このようにしてくれ。」と命じてよいものでしょうか。

 

次の三つの聖書箇所をご覧ください。

イザヤ書64:8

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エレミヤ書18:1~6

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ローマ人への手紙9:20~21

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陶器師(創造主)が定めたことに「何故」という疑問を持つ資格など土の器(人間)にはないのです。

創造主(神)が、いけにえの血、キリストの血、義認、聖化、栄化の過程が必要であるとお定めになったことを土の器に過ぎない人間はただ信頼して受け入れるだけなのです。

 

アンドリュー・マーレー(1828年~1917年)は次のように著書に書いており、「何故、創造主(神)は人間を罪を犯すことのない『聖』なる者として創造しなかったのか?」の疑問に対する答えとなるヒントを与えてくれているようです。長い文章ですが、最後までお読みいただければ幸いです。

「『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造ろう(創世記1:26)。』人間についての聖書の幕を開く、この創造に関する神の協議のことばの中に、私たちは、人の存在の永遠の目的と、人に定められている栄光ある永遠の未来についての啓示を見いだします。ご自分のかたちと似姿となり、見えない神の栄光の目に見える現われとなる、神のような被造物を造ろうと、神は提案しておられるのです。創造されたものであるが神のような存在を造ったということは、まことに、無限の知恵にふさわしいわざでありました。神がほかのすべてのものに対して絶対的に独立していて、ご自分のうちにいのちを持ち、ご自分以外の何ものにも依存しないということは、神の性質であり、また神の栄光であります。もし人が神のようになろうと思うなら、彼(人)はみずからの選択の自由を用いて、彼のあるべき状態に達するという点で、神のかたちに似せられるべきであります。すなわち彼は、自分自身をみずから造りあげていく義務があるのです。一方、ほむべき創造主に依存し、いっさいを負うということは、被造物の性質であり、栄光であります。ところで、依存してはいるが、自分で決定する権限を持ち、造られた存在ではあるが、神のようになるというこの矛盾は、どのようにして解決されるのでしょうか。この奥義は、人において解決されます。神は被造物として人にいのちを与えられますが、同時に、自由意志という驚くべき力をも授けられるのです。神に似せられるといった非常に高度できよい現象が真に人のものとなるのは、彼の個人的で自発的な営みの過程においてのみ、可能であります。罪が介入して、人が高い目標から脱落したときにも、神はご自分の目的を放棄されませんでした。神の、イスラエルの民に対する啓示のうちで中心となる思想は、『わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない(レビ記11:44~45)。』でありました。神に似せられるということは、神のわざの最高の仕上げでありますが、それがイスラエルの望みとなるべきであったのです。あがないは、創造が現わした以上の理念を持っていませんでした。それはただ、永遠の目的を取り上げ、成就するだけであったのです。このことを考慮に入れて、御父は、ご自分のかたちそのものである御子(キリスト)を、地上に遣わされました。彼(キリスト)にあって私たちが創造されたそもそもの目標であり、私たちが個人的に自分のものしなければならない特権である神の似姿は、人の姿のうちに現されたのです。彼は私たちに、神のかたちと同時に私たち自身のかたちをも示すため、地上に来られました。彼を仰ぐことによって、私たちが長い間失っていた神の似姿への願望が目ざめます。また、そのかたちに変貌させられるために自分自身をゆだねる勇気のもととなる、望みと信仰が、誕生すべきであるのです。このことを成就するために、彼のなすべき二重の働きがありました。その一つは、私たちが、その似姿にかたどられた生涯とはどのようなものであるか、私たちのあがない主としての神からそれを期待し、受け取るとはどのようなものであるかを知るために、彼の生涯において、神の似姿を現わすということでありました。彼はこのことをなしとげ、人の姿において神のいのちの似姿を私たちに示したのち、神の似姿のいのちであるご自分のいのちを私たちに分け与えるため、死なれました。それは私たちが、彼のいのちの力によって、私たちが彼のうちに見たとおりの似姿をもって生きるためでありました。彼が天に昇られたのは、聖霊によって私たちに、彼がまず私たちの前に置き、続いて私たちに与えるために獲得された、そのいのちの力を注ぐためであったのです。主のこの二つの働きの間にどのような関係があり、しかもそれらが互いに依存しているということは、容易に知ることができます。彼は、私たちのあがない主として死ぬことにより、私たちの模範としてご自分の生涯で現わされたものを実現する力を、私たちのために備えられました。彼の地上のいのちは、私たちの歩むべき道を示し、彼の天上のいのちは、その道を歩むための力を提供しています。神が合わせられたものを、だれも引き離すことはできません。あがないへの十分な信仰に立たない人は、模範に従う力を自分のものとすることができません。また、あがないの一大目標である、神のかたちに似せられることを求めない人は、その力の中に十分にはいっていくことができません。キリストは、ご自分の生涯において神のかたちを示すため、地上で生きられました。彼はまた、私たちが自分自身の生涯において神のかたちを現わすため、天上に生きておられるのです。」

