星 周作 Blog

★ 福岡より〇〇をこめて  ★

いけにえの血と贖い(その①)

 

早速ですが、本日のテーマに入ります。

まず、旧約聖書レビ記1:1~5をご覧ください。

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聖書は血生臭いから好きになれない、と言われる方がいたりします。

恐らく、旧約聖書の上記のレビ記のいけにえの血や新約聖書のキリストの血の意味することを知らないで、血だけをクローズアップして拒否反応を示しているのだろうと思われます。

 

「いけにえの血」と「キリストの血」について、3人のキリスト者の著書から引用します。

内村鑑三は次のように書いています。

旧約聖書は『真の物の模(かた)』である。神の子(イエス)をもって施されるべき完全なる救いをあらかじめ教えんがために、レビ記の示すがごとき、しかも精密なる儀式が行われたと見て、この書(レビ記)の価値が充分に認められる。まことに罪のゆるしは容易のことではない。『血を流すことなくしてゆるさるることなし』(ヘブル9:22)。ただ悔いただけでゆるさるるにあらず、ただ祈っただけできよめらるるにあらず、あるものが罪人に代わって血を流さねばならぬ。まことにいとうべき血なまぐさき教えである。ゆえにある人は聖書の宗教を称して『屠殺者の宗教』であるという。牛、羊、山羊、鳩、これらを神の前に殺してその血を流すにあらざれば、罪のゆるしとこれに伴うすべての恩恵はくだらないという。まことに無慈悲きわまる宗教であるように見える、されどもこれ人生の事実なるをいかんせん。神の子(イエス)が一点の罪なくして人類全体に代わりその罪を負いて血を流し、狂暴の死(十字架)につきたりと知って、信者各自の心の奥底に真の平安を覚ゆる理由はここにあるのである。」

 

続いてF・B・マイヤーです。

「犠牲のうち、全焼のいけにえ(燔祭・はんさい)について示されています。このいけにえは、全部焼いてささげるので、その名があります。すべてが焼かれるということは、全き献身を意味しています。人はこの祭を行なって、自らの献身の全きことを示したのです。そして、それは、やがて来るキリストの犠牲の死を預言するものでもありました。『キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました』(エペソ5:2)。まさに御子(キリスト)の御父に対する献身は完全無欠でした。」

 

最後にJ・I・パッカーです。

「贖い(あがない)とは償いをすること、違反を抹消すること、不正行為に対する賠償をすること、したがって離反した相手と和解し、引き裂かれた関係を修復することを意味する。聖書は、すべての人間が自分の罪に対する贖いを必要としており、しかも自分で自分の罪を贖うための力も能力も完全に欠いている者であると述べている。私たちは聖い神に対して罪を犯した。聖い神のご性質は罪を憎み、罪を罰することである。このような神に受け入られること、あるいは交わりを持つことは、贖いがなされない限り期待することはできない。私たちの最高の行いの中にさえ罪がある以上、罪の償いをしようとして私たちがどんなことをしたとしても、それは私たちの罪責感を増すか、状況を悪化させるだけである。・・・中略・・・私たち人間が神に対して罪を犯したにもかかわらず、創造者なる神は、私たちの罪ゆえに必要となった贖いをご自身で用意された。この驚くべき恵みが、新約聖書の信仰、希望、礼拝、倫理、霊的生活の中心である。・・・中略・・・神がイスラエルをエジプトから連れ出したとき、神は契約関係の一部として、『肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちの贖いをするのは血である。』(レビ記17:11)、傷のない動物の血を流してささげることを中心とする犠牲の制度を定めた。これらの犠牲は『象徴』であった(すなわち、それらは『予型』として将来に来る別のもの(キリスト)を指し示していた)。犠牲が忠実にささげられたときに、罪は事実上見のがされきたが(ローマ3:25)、罪を実際に消し去ったものは動物の血ではなく(ヘブル10:11)、『対型』である罪のない神の御子イエス・キリストの血であった。十字架によるキリストの死は、十字架以降に犯された罪ばかりでなく、十字架以前に見のがしてきたすべての罪をも贖った(ローマ3:25~26)。新約聖書が、キリストの血について言及するとき、それは常に犠牲(いけにえ)としての血である(ローマ5:9)。」

 

以上3人のキリスト者が語っているように旧約聖書レビ記に書かれている牛や羊などの動物の「いけにえの血」は、後に現れて十字架上で血を流されることになる主イエス・キリストの「型(かた)」だと言うことなのです。

 

イエス・キリストは人間の罪の贖いのために、ご自身を「いけにえ」としてささげてくださったのですが、キリストがリアルに登場する新約聖書だけでなく、未だキリストがリアルに登場しない旧約聖書を含む聖書全体が主イエス・キリストを抜きにしては意味をなさないものです。

