星 周作 Blog

★ 福岡より〇〇をこめて  ★

義認 → 聖化 → 栄化(その⑤)

「何故、創造主(神)は人間を罪を犯すことのない『聖』なる者として創造しなかったのか?」

「聖」なる者として創造していれば、いけにえの血やキリストの血も必要なかった筈だし、「義認」「聖化」「栄化」などの過程を経る必要もないのです。

 

聖書を学び始めた頃はもちろんですが、聖書の学びがかなり進んだキリスト者であっても、上記の疑問が解決出来ないでいる人が少なからずいるのではないでしょうか。

私もアレコレと無い知恵を絞りながら考えてみたのですが、当然ですが創造主(神)の御心がそう簡単にわかるはずもありません。

ところが、ある時、ふと気付きました。聖書を丸ごと信じているように「創造主(神)のなさることに間違いはないのだから丸ごと徹底的に信頼しよう。」ということを。

人間がキリストのようになるためには、いけにえの血が必要であり、キリストの血も必要であり、義認から聖化を経て栄化によって完成することが必要である、と創造主(神)が定めたことを「ハイ、わかりました」と受け入れるだけなのです。

 

私たち人間は、土のチリから造られた土の器に過ぎません(創世記2:7)。

土の器に過ぎない人間が、陶器師である創造主(神)の御心にケチをつけて「これじゃダメだ。このようにしてくれ。」と命じてよいものでしょうか。

 

次の三つの聖書箇所をご覧ください。

イザヤ書64:8

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エレミヤ書18:1~6

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ローマ人への手紙9:20~21

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陶器師(創造主)が定めたことに「何故」という疑問を持つ資格など土の器(人間)にはないのです。

創造主(神)が、いけにえの血、キリストの血、義認、聖化、栄化の過程が必要であるとお定めになったことを土の器に過ぎない人間はただ信頼して受け入れるだけなのです。

 

アンドリュー・マーレー(1828年~1917年)は次のように著書に書いており、「何故、創造主(神)は人間を罪を犯すことのない『聖』なる者として創造しなかったのか?」の疑問に対する答えとなるヒントを与えてくれているようです。長い文章ですが、最後までお読みいただければ幸いです。

「『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造ろう(創世記1:26)。』人間についての聖書の幕を開く、この創造に関する神の協議のことばの中に、私たちは、人の存在の永遠の目的と、人に定められている栄光ある永遠の未来についての啓示を見いだします。ご自分のかたちと似姿となり、見えない神の栄光の目に見える現われとなる、神のような被造物を造ろうと、神は提案しておられるのです。創造されたものであるが神のような存在を造ったということは、まことに、無限の知恵にふさわしいわざでありました。神がほかのすべてのものに対して絶対的に独立していて、ご自分のうちにいのちを持ち、ご自分以外の何ものにも依存しないということは、神の性質であり、また神の栄光であります。もし人が神のようになろうと思うなら、彼(人)はみずからの選択の自由を用いて、彼のあるべき状態に達するという点で、神のかたちに似せられるべきであります。すなわち彼は、自分自身をみずから造りあげていく義務があるのです。一方、ほむべき創造主に依存し、いっさいを負うということは、被造物の性質であり、栄光であります。ところで、依存してはいるが、自分で決定する権限を持ち、造られた存在ではあるが、神のようになるというこの矛盾は、どのようにして解決されるのでしょうか。この奥義は、人において解決されます。神は被造物として人にいのちを与えられますが、同時に、自由意志という驚くべき力をも授けられるのです。神に似せられるといった非常に高度できよい現象が真に人のものとなるのは、彼の個人的で自発的な営みの過程においてのみ、可能であります。罪が介入して、人が高い目標から脱落したときにも、神はご自分の目的を放棄されませんでした。神の、イスラエルの民に対する啓示のうちで中心となる思想は、『わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない(レビ記11:44~45)。』でありました。神に似せられるということは、神のわざの最高の仕上げでありますが、それがイスラエルの望みとなるべきであったのです。あがないは、創造が現わした以上の理念を持っていませんでした。それはただ、永遠の目的を取り上げ、成就するだけであったのです。このことを考慮に入れて、御父は、ご自分のかたちそのものである御子(キリスト)を、地上に遣わされました。彼(キリスト)にあって私たちが創造されたそもそもの目標であり、私たちが個人的に自分のものしなければならない特権である神の似姿は、人の姿のうちに現されたのです。彼は私たちに、神のかたちと同時に私たち自身のかたちをも示すため、地上に来られました。彼を仰ぐことによって、私たちが長い間失っていた神の似姿への願望が目ざめます。また、そのかたちに変貌させられるために自分自身をゆだねる勇気のもととなる、望みと信仰が、誕生すべきであるのです。このことを成就するために、彼のなすべき二重の働きがありました。その一つは、私たちが、その似姿にかたどられた生涯とはどのようなものであるか、私たちのあがない主としての神からそれを期待し、受け取るとはどのようなものであるかを知るために、彼の生涯において、神の似姿を現わすということでありました。彼はこのことをなしとげ、人の姿において神のいのちの似姿を私たちに示したのち、神の似姿のいのちであるご自分のいのちを私たちに分け与えるため、死なれました。それは私たちが、彼のいのちの力によって、私たちが彼のうちに見たとおりの似姿をもって生きるためでありました。彼が天に昇られたのは、聖霊によって私たちに、彼がまず私たちの前に置き、続いて私たちに与えるために獲得された、そのいのちの力を注ぐためであったのです。主のこの二つの働きの間にどのような関係があり、しかもそれらが互いに依存しているということは、容易に知ることができます。彼は、私たちのあがない主として死ぬことにより、私たちの模範としてご自分の生涯で現わされたものを実現する力を、私たちのために備えられました。彼の地上のいのちは、私たちの歩むべき道を示し、彼の天上のいのちは、その道を歩むための力を提供しています。神が合わせられたものを、だれも引き離すことはできません。あがないへの十分な信仰に立たない人は、模範に従う力を自分のものとすることができません。また、あがないの一大目標である、神のかたちに似せられることを求めない人は、その力の中に十分にはいっていくことができません。キリストは、ご自分の生涯において神のかたちを示すため、地上で生きられました。彼はまた、私たちが自分自身の生涯において神のかたちを現わすため、天上に生きておられるのです。」

 

皆さんが聖書研究の過程で様々な疑問を持つこともあるでしょうが、その疑問と良い意味で格闘して聖霊に導かれて「真理」に到達できることを心より願います。

 

↓ ↓ 聖書の他の重要なテーマについては、こちらをご覧ください。

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https://bible-seisho.jimdo.com/

 


★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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