 

皆さんが聖書研究の過程で様々な疑問を持つこともあるでしょうが、その疑問と良い意味で格闘して聖霊に導かれて「真理」に到達できることを心より願います。

 

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・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

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<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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義認 → 聖化 → 栄化(その④)

 

(その③)の続き。

 

このブログを書きながら、今更ながら感じていることがあります。

それは聖書研究が聖書の中にちりばめられた創造主(神)から出て来る「真理のことば」というお宝を発見するようなもので、トレジャーハンターが長年探し求めていたお宝を発見した心持ち以上の歓びを私にもたらしてくれているということです。

この歓びの中で最大のものは創造主(神)を発見出来たことであり、主イエス・キリストを信じることにより「神の子」とされたということです。

 

「説教者の中の説教者」と言われたイギリスのC・H・スポルジョン(1834年~1892年)は、貧しさや病に苦しむ信徒に対して次のように説教しています。

何も持っていなくても、神の子であるあなたには、大いに誇ることのできる、永遠の富としての神が与えられているではありませんか。この主なる神を信ずることによって、あなたはあらゆるものを持っているのです。すべてのものは、神から来ているからです。たとえ、すべてのものが失われても、主は再びそれらを与えてくださいます。主が語られると、そのとおりになるからです。主からの命令がなければ、何ものも動くことはありません。

聖書を学び始める前までと学び始めて間のない頃で創造主(神)の真の御力とその溢れる恵みを知らない頃の私がこのスポルジョンの説教を聞いたなら、「そんなものかなあ~」と思う程度で風が過ぎ去るように何一つ心に響くものを感じることはなかったでしょう。

しかし、聖書研究が進むに従い創造主(神)の臨在を感じるようになり、私たちにいのちを授け、私たちのいのちを維持している創造主(神)の全能の御力を理解することができてからは、このスポルジョンの説教の一つ一つのことばが真実であることがわかります。

このスポルジョンの説教と前々回のブログで引用した「神の相続人であり、キリストとの共同相続人」(ローマ8:17)という聖句によって、「神の子」が父なる神の相続人として父なる神が備えてくださっているお宝(恵み・賜物)を必ずや受け継ぐことになるという確信が私の心の中に刻まれるのです。

 

さて、本日のテーマに入りますが、次の三つの聖書箇所をご覧ください。

ヨハネの手紙第一2:6

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創世記1:26

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ローマ人への手紙8:28~30

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<注>30節末尾は「栄光をお与えになりました」と過去形になっているのは創造主(神)の視点から言っているのであり、人間の立場からすればキリストを信じる者の将来に起こることである。

 

創造主(神)が望まれていることは、神(三位一体の第二位格の神であるキリスト)に似せて造った人間の外面だけでなく、内面をもキリストのように「聖」になることなのです。

そして、キリストのようになる成長の過程が「聖化」であり、「栄化」とは、創造主(神)が神に似せて人間を創造した本来の姿(内面、外面ともに)に立ち返ることであると言えます。

しかし、前回ブログでも書きましたが、人間の努力や業(わざ)で「聖化」及び「栄化」を成し遂げることは不可能です。

「聖化」及び「栄化」ともに聖霊と創造主(神)の御業(恵み・賜物)によるのです。

 

次の二つの聖書箇所をご覧ください。

コリント人への手紙第一15:47~58

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<注>47節の「第一の人」とはアダムであり、「第二の人」はキリストを指す。

 

ピリピ人への手紙3:20~21

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「栄化」とは、肉体の復活とともに霊的・内面的にキリストと同じ姿の栄光のからだが授けられることなのです。

 

蝶が幼虫のイモムシからサナギになり成虫の蝶に成長していくのは、蝶自身の努力によるのではなく創造主(神)の恵みであるように、罪人の人間がキリストと同じ姿に変えられていく「聖化」及び「栄化」は、人間の努力(業)によるのではなく、主イエス・キリストを信じる信仰による創造主(神)の恵みによるのです。

イエス・キリストを信じる者は、創造主(神)が定めたその時が来れば、蝶がサナギから成虫に変身(変態)するように、一瞬のうちにキリストと同じ姿に変えられていくのです。

 

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https://bible-seisho.jimdo.com/

 

★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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義認 → 聖化 → 栄化(その③)

 