 

内村鑑三は次のように語ります。

「聖書は一名これをイエス・キリストの伝記というてもよいと思います。その旧約聖書なるものは、キリストがこの世に生まれて来るまでの準備をのべたものであって、新約聖書は、キリストのこの世における行動や、あるいは直接にキリストに接した人の言行等を伝えたものであります。もし聖書の中からキリストという人物を取り除いて見るならば、ちょうど石橋より枢石(かなめいし)を引き抜いたようなものでございまして、その全体が意味も形象(かたち)もないものとなるだろうと思います。聖書の解し難いのは、文字のゆえではなく、また理論のこみ入っているわけでもなく、じつにキリストがその枢石である事がわからないからでございます。それゆえ、ひとたびキリストと彼の真意とがわかりさえすれば、聖書ほど面白い書は世の中にまたとなく、またこれほど読みやすい書はないようになります。」

 

つまり、「旧約聖書新約聖書」イコール「真理」イコール「主イエス・キリスト」なのです。

 

イエス・キリストを信じたからといって、キリスト者がお金持ちになったり、この世の成功者になるわけではありません。依然として、予期せぬ苦難が降りかかり、病に侵されることもあります。しかし、キリストを信じた後はキリストを信じる前とは全く異なり、苦難や病さえも別の意味を持ちはじめ、心に平安と歓びが満たされることになるのです。

私自身も個人的には困難な問題を度々抱えることになる人生を日々過ごしているわけですが、聖書の真理を知り聖書にのめり込む日々を過ごすことによって、主イエス・キリストにあって、苦難の中にあっても心は平安であり歓びに満たされている日々なのです。

 

↓ ↓ (その②)はこちらをクリック

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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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中村久子、知ってるつもり

記憶がおぼろげですが、20代半ばの頃に見たテレビ番組で両腕がない外国の女性が次のように言っていたことがいつまでも忘れずに心に残っています。

 

私は障害者じゃない。だって、なんでも出来るもの。

 

この言葉通り、番組では彼女が一人暮らしをしていて、高いイスに腰掛けて足の指で包丁を握って食料を切っている様子が映し出されたり、プールで見事な泳ぎを見せてくれていました。体全体をクネクネと動かして息継ぎもしながら見事に泳いでいるのでした。

 

確かに彼女が言うとおり、彼女は障害者ではないのだ、と私に思わせてくれました。

 

健常者である私は、人生の様々な場面で、あれは俺には出来ない、これも俺には出来ない、と自分の限界を定めていたことが恥ずかしくなり、自分自身の心のありように障害があったんだと気付かされたものです。

 

もう一人私が忘れられない女性がいます。

その女性は「中村久子さん」です。

20代後半の頃に勤めていた会社の社員教育の一環で外部の社員教育機関の研修に参加した際の最終日に講師が話した中村久子さんのことです。

 

幼い頃に両手と両足を失った彼女でしたが、想像出来づらいことですが、口を使って糸を針に通し、そして、縫い物をするのです。

講師の語りが実に上手く話しに引き込まれ、私だけでなく参加していた他の会社の社員の人たちも涙ぐんでいたようです。

 

一時期、社会人向けの資格試験の受験指導校に勤務し講師をしていた時に、この中村久子さんの話の感動を受講生の方々に伝えたくて予定の講義内容を早めに切り上げて、若気の至りとは言え恥知らずにも、この時の講師の話ぶりを真似て語ったりしました。

講義を早めに切り上げたにも拘わらず、クレームもなく、私より年上の受講生から「良い話を聞いた」と評価する声をいただいたり、食事を誘ってくれる方もいました。

もちろん、私の話が良かったわけではなく、中村久子さんの生涯に感動してくださったのであり、社員研修の講師の話し方をそのまま真似て語っただけのことでした。

 

今、振り返ると赤面もので、今だったら絶対出来ません(ああ~恥ずかしや)。

 

話は脱線しますが、この受験指導校があったのが福岡市中央区大名という場所なのですが、当時はまだそんなに人通りが多くはなく、今では「天神西通り」と呼ばれ多くの人で賑わっています。

この「天神西通り」から一歩入った場所に今ではラーメン界の巨人になっている「博多一風堂」の創業店がありました。ランチを食べるために創業(昭和60年)間もない頃の一風堂に初めて入った時に、今までのラーメン店のイメージとは全く異なる雰囲気を感じたものです。

記憶違いかもしれませんが、確か、ラーメン店らしからぬジャズが流れていたように記憶します。今ではジャズの流れるオシャレなラーメン店も珍しくないですが、その当時ジャズを流すラーメン店などなかったはずです。

