<回答>
「信じたけれども以前と変わらない」という考え方には、まだ本当には信じていない姿が現われているように思えてなりません。「信じたけれども」と言う態度は、実は信じているのではなく、まだ疑っているのです。信じながら、そこにまだ疑いがあるというようなことはありません。疑いがあるなら、そこには信仰がなく、信仰があるなら疑いはないはずです。「信じたけれども」と言っている場合、確かにそこまでは曲がりなりにも信じていたことは分かるのですが、今は疑っているのであって、信仰はもはやそこにはないと言えましょう。
それをもなお信仰と呼ぶとするなら、それは「しるしを求める信仰」にほかなりません。そして実のところ、「しるしを求める信仰」というものは、本当の信仰ではないのです。
・・・・・
上記は尾山令仁牧師の著書からの引用です。
カトリックやプロテスタントの教会に通っているキリスト教徒の中にも、心の奥底で上記のように神の存在に疑問を持ちながら日々の生活をしている人が数多くいるのかもしれません。
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