星 周作 Blog

★ 福岡より〇〇をこめて  ★

イエスの奇跡が見たい!

エスの奇跡を見たいと思っても、私たちは見ることができません。

聖書の記事を読んで確認するしかありません。

 

新約聖書福音書と呼ばれる4つの書にイエスの行った36回の奇跡が記されています。

4つの福音書とは、マタイによる福音書、マルコによる福音書ルカによる福音書ヨハネによる福音書です。

 

エスの奇跡(36回)(出典:聖書大百科・創元社刊) ↓


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聖書に書かれているイエスの奇跡の他に、聖書に書かれていない奇跡も数多くあったようです。

聖書に書かれているイエスの活動はほんの一部に過ぎないのです。

 

新約聖書ヨハネによる福音書21:25に次の聖句があります。
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聖書を読みたいけど、どこから読み始めたらいいか分からない人は、イエスの奇跡36箇所からチャレンジするのも一つの方法かもしれませんね(*^_^*)

 

hoshishusaku.hatenablog.com

 

hoshishusaku.hatenablog.com

 

★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

親鸞日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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当たり前の世界? 奇跡の地球(ほし)?

ある日A君は運転ミスをして、大切に乗っているマイカーのボディにキズを付けてしまいました。

無神論者の彼ですが、冗談半分にキズが直るよう神に祈りました。

翌日、ボディを見るとキズが見当たりません。

奇跡が起きたと思いました。

神に感謝しました。

その後、何度か小さな事故を起こしましたが、修理工場に出す事もなくキズは直っていました。

何度も続く奇跡は、A君にとっては、もはや奇跡ではなく、当たり前のことになり、神に感謝することもなくなりました。

 

人間がころんで擦り傷をしても、数日で擦り傷は治っています。

当たり前なのでしょうか?

 

日常生活で人間の体の中で手はよく活躍してくれます。

手の爪が擦り切れたまま伸びなかったら、どうでしょうか?

皆さんは、考えたことがありますか。

爪が伸びるのは当たり前でしょうか。

 

桑田佳祐の「奇跡の地球(ほし)」という歌がありました。

 

奇跡を目の当たりにしていても、それが、日常的に繰り返して起こると慣れてしまって、奇跡を奇跡と感じることができず、当たり前になっている・・・とは考えられないでしょうか。

 

神様は、恩着せがましくありません。

押し付けがましく奇跡を見せつけません。

 

親は、子に愛情を注ぎます。

しかし、親は、何か子供にしてあげる度に「これは、わたしの愛の証しだよ」などと恩着せがましくはありません。

押し付けたりはしません。

親は、あふれる程の愛を子に注ぐことが喜びなのです。

親の愛は、「与える愛」なのでしょう。

 

神は、私たち人間の「父(親)」なる神です。

神は人間にあふれる程の愛を注ぎました。

神は、「与える神」なのです。

特にイエスを信じた者に究極の愛の証しである「永遠の命」を授けると聖書では教えています。

 

私たち人間は、神を目で見ることはできません。

しかし、神の創造した被造物である人間の造り(治癒力)や自然の豊かな恵みを感じることによって神を認識することができるのではないでしょうか。

 

しかし、現在の私たちの住む「奇跡の地球(ほし)」は、神が創造した当時と異なり傷付いた地球(ほし)であり、傷付いた人間の姿です。

 

歴史的に二つの大事件によって傷付いてしまったことが旧約聖書に記されています。

 

一つ目が、最初の人間アダムの神に対する背任です。

創造時の人間は病とは無縁であり、老化もなく、死もありませんでした。

しかし、このアダムの罪によって、人間には病が棲みつき、美貌は老化とともに衰え、死に至ることになりました。

 

二つ目は、ノアの大洪水です。

大洪水によって、地球のバランスが不安定になってしまったのです。

 

アダムが「善悪の知識の木」の実を食べたことが、何故、神に対する背任(罪)になるのでしょうか。

また、人間には「原罪」があるとキリスト教は教えます。

 

「原罪」とは何でしょうか。

 

聖書の記事を丹念に読み込み学び探究することにより、アダムが「善悪の知識の木」の実を食べたことの深い意味を「聖霊」に導かれて、答えを得たような気がします。

 

神の性質を知り、神を信じて、神を信頼しないと納得できない答えかもしれません。

 

逆に、神を信じることができれば、答えはシンプルです。

 