ドンブリも今までのラーメン店にはないオシャレな器を使っていて、食べるとラーメンなのは間違いないのですが、それまで食べていたラーメンの麺やスープとは異なるものだったように記憶しています。味はもちろん申し分ないものでした。

この頃の店主の河原さん(力の源カンパニー社長)も若く、ラーメン界に革命を起こしてやろうというような意気込みと野望があったのではないか、と勝手に想像します。

 

脱線しましたが、話を戻します。

この中村久子さんのことを知ってから数年後に関口宏が司会するテレビ番組の「知ってるつもり」で中村久子さんが取り上げられ、食い入るように見たことが今でも思い出されます。

 

一昨日、もしかして、ユーチューブにアップされているのではと思い立ち検索するとアップされていました。

 

早速、視ましたが、改めて視て感じたのは、創造主(神)の愛でした。

 

何故、創造主(神)の愛を感じたのか、愛に欠ける私に「愛」を語ることは相応しくありません。

 

本日のブログはここまでにします。

 

中村久子さんのことを知らなかった方は、ユーチューブの「中村久子、知ってるつもり」を、ぜひご覧ください。

 

www.youtube.com

 

 

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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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失われたアーク(聖櫃)

ゴールデンウィークの5月5日(土)に、借りていた本を返却しに福岡県立図書館に行ったのですが、隣接する筥崎宮(はこざきぐう)の参道で蚤の市(下の画像)が催されていました。

 

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古い物・レトロが好きで昔のある一時期よく色んな場所で開かれている蚤の市に出掛けたり、古物商の許可証を持っているので古物商業者だけが参加出来るオークション(古物市場)にも出掛けていました。

古い物好きと言っても、テレビ番組の「なんでも鑑定団」に出品されるような掛け軸や壺などの高価な骨董品には興味がなく、興味のない人から見ればガラクタでしかない古道具が私の好みです。

上の画像のような年代物の扇風機や黒電話の他に蓄音機、100年前のアメリカ製タイプライター、箱火鉢などそこそこの数のガラクタを持っていましたが、ある事情があって殆どを処分しました。

 

何も買うつもりもなかったのですが、「愛と誠」の映画パンフレットが珍しかったので購入し早速部屋に貼りました。

 

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奇遇というか購入した数日後にネットのニュースサイト(下の画像)を見ていると「愛と誠」の所在不明となっていた原画がネットオークションで400万円という高値で落札されたとありビックリでした。

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6月7日(日)にも同じ筥崎宮の参道で蚤の市が開催されますが、眺めるだけでも楽しめるので、何も買うつもりはありませんが(でも衝動買いが恐い)福岡県立図書館に行くついでに立ち寄ろうと思います。

 

下の画像の「レイダース・失われアーク<聖櫃>」の映画パンフレットは、ブックオフで買ったものです。

 

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ジョージ・ルーカス(製作総指揮)とスティーブン・スピルバーグ(監督)がタッグを組んだ作品「レイダース・失われアーク<聖櫃>」(1981年公開)は、それより4年前に公開されたルーカスの「スター・ウォーズ」(1977年公開)と同様に映画の面白さを存分に味あわせてくれた作品でした。

 

この映画を観た当時は、聖書知識が全くなくて、聖櫃(せいひつ)が本来持つ意味を全く知らずにいました。

もちろん、意味を知らなくても充分楽しめたのですが、聖櫃が聖書を読んでいることによって何であるかを知っていたらもっと楽しめたのかもしれません。

 

聖櫃とは、聖書の中では「神の箱」又は「契約の箱」として記されていて、主に旧約聖書で出て来ますが、新約聖書のヘブル人への手紙9:4では次のように書かれています。

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「契約の箱」と言われるぐらいですから、契約の二つの板が納められていたわけですが、これが、いわゆるモーセ十戒の創造主(神)の指で書かれた石板ですね。

次の聖書箇所をご覧ください。

出エジプト記31:18

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出エジプト記32:15~16

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出エジプト記を読んでいない方のために付け加えておきますが、この二つの石板は二度作られました。

最初に作られた石板はイスラエルの民が起こした「金の子牛事件」の際にモーセによって砕かれたのです。

出エジプト記32:19

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その後モーセが創造主(神)にイスラエルの民の罪の赦しを願った際に作られたものがこの契約の箱に納められたのです。

申命記10:1~2

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この金の子牛事件から再度石板が作られる一連のエピソードは私の好きな聖書箇所の一つです。

 

続いて、箱の中にはいっている「マナ」はイスラエルの民がエジプトを出て荒れ野を40年間彷徨した際に創造主(神)から与えられた食物ですが、恐らく栄養価の高いバランスの取れた食物であったのだろうと推定されます。