(その②)の続き。

 

早速ですが、ヨハネ福音書17:3をご覧ください。

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私の住む福岡市内にある福岡六本松キリスト福音教会の折田泰彦牧師(1942年~)は、九州大学医学部を卒業後内科医として現在も医療に携わりながら牧師をされていますが、折田牧師の著書「天声塵語」の中で上記の聖句に関して次のように述べている箇所があったので、一部引用したいと思います。

「(楊貴妃を寵愛した)玄宗皇帝ならずとも、いつの時代にも人間は永遠に続くいのちを求めています。永遠のいのちとはどのようなものでしょうか。それは、キリストと神様に知り合いになり、さらにもっと親しく付き合い、この方々のすばらしさを知ることだというのです。キリストを信じた時から永遠のいのちはもうすでにこの地上で始まっています。ですから、永遠のいのちは、この地上での神の国の一員としてのいのちとこの地上の生涯の彼方にある神の御国での永遠に続くいのちとに分けることができます。人がまことの神とその御子キリストを知り、信じ、受け入れると、肉体の生命の上に新しい霊のいのちを与えられ、この地上の肉体の生命を持ちながら、霊のいのちを生きていくのです。」

日々、医師として真摯に「いのち」と向き合っている中で聖書で示されている「永遠のいのち」を信じている折田牧師のことばには説得力があります。

 
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聖書を読んだことがなく、イエスが実在した人物であったのかなかったのかも吟味したことのない人からすれば、私を含め「永遠のいのち」を信じているキリスト者は「頭がオカシイ人たち」ということになるのでしょう。ということは、この医師でもある折田牧師も「頭がオカシイ人」ということになりますね。

しかし、決してそうではありません。

聖書を真剣に学べば「永遠のいのち」が空想や妄想ではなく、創造主(神)から授けられる恵みであることが理性的に理解できるはずです。

一日でも早く、一人でも多くの人たちが聖書を学ばれることを心より願います。

過去の当ブログで私も書きましたが、折田牧師も書いているように「キリストを信じた時から永遠のいのちはもうすでにこの地上で始まっています。

 

さて、前回の続きに入ります。

「義認」の恵みは、キリストを信じる者に対する創造主(神)からの一方的な祝福です。

陸上選手が100メートルを10秒切って走るから、オリンピックで金メダルを取ったからとか、ノーベル賞を受賞するほどの能力があるからといった人間側に特別の能力があるから「義」と認められ「神の子」されるわけではありません。

何故なら、本人の努力自体は賞賛に値するものであるが、それらの能力も元は創造主(神)の創造の賜物であって、人間側には何の誇るところもないのです。

「義認」は主イエス・キリストを信じる信仰による恵みなのです。

 

「義認」の教理に続いて「聖化」について検討しますが、次の聖句をご覧ください。

ペテロの手紙第一1:15~16

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<注>16節はレビ記からの引用です。

レビ記11:44~45

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これらの聖句に記されているように完璧に「聖」である創造主(神)は主イエス・キリストを信じる者にも「聖」であるよう求めておられます。

しかし、主イエス・キリストの血の贖いによりキリストを信じる者が表面的には「義」と宣言されても、以前として人間に内在するアダムから引き継いでいる堕落した本能、罪を犯す旧い性質(これをパウロは「肉」の性質と表現する)が取り除かれたわけではありません。

パウロも己の中にある旧い性質、肉の性質について次のように記しています。

ローマ人への手紙7:18~21

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人間のこの罪を犯す旧い性質を取り除く方法はあるのでしょうか。

次の聖書箇所をご覧ください。

コリント人への手紙第一6:9~11

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私たち人間の努力や業(わざ)だけで罪を犯す旧い性質から解放されることは不可能です。

この聖句にあるように「御霊(聖霊)」に助けていただけなければ罪を犯す旧い性質を洗い流すことはできないのです。

ローマ人への手紙8:26~27をご覧ください。

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ここで、J・I・パッカーの著書から引用します。

「『聖化』とは罪が完全根絶されることでも、罪が単に妨害されることでもなく、私たちを罪の習慣から解放し私たちのうちにキリストのような思いや気質や徳を形成するような、神によってもたらされた全人格の変化である。」

 

結局、聖化とは、キリストを信じた者が「聖」であるキリストのようになるために御霊(聖霊)の助けを受けながら成長(変化)する過程であるということができます。

 

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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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義認 → 聖化 → 栄化(その②)

 

(その①)の続き。

 