「真理」はシンプルです、修行・苦行した人だけのものではありません。

 

私が得た答えは、別の機会に語りたいと思います。

期待させて、申し訳ありません。

 

私は、毎日、(爪が伸びる)奇跡を見ています
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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

親鸞日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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天地創造6日間

超高層ビルのナンバーワンはドバイのブルジュ・ハリファの高さ828メートルで工期は6年程です。

神だったら、どのくらいの期間で完成させるでしょうか。

神の存在を信じていない人は、神が存在すると仮定して考えてみて下さい。

どうですか。

神だから、人間の6分の1の期間の1年間でしょうか。

それとも、1ケ月間でしょうか。

仮定上の神とは言え、神である以上、1ケ月間でもかかり過ぎでしょう。

それはもう神とは言えないのではないでしょうか。

 

以前テレビ番組でアメリカのマジシャンのデビット・カッパーフィールドがイリュージョンとやらを披露していました。

トリックによって一瞬でジャンボ・ジェット機を消したり、出現させたりしました。

1時間、2時間かけて消したり、出現させたりしていたら番組が終わってしまいます(笑)。

 

神であるなら一瞬のうちに私たちの目の前に超高層ビルを現してくれるはずです。

 

旧約聖書出エジプト記の記事に出てくる海を裂くことを神は一瞬にされました。

イスラエルの民が通れるように海底トンネルを日数をかけて悠長に掘ったわけではありません。

 

神の創造の御業は人間の技とは、根本的に違うのです。

 

サルの世界で一番の知恵のあるサルでも、人間の知恵との間には、超えることができない裂け目があるように、「神の知恵と御業」、「人間の知恵と技」との間には、大きな裂け目があるのです。

 

この裂け目を人間は超えることができないのです。

 

神の創造の御業は人間が物を造るような過程を経るのではないのです。

 

したがって、人間の知恵で天地創造の神の御業を解明することは不可能なのです。

 

今後、科学などのあらゆる〇〇学の世界最高峰の学者を総動員しても、人間の知恵の延長線で考える限り解明される日が来ることはないでしょう。

 

神にとって不可能なことは一つもありません」(新約聖書ルカによる福音書1:3)

 

神が動いた場合は一瞬に事は成就します。

 

旧約聖書の創世記第1章から第2章の記事である天地万物を神が文字通り6日間で創造し、7日目に休息をとったことを私は確信します。

 

キリスト教徒の有名な作家(複数の方々)の聖書に関する本を読むにつけ、少々ガッカリすることがあります。

天地創造旧約聖書の箇所を伝説だと書いていたりして聖書記事を信じていないようなのです。

キリスト教徒だからと言って信じられないものを無理に信じる必要もないのは分かってはいるのですが、私としては、やはりガッカリです。

 

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以上が天地創造の私の見解(全てではなく一部)です。

全ての見解については、別の機会に語ります。

学生時代、私は劣等生でした。

高名な学者でもなく、私には何の権威もありません。

私の見解と書きましたが、実際は、聖書に記されている私に内住する「聖霊」が示してくれた真実だと思っています。

聖霊」の力は、イエスを信じるキリスト教徒にとって最重要なものです。

聖霊」の活動なくしてキリスト教徒の信仰の成長はありません。

この「聖霊」については、別の機会に語りたいと思います。


新約聖書・コリント人への手紙第一6:19
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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

親鸞日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

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世界最大のことば

このブログで何度も引用した「わたしは道であり、真理であり、命であるヨハネによる福音書14:6)」という言葉を、イエスは何の根拠があって言えたのでしょうか。

その根拠は、以下に引用する聖句によって明らかにできます。

新約聖書ヨハネによる福音書1:1-4
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<注釈>「ことば」とは、イエスのこと。

 上記のヨハネによる福音書1章1節「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」の聖句を内村鑑三は「聖書之研究(1905年)」の中で「世界最大のことば」と書いています。


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新約聖書ヨハネによる福音書1:10

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新約聖書ヨハネによる福音書1:14
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新約聖書マタイによる福音書28:18
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個人的に私は「わたしは道であり、真理であり、命である」とイエスが語った言葉が、聖書全体の中心聖句だと考えています。

旧約聖書は神と人間の関係と救い主(メシア、キリスト)待望の預言がメインに記され、新約聖書ではまさに救い主キリスト・イエスのことが記されているからです。

 