「マナ」について、昨年9月15日の当ブログ「与えたくてしかたがない」でも書いているので、未読の方はこちらもご覧ください。

hoshishusaku.hatenablog.com

 

次に「芽を出したアロンの杖」とは、モーセの兄アロンが所持していた杖のことですが、「芽を出した」という表現が面白いですね。

「アロンの杖」と書くだけでいいはずなのに、「芽を出した」とリアリティある書き方をしているところに聖書が作り話ではない、と私は感じるのですが、皆さんはどのように感じますか。

この芽を出すアロンの杖について民数記17:5~8で次のように記されています。

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アロンは大祭司ですが、昨年8月28日の当ブログ「聖書の妙な癖(パートⅢ)」で金の子牛事件と一緒に書いているので、未読の方はこちらもご覧ください。

hoshishusaku.hatenablog.com

 

尚、この「契約の箱」はヨシヤ王(紀元前609年没)の時代に関する旧約聖書・歴代誌第二35:3の契約の箱の記述を最後に、比喩的に用いられる以外に直接言及される部分はなく、失われた経緯についても不明である。このことから、失われた聖櫃(The Lost Ark)と呼ばれることもある(ウィキペディア)。

歴代誌第二35:3では、契約の箱は「聖なる箱」と記されています。

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(聖櫃を運んでいる様子)

 

キリスト教圏の欧米の文学や絵画等の芸術作品では、聖書記事のエピソードが必ずといってよいぐらい出て来るので、聖書知識があると、その作品の本来の面白さを楽しめることが出来るようです。

 

今、木彫をコツコツやっていますが、いずれ、銘木でヘブル語と日本語の文字で彫った2種類の十戒の木板を作りたいと考えています(何年後になることやら<笑>)。

 

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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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人を恐れるな! 主を恐れよ!

 

 

キリスト教徒でもない日本人の多くは、近親者が亡くなった時やその後何かの折に口にする言葉があります。

親を亡くした人は「お母さん(お父さん)が、天から見守ってくれている。」と口にし、配偶者を亡くした人は、「妻(夫)が、天から見てくれている。」と口にしたりします。

 

このように言う日本人の多くの家庭には、仏壇が置かれ位牌が置かれていますが、親を亡くした人が「位牌の中にいるお母さんが見守ってくれている。」とは決して言わないですよね。

 

また、キリスト教徒、イスラム教徒などでもない大多数の日本人が、自分自身が死んだ時に自分の霊が位牌の中に入るなどと思わないでしょうし、入りたいとも思わないでしょう、そして、ジメジメした真っ暗な墓の中に自分の霊が永遠に留まることを望んだりはしないでしょう。

 

つまり、キリスト教徒ではない大多数の日本人は、無意識であっても、位牌がただの板切れに過ぎないことを知っており、墓がただの石に過ぎないことを知っているのです。

 

しかし、日本人の昔からの慣習上の理由から、墓を建て、仏壇を備え位牌を置いて、その前で手を合わせ拝んでいるのです。

ただ置いているだけで拝むことすらしない人たちも多いようです。

また、拝む人も朝チョット手を合わせるだけであったり、法事の時に拝むだけだったりが実情のようです。

さらに、人によっては新築マンションの中に仏壇や位牌を置きたくない人もいるはずです。では、何故置くのか、昔からの慣習があるからということもあるのですが、親族の眼が気になるのです。もし、仏壇も位牌も置いてなければ親族から何と言われるかと恐れるからなのです。

 

大切に守っている仏壇にしろ、位牌にしろ、その後守る子孫がいなくなれば早ければ数十年後、遅くとも百年後、二百年後には確実に壊されて捨てられる運命にあります。

 

話は少し脱線しますが、ハンコ(印鑑)に「印相」があるなどとハンコ屋さんが言ったりするようですが、ハンコに手相のような相が本当にあるのでしょうか。

随分前にハンコ屋さんから直接聞いた話ですが、ハンコに相などはないとハッキリ言われました。ハンコ屋さんが言うには、高級なハンコが売れるように、悪く言えばハンコ業界がでっち上げただけというのです。

 

墓石も同様に墓石業界が高級な墓石が売れるように「墓相」などというものを考え出したのか、手相などと同様に占い師が墓相を編み出したのを墓石業者が乗っかったのが実情ではないでしょうか。

 

また、数か月前に福岡地方だけで放送されたNHKのローカル番組で「墓」の現状を一般視聴者を交えて討論する放送をたまたま視たのですが、殆どの参加者が自分が死んでも墓はいらないと言っていたのが興味深かったですね。

