(その④)の続き。
旧約聖書:創世記2:16~17
アダムとエバは地上の楽園で、最初の人間として、まさに人生を謳歌していました。
神は、あれをしてはダメ、それをしてはダメ、これもしてはダメと数多くの戒めでアダムを縛ったわけではありません。
つまり、1000本ある木のうち999本を食べてはいけない、1本の木からだけ食べて良い、と命じたわけではないのです。
一つの戒めを守るだけで、自由を満喫することが許されていたのです。
神の「ことば」は人間の口から出る言葉とは格段の違いがあります。
神の一言一言の「ことば」すべてに「権威と力」があります。
アダムは、神の「ことば」を侮り、軽んじるべきではありませんでした。
アダムの行為は、人類が神に背く罪の一歩を踏み出してしまったのです。
神はアダムとエバを創造した際、死を想定していませんでした。
アダムとエバにとっては、生き続けることが当たり前であり、死の概念はなく死は想定外でした。
私たち人間はいずれ死ぬことが当たり前と思い込んでいます。
私は、聖書を知ることで、人間はいずれ死ぬことが当たり前ではなく、死は想定外であることをイエスの「ことば」(聖書のことば)から知らされました。
アダムに与えた唯一の神の戒めの「ことば」(あなたは必ず死ぬ)は、アダムの行為によって、残念ながら実現してしまったのです。
新約聖書・ローマ人への手紙5:12
神の「ことば」によって、天地万物は創造されました。
旧約聖書・創世記1:3
神の御子イエス・キリストは「ことば」です。
「ことば」によって、イエスの奇跡が実現します。
<注>「ツァラアト」とは皮膚病のこと。乾癬(かんせん)ではないかと思われる。
神の「ことば」、神の御子イエスの「ことば」ほど重要なものはありません。
神の「ことば」、神の御子イエスの「ことば」は必ず実現します。
C・S・ルイスの「キリスト教の精髄」の一文「・・・だれかがでっち上げたと思われるようなそんな代物ではなく、ほんもの(実在的なもの)に特有なあの妙な癖とでもいうべきものを持っているのである・・・」から「聖書の妙な癖」と題して全5回語らせていただきました。
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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
・親鸞、日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。