前回の「義認」の続きに入りますが、J・I・パッカーは「義認」について次のように説明しています。

「義認とは、罪人(邪悪で不敬虔な者)を赦す神の法的な行為であり、彼らを義と認められた者として受け入れ、以前は神から離れていた彼らと神ご自身との関係を永遠に正しいものとする。この義と認める宣告は神が与える義の恵み(賜物)であり、キリストのゆえに神が私たちを受け入れてくださっているという立場を与えるものである。・・・中略・・・義と認められるために必要な手段は、イエス・キリストが十字架につけられた救い主であり復活した主であると信じる個人的な信仰である。」

少し難しい説明だったかもしれませんが、つまり「義認」とは創造主(神)の恵みによって主イエス・キリストを信じた者を「義(人)である」と認めてくださることです。

 

しかし、ここで注意すべきことは「義認」によって私たち人間の本質が「義」となるわけではなく、あくまでも、創造主(神)の恵みによって「義である」と看做してもらえるということなのです。

創造主(神)が主イエス・キリストを信じた者を「義である」と宣言してくださっても、アダムから引き継いでいる堕落した本能、罪を犯す旧い性質(これをパウロ「肉」の性質と表現する)を持っている人間であることに変わりがなく、主イエス・キリストの「義」が、信じた者の上に「転嫁てんか)」(別の言い方をすれば義が移る)されるということなのです。

 

パウロが「肉」の性質について語っている聖書箇所を一つ引用します。

ガラテヤ人への手紙5:16~21

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<注>「御霊」とは「聖霊」のことです。

 

前回のブログで「義人はいない、ひとりもいない。」(ローマ人への手紙3:10)という聖書箇所を引用したように「義人はいない」のです。

しかし、主イエス・キリストを信じる信仰によって、創造主(神)の恵みによって「義」とされるのです。

 

ですから、いくら人間が多くの徳を積んだり、座禅をしたり、滝に打たれる修行をしたり、護摩業をしたり、千日回峰行を死ぬ思いでしても、「義人」となることは不可能なのです。とにかく「義人はいない」のです。

 

人間の努力、業(わざ)で「義」に到達することは不可能です。

何故なら、創造主(神)が人間を創造する際に、罪を犯さない義人を創造すれば済むことなのに、それをしないでいるところに奥義(神が人間に秘密にしていること)があり、創造主(神)が求めているのは人間の虚しい努力や業(わざ)ではなく、創造主(神)を信じること、つまり、主イエス・キリストを信じること、この一点を求めているのです。と私は理解しています。

 

全ては創造主(神)の恵みです。

命を授けてくださったことが第一の恵みであり、主イエス・キリストを信じる信仰により「義」とされることも恵みです。

次の三つの聖書箇所をご覧ください。

ガラテヤ人への手紙3:26

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ヨハネ福音書1:12

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ローマ人への手紙8:17

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「義認」の恵みは、主イエス・キリストを信じる信仰により創造主(神)の子としての立場をもたらすものです。

これは、創造主(神)がキリストを信じる者の天の父であるという永遠に続く親密な関係を持つことなのです。

そして、創造主(神)の恵みによってキリストを信じる者をご自分の子にするということは、何のとりえもない者が「神の相続人であり、キリストとの共同相続人」になるという祝福をもたらすことになるのです。

相続とは受け継ぐということであり、父なる神のものをキリストと一緒(共同)に相続(受け継ぐ)するという、これ以上大きな祝福はないというほどの祝福を受けることになるのです。

父なる神はキリストを信じる者である自分(神)の子たちに様々な財産(恵み・賜物)を与える準備をしており、一人でも多くの人間がキリストを信じる者となることを望んでいて、その時(キリストの再臨)が来るまで忍耐しておられるのです。

 

ここで再度J・I・パッカーの著書から引用します。

「義認は土台となる祝福であり、神の子とされることは義認に基づいている。神の子とされることは最高の祝福であり、義認はそのための道を開く。神の子としての身分は、キリストを受け入れるすべての者に与えられる。キリストを信じる者が子としての身分を持つということは、キリストにあって、そしてキリストによって、神がご自身のひとり子を愛するように彼らを愛し、そして今はキリストのものであるすべての栄光を彼らに分け与えるということを意味する。」

 

テレビ番組で、その言動からキリスト教徒とは思えないアナウンサーが、同じくその言動からキリスト教徒とは思えないある特別の才能を持つ人を「神の子」と呼ぶことがありますが、聖書に基づく「義認」の恵みを理解すればキリストを信じていない者を「神の子」と呼ぶことは相応しくないことがわかります。

 

「義認」についてもっともっと書きたいことがありますが、当ブログでは出来るだけ簡潔に聖書のエッセンスを書くことに努めているので、「義認」の説明はここまでにして、次回は「聖化」について検討したいと思います。

 

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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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