墓のいらない理由の多くは、自分の墓の煩わしい管理を子孫にさせたくないと言うものでした。その代わりに骨だけを納骨してくれる施設を捜すと言うのです。

それで、高齢化社会で今後死ぬ人が必然的に増える現状であっても、このような墓不要の人が多くなっているので、この番組に参加した墓石業者の方は、商売繁盛どころではなく経営が苦しくなっていると危機感を持っていました。

 

過去のブログに書きましたが、私は両親の位牌を叩き壊し捨てました。

イエス・キリストを信じる者として、偶像崇拝の対象の位牌を処分することは当然のことです。

 

しかし、主イエス・キリストを信じて直ぐに処分が出来たのではありません。何故出来なかったかと言うと、親族からの非難を恐れたのです。

つまり、「親の位牌を叩き壊して捨てるなど言語道断、バチ当たり者が」と言われることを恐れたのです。

これは、私だけでなく、多くのクリスチャンでも最初はそのようです。

 

ある時イエスが語られた聖句を思い出しました。

その聖句を思い出した時、主イエス・キリストに顔向けできない自分を悟り本当に恥ずかしい気持ちになりました。

その聖句とはマタイの福音書10:28(新改訳聖書)です。

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<注>「ゲヘナ」を新共同訳聖書では「地獄」と訳しています。

 

人を恐れるな、創造主(神)を恐れよ」ということなのです。

 

私は、「人」つまり親族の非難を恐れて位牌の処分をためらっていたのです。

この聖句を思い出させてくれた聖霊に感謝して、直ちに位牌の処分をすることができました。

 

そう言えば一時期「千の風になって」という歌が流行りましたね。

「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません、眠ってなんかいません。千の風に、千の風になって、あの大きな空を吹きわたっています。・・・・・」

何故、この曲がヒットしたのでしょうか。

歌詞とメロディーが素晴らしかったこともありますが、次のようなことも一因ではなかったでしょうか。

人前で口に出して言わないけれど、日本人の多くが実感として、自分が死んでも墓の中に自分の霊が永遠に入り続けることになるとは思ってないし、位牌の中に入ることになるとは特に思ってないから、と私は考えています。

 

皆さんはどのように考えますか。

 

結局、「仏壇そのものに」「位牌そのものに」「墓そのものに」にクリスチャンでもない大多数の日本人も死者の霊が宿っているとは思っていません、

つまり、「真理」があるとは考えていません。

ただ、昔からの慣習に従っているだけなのです。

もし、そこに「真理」があると信じているのであれば、朝チョット手を合わせるだけでなく、法事の時だけでもなく、毎日心を込めて拝むはずです。

 

前々回のブログでも書きましたが、次のことを今後も何度も書くことになるでしょう。

 

「真理」は創造主(神)から出たものだけである。

 

したがって、「私は道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)と語った主イエス・キリストのことばに耳を傾けるべきなのです。

 

「真理」は人を自由にします。

 

人間が作り上げた迷信などは、あくまでも、迷信であって「真理」ではないので、人を不安にし不自由にもします。

 

「真理」そのものである主イエス・キリストは次のようにも語っています。

マタイの福音書11:28~30
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<注>29節と30節の「くびき」とは、2頭の牛や馬などがそれぞれ別方向に動かないように首の上に取り付けた木の横棒のこと。

 

イエス・キリストを信じるということは「真理」に目覚めるということなのです。

「真理」は心に平安をもたらし、人の精神を自由にしてくれます。

 

↓ ↓ 聖書の他の重要なテーマについては、こちらをご覧ください。 

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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

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〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

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<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

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法令遵守(コンプライアンス)

昨日は、どうしても唄いたくなって自宅近所のカラオケ店で一人カラオケしました。

私が唄うのは、もちろん、昭和歌謡ですが、この日特に唄いたかったのは、野口五郎の「甘い生活」「私鉄沿線」、欧陽菲菲の「恋の十字路」、水越恵子の「far away」、五輪真弓の「リバイバル」、柳ジョージの「プリズナー」、前川清の「東京砂漠」でした。

何曲歌ったか数えていませんが1時間30分心行くまで大声を張り上げて唄い、満足満足、ただヘタクソです。

でもいいんです、一人カラオケで誰も聴いていませんから(笑)。

 

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話は変わりますが、法令遵守コンプライアンス)が叫ばれるようになったのは、いつ頃からだったでしょうか。

私が20代のサラリーマン時代はまだ、コンプライアンスという言葉すら世の中に出ていませんでした。

そんな時代でしたから多くの会社の経営者が労働基準法を遵守して適法に残業代を支払おうなどという意識は皆無に近かったと思います。

私が20代の時に勤めていた会社の社長は、従業員を前に平気で「労働基準法を守っていたら会社はつぶれてしまう。」と公言していましたが、自分は高級車に乗り、入社してきた美人女性社員を社長秘書にしていつの間にか不倫です。

