(その⑧)の続き。
前回、バビロン捕囚が一度だけ行われたのではなく数度行われ、最初の捕囚が預言者ダニエルの少年時代の紀元前605年だと書きました。
しかし、この時に捕囚された人々が少数であり聖書に人数が記されていないこともあってなのか(ダニエル書1:1~6)、私が2度目の捕囚だとした紀元前597年(列王記第二24:6~17)を最初のバビロン捕囚だと説明する人たちも多くいます。
ここで私自身がバビロン捕囚の最初が何時で何度行われたかを強く主張するつもりはありません。
何故なら、私の聖書研究は、無神論者などを含めた歴史学者がする研究とは違い、私自身の信仰を深めるための研究であって、バビロン捕囚があったという事実があくまでも重要だからです。
ただ、当ブログの読者の皆さんのために、上記以外のバビロン捕囚が記された聖書箇所を引用しておきます。
エレミヤ書52:28~30
本日は、アッシリヤ捕囚とバビロン捕囚のその後のイスラエルの民の辿った経緯を概観する予定でしたが、済みません、アッシリヤ捕囚後の北のイスラエル王国だけとなります。
北のイスラエル王国がアッシリヤ帝国に紀元前722年に滅ぼされ、首都サマリヤの指導者階級や優秀な者たちがアッシリヤの地に強制移住(捕囚)されたのですが、人口が減少した占領地のサマリヤに、アッシリヤ帝国は首都バビロンやその他の町の人々を送り込みます。
列王記第二17:24をご覧ください。
上記の結果、サマリヤの地に残ることが出来たイスラエルの民(ここでは北の10部族)と異国人との雑婚(混血)が進み混合民族が生じていくことになります。
雑婚の過程でそれぞれの民族が持っていた宗教自体も混合することになったのです。
そして、混合宗教を持った混合民族が「サマリヤ人」の起源となったようです。
このことを列王記第二17:33~34で確認しましょう。
ところで、アッシリヤ帝国の地に強制移住させられたイスラエルの民(北の10部族)がその後どうなったかは謎のままです。
南のユダ王国が滅亡し(紀元前586年)バビロンに強制移住させられたユダ族は、70年後にペルシヤの王クロスの命令でエルサレムに帰還が許されエルサレムの神殿を再建するのですが(詳細は次回アップ)、北の10部族が帰還した記録はないのです。
帰還しておらず、そして、占領された地は混合民族(主にサマリヤ人)による混合宗教が生じた結果、北の10部族は俗に言う「失われた北の10部族」となってしまいました。
ただ、「失われた北の10部族」と言われているのですが、聖書をしっかり読むとそこここに10部族の足跡が残されていることを窺うことが出来る聖書箇所があります(今回のブログでは割愛します)。
サマリヤ人はイスラエル人と他民族の混血であり混合宗教を持った民族として、バビロンから帰還した(詳細は次回アップ)南のユダ王国の末裔のユダヤ人から偏見の目で見られるようになりました。
北のイスラエル王国の10部族が、捕囚後に行方が不明(失われた北の10部族)であることとサマリヤ人という混合民族が生じたのとは対照的に、南のユダ王国のユダ族(ベニヤミン族は弱小民族で影が薄い)は民族的純粋性を失わなかったことから「ユダヤ人」という民族的概念が生まれたのです。
サマリヤ人とユダヤ人との関係について、紀元後のイエスの時代について記したヨハネの福音書4:7~9に次のように書かれています。
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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・天地万物の創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。