しかし、こんな社長は、珍しい人ではなく、世の中の多くの男は金と成功を手にすると、こんなものなのです。

 

病気の為に廃業しましたが、前職は行政書士でした。

職業柄、多くの個人事業者や中小企業の経営者と接する機会がありましたが、大袈裟ではなく、程度の差はありますが100%全ての会社が何らかの法律に抵触(違反)していました。

このブログでその実体を全て暴露するつもりはさらさらありませんが、多くの経営者が「法令遵守に努めます。」と口にするのですが、遵守するためには、その会社を運営するための関係法令を熟知していなければ遵守しようがないのに、多くの会社では、その法律を熟知する努力をあまりしていないのが実体です。

 

例えば、中古車販売会社では、古物商の許可が必要ですが、その関係法令は「古物営業法」であり、建設会社であれば「建設業法」などです。

ある中古車販売会社では、一度古物商の許可を取れば後は何も手続きをしなくてよいと考えていたようで、取締役の交代が数年ごとに行われていたにも関わらず、監督官庁の警察署に届け出ていなかったのです。

古物営業法」には、取締役などの役員の就任・退任があった場合は一定の書面を添付して一定期間内に届け出なければならないとされています。

大幅に遅延していたため始末書を警察署に提出することになりました。

この会社の経営者は、そんな事は知らなかったと弁解しますが、知る努力をそもそも全くしていなかったようです。

 

私も含めて、知らず知らずのうちに多くの人たちが、程度の差があるにせよ法律違反をしているのが世の中の実体のようです。

 

創造主(神)は、偶像崇拝と姦淫(不倫)を忌み嫌います。

このことを世界中のどれだけの人間が知っているのでしょうか。

現実のこの世界は、偶像崇拝と姦淫(不倫)がまん延している状態です。

 

国家の最高法規憲法です。

 

人間の守るべき最高法規は何でしょうか。

 

私たち人間を創造した創造主(神)が定めた戒めが最高法規なのです。

 

最近、特に分かってきたことがあります。私の聖書研究は、もっと、もっと、真理を知りたい、創造主(神)を知りたい、ということなのですが、知れば知るほど創造主(神)の栄光を崇め賛美したいという思いが不思議と湧いてくるようになったことです。

以前は詩篇148章を表面的に文字だけを読んでいたような気がしますが、最近は詩篇作者の思いが少しはわかってきたようです。

全文表示します。
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御使い(天使) や日・月・星など天地万物の被造物に対して、創造主(神)を賛美せよと作者は記しているのです。

 

一人でも多くの人が一日でも早く、創造主(神)の存在を知り、この詩篇148章のように創造主(主)の栄光を崇め賛美することができますように。

アーメン。

 

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https://bible-seisho.jimdo.com/

 

 

★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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わたしは今日リンゴの木を植える

「古い奴だとお思いでしょうが、古い奴ほど新しいものを・・・・」

このフレーズをご存知ですか。

鶴田浩二「傷だらけの人生」ですね。

部屋の中に貼っている何枚かのレコードの一枚です。

聴いたことがない方はユーチューブでどうぞ!


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私の人生は傷だらけの人生というよりも「失敗だらけの人生」でした。

自分だけの失敗であれば自業自得でそれも仕方のないことですが、人の心を傷つけてしまったことも正直あります。

しかし、後悔しても始まりませんよね、創造主(神)から授かった命を無駄にしないようにこれからの地上での残された人生を精一杯生きることに努めることが大切ですよね。

 

ところで、「たとえ、世界の終末が明日であろうと、わたしは今日リンゴの木を植えるという言葉をご存知の方も多いと思いますが、どこかの会社の社長が人生訓を語るときにこの言葉を引用したり、多くの方が引用するようです。

 

私が初めてこの言葉を知ったのは40年程前だったように記憶しています。

そして、この言葉の作者は、東欧の詩人ゲオルギウだと何かの本に書いていました。

石原慎太郎も繰り返し東欧の詩人ゲオルギウ作だと紹介してきたようです。

しかし、ネットを見るとマルチン・ルターの言葉だと説明されています。

マルチン・ルターの言葉を詩人ゲオルギウが引用したのでは、という説もあるようです。

出所がいずれであっても、多くの人の心に何かを訴える言葉であることに間違いないようです。

 

40年程前にこの言葉を知り、そして、聖書を信じる前までの私が考えていたことは、世界の終末を想像したのではなく、もし、ガンに侵されて余命数ヶ月と宣告されたときに、今までと全く同じように日常生活を送ることが出来るだろうか、というものでした。

恐らく、悲嘆に呉れ死の恐怖に苛まれて今までと同じように日常生活が送ることは困難だろう、と想像していました。

ましてや、リンゴの実りを間違いなく見ることができないのに、今日リンゴの木を植えるなど到底私には出来ないと考えていました。

 

このように考えることしか出来なかった私に劇的変化が起こったのが、聖書によって真理を知ってからです。

 

過去のブログにも書きましたが、可笑しなことを言うようですが私にはキリスト教を信じているという認識も、世の中の人が考えているような「神」を信じているという認識がありません。

私が信じているのは、天地万物を創造された創造主の存在を信じているのであり、創造主の口から出た「ことば」だけが真理であると信じているに過ぎないのです。

この真理を教えてくれているのが聖書であり、キリスト教であるというだけのことなのです。

したがって、私の心持ちとしては「神」という言葉は出来れば使いたくないし、キリスト教信者、つまり、クリスチャンという名称もあまり使いたくないのです。

 ただ、このブログを書いたり、人と会話する際にその都度クリスチャンという名称を使いたくない理由を説明するのも面倒なので、便宜上使うことになります。

 

常に私が求めているのは「真理」です。

 

「真理」は天地万物の創造主から出たものだけです。

 

森羅万象のすべての「真理」は、繰り返しなりますが、天地万物の創造主のものです。

 

普通に考えれば「人間が死んでも、主イエス・キリストを信じる者は、復活して永遠のいのちを持つ」など、とんでもない話です。

しかし、私を創造してくださった天地万物の創造主の存在を確信してからは、とんでもない話ではなく、「復活と永遠のいのち」が当たり前、つまり「真理」であると確信することができるのです。

 

もし、天地万物の創造主の口から出たことば、つまり、真理が「人間は数十年この地上に生きて、この世で数々の病に侵され、様々な苦難を経たのちに死に至り、その後無意識の状態になる。」というのであれば、このことを私は信じます。そして、他の宗教(偽りの神)が逆に「復活と永遠のいのち」を教えていても、この他の宗教の教えは真理ではないので「復活と永遠のいのち」を信じることはできないということになります。

 

要するに私の主張は、常に「真理」が何であるかが重要だということなのです。

 

私にとって受け入れがたい教えであったとしても、それが「真理」であれば、それを信じて従うだけのことなのです。

 

「復活と永遠のいのち」が私にとって都合がよく受け容れ易いから信じたのではなく、あくまでも、天地万物の創造主の口から出たことば(聖書)だから信じているのです。

 

61歳の私ですから、年齢的にどんな病に侵されてもおかしくありません。当然ガン宣告を受けるかも知れません。

しかし、40年程前に知った「たとえ、世界の終末が明日であろうと、わたしは今日リンゴの木を植える」という言葉は、天地万物の創造主の存在を信じ、主イエス・キリストを信じ、「復活と永遠のいのち」を信じてからは全く違った捉え方が出来るのです。

私が余命数ヶ月のガン宣告を受けることがあっても、リンゴの木を植えることはありませんが、少なくとも悲嘆に呉れ死の恐怖に苛まれことはなく、復活と永遠のいのちに希望を持ちながら、それまでと同じように主イエス・キリストに信仰を持って日常生活を送ることが出来るようになれるのでは、と思っています。

 

続いて次の聖書箇所をご覧ください。

ローマ人への手紙12:19(文語訳聖書)

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この言葉を知ったのは、聖書を学ぶ随分前の佐木隆三の小説を映画化した緒方拳主演の「復讐するは我にあり」です。

復讐するのは俺(人間)がするという意味ではなく、創造主(神)がされるという意味だということを聖書で学びましたが、その後当分の期間もう一つピンとこない聖句でした。

何故なら、独裁者のヒトラースターリンポル・ポトなどはもちろんですが、生前に非道なことをしていながら金銭的にはもちろん健康的にも恵まれながら生を全うしたまま、神から復讐されないまま死んでいった人も多くいるからです。

 

また、キリスト教以外の宗教を信じて大成功をしている人(偶像崇拝者)が、キリスト教を信じている貧しい人に次のように言ったとか?。

キリスト教を信じても貧しいだけじゃないか、私の信じている宗教を信じれば私のように成功するよ。」

 

人生がこの地上での一回限りのものであれば、この世で神の復讐も行われず、貧しいだけの人生や病に次から次と侵される人生の人にとっては不公平だと感じることでしょう。

 

しかし、人間の人生はこの世だけが全てではありません。

死で全てが終わるわけではありません。

過去ブログでも引用した、次の聖書箇所をご覧ください。

ヘブル人への手紙9:27

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創造主(神)の復讐(裁き)は必ず行われます。

 

イエス・キリストを信じる者には、病もなく苦難もなく涙を流すことがない新しい生が待ち受けています。

ヨハネの黙示録21:3~4をご覧ください。
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創造主(神)は公平な御方であり、信頼できる御方であることを肝に命じたいと思います。

 

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https://bible-seisho.jimdo.com/



 ★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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洗礼について

 

 

私は、過去を含め現在に至るまで仏教系、キリスト教系等を問わず一切の宗教団体に属したことがありませんが、創造主(神)と主イエス・キリストに信仰を持つキリスト者(クリスチャン)です。

ただ、愛溢れる敬虔なキリスト者と比較すれば、まだまだほど遠い私ではありますが、創造主(神)の存在を信じ、主イエス・キリストが私たち人間の罪の贖いのために十字架にかけられて死に三日後に復活して昇天されたことを堅く信じているので、間違いなくキリスト者だと思っています。

 

しかし洗礼を受けていません。

 

「洗礼も受けていないのに、キリスト者のはずはない」という声、主張が聞こえてきそうです。

この主張は正しいのでしょうか。

この主張が正しいとすれば、洗礼を受けないと人は救われないということになります。

 

聖書はどう言っているのでしょうか。

パウロは次のように記しています。

ローマ人への手紙5:1

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ガラテヤ人への手紙2:16

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上記いずれの聖句であっても、「信仰によって義と認められる」つまり「主イエス・キリストを信じる信仰によって救われる」とパウロは言っているのであって、「洗礼によって義と認められる」「洗礼によって救われる」と言っているわけではありません。

心の在り方を問題にしているのであって、洗礼という形式が救われる条件ではないのです。

エスはまさに十字架上で犯罪人に次のように語ったのです。

ルカの福音書23:39~43

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この犯罪人は洗礼を受けてはいませんでしたが、イエスはハッキリと彼がパラダイスにいると約束されたのです。

 

奥山実牧師は、著書で次のように簡潔に語っています。

「洗礼を受けたか、受けないか関係ありません。ヨーロッパには洗礼を受けていても、神の存在を否定し、主イエスをあざけっている名ばかりのクリスチャンが掃いて捨てるほどいます。たくさん献金しているとか、良く奉仕しているというのも基準ではありません。それもいいことなのですが、イエス様を信じるか、信じないかが問題です。」

 

洗礼を受けていない私ですが、決して洗礼を否定したり軽く考えているわけではありません。

マタイの福音書28:19~20をご覧ください。

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このように主イエス・キリスト大宣教命令の中で洗礼(バプテスマ)を授けることを命じています。

私は、この主イエス・キリスト大宣教命令に従い、一人でも多くの人に福音を伝えたくて、このブログも書いています。だからと言って私が洗礼を授ける行いができる身分(牧師)ではありません。

 

ところで、NHK大河ドラマで放送中の「西郷どん」の西郷隆盛が生み出したと思っている方も多くいる「敬天愛人」という言葉は、西郷が生み出した言葉ではなく、18世紀の清王朝の第4代皇帝の康熙帝(こうきてい)によるキリスト教イエズス会)認定の言葉なのです。

詳細は当ブログでは省略しますが、西郷が漢訳聖書を読んでいただけでなく、漢訳聖書を人に教えていたことも資料や証言によって事実ということが確認されています。

ただ、洗礼を受けていたかどうかは不明です。

しかし、上述したように洗礼は形式に過ぎません。

西郷がキリスト教由来の「敬天愛人」という言葉を好んで書いた事実や聖書を教えていたという事実は、主イエス・キリストを信じていなければできることでは絶対ありません。

したがって、私は、西郷隆盛は間違いなくキリスト者であったと考えます。

 

西郷隆盛と会見して江戸城無血開城を成し遂げた勝海舟も聖書の影響を受けた人物であることが下の画像の本を読めばわかりますが、勝海舟も洗礼を受けたかどうかは不明です。

しかし、西郷隆盛と同様に仮に洗礼を受けていなくても、キリスト教との深い関わりや晩年の言動などから、主イエス・キリストを信じたキリスト者であったと私は考えます。

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幕末及び維新に活躍したサムライの中で一番好きなのは勝海舟ですね。

貧乏のどん底のときは、蚊帳(かや)や布団を売り払い、襖を破り、縁側や柱を削って飯炊きをしていたそうです。

しかし、こんな境遇にあっても海舟は自己鍛錬を怠らず、剣術に打ち込み、日々学問に向かっていたということです。

勝海舟を師と仰いだ坂本龍馬ですが、海舟との出会いがなければ龍馬の目覚ましい活躍もなかったのかもしれません。

 

↓ ↓ 聖書の他の重要なテーマについては、こちらをご覧ください。 

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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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