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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

親鸞日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

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真理はシンプル 真理は自由

新約聖書・マタイによる福音書11:28~30
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 (出典:「聖書大事典」教文館刊) ↑

 

うつ病患者が減りません。

減るどころか増えるばかりです。

うつ病になる原因は、人により様々で、単純にこれが原因だと言い切ることはできません。

ただ言えることは、その患者さんにとって許容限度を超える負荷が脳細胞に加えられたことが、うつ病発症の一番の原因ではないでしょうか。

「負荷」を別の言葉で表現すれば「ストレス」ですね。

 

エスが活動した当時、ユダヤ人は、日常生活のあらゆる場面でユダヤ人の行動を規制(束縛)する宗教指導者(特にパリサイ派)が定めた細かな定め(口伝律法)によって、疲れ果てていました。

安息日は、本来、労働をしないで十分な休息をとり、神を思い神を讃える日であるはずなのに、いつのまにか、安息日には病人をいやすことはできない、その病人を運ぶこともできないという定め(口伝律法)を付け加えて変質していったのです。

 

ビジネスの現場でも、サービス残業が常態化したり、パワハラがあったりで、その会社の創業時の理念からかけ離れた定め(口伝律法)が幅を利かせてストレスをため込んでいるビジネスマンが多いような気がします。

うつ病予備軍が潜在化しているようです。

 

昨日のブログでも紹介した二つの聖句です。

わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書14:6)

真理はあなたがたに自由を得させる」(ヨハネによる福音書8:32)

 

エスの教え、聖書の教えを変質させ不要な「くびき」を作り出した、過去のキリスト教や現在のキリスト教と称する宗教団体やカルトもあるようです。

 

イスラム教徒は、日に5度メッカに向かって祈りをしなければいけないようです。

強制的な定めは形式的になりがちで、心からの祈りとはならないでしょう。

 

聖書の神は「霊」です。

空間と時を超越されているお方です。

祈りの場所(方向)や祈りの回数を定めてはいません。

 

神は心から祈る者の声を聞かれるのです。

 

「真理」はシンプルであるはずです。

だから、「真理」は人を「自由」にします。

エスの「くびき」は「真理」です。

シンプルです。

「自由」です。

人を軽やかにします。

 

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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

親鸞日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉(ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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真理がわたしを自由にした

わたしの大切にしている本の一つにD(ドワイト)・L(ライマン)・ムーデー(1837年~1899年)の「聖書研究の快楽」があります。

D・L・ムーデーは、アメリカの有名な牧師であり大衆伝道者です。

 
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昭和5年出版(初版明治42年)ですから、今から87年前の古い本ですが、聖書についての本ですから、内容に古さがあるはずもありません。

 

みなさんは、どんな本を読むときに喜びを感じますか?

読書が趣味の方は、読書自体が喜びなのかもしれませんね。

ゴルフが趣味の方は、ゴルフ自体はもちろんですが、ゴルフ関連の本を読むことも喜びとなるでしょう。

わたしは、時代小説や海外ミステリーを読むことが趣味なのでいつも何かしらの文庫本を手にしています。

 

昔、聖書を手にする前までに、聖書に持っていたイメージは「汝、姦淫するなかれ」に代表される、「あれをしてはならない、これもしてはならない」という人間の欲望を押さえつける教えばかりが書かれている道徳書だという先入観でした。

別の言い方をすれば、わたしたち人間の「自由」を制限する書物だと思っていたわけです。

当然、今は、聖書を「自由」を制限する書物などと思うことなど一切ないことは言うまでもありません。

 

新約聖書ヨハネによる福音書8:32に次の聖句があります。

 

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視点は少し違いますが、みなさんは結婚式などの特別の日に「大安」「仏滅」などを気にしますか。

聖書的に言うと、神が創造したこの世界に「良い日」「悪い日」という捉え方は一切ありません。

毎日が良き日です。

それが真理の一つです。

 

何が、「真理」であるかが発見できれば、それまで心や行動を縛っていた教えや迷信から解放され自由を得て人生を喜びに導くことができるのではないでしょうか。

 

エスが宣言した言葉「わたしは道であり、真理であり、命である」、このブログで何度も引用してきました。

新約聖書ヨハネによる福音書14:6

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「真理」であるイエスを知ることはわたしたちを「自由」にします。

エスを知るには聖書を学ぶことです。

 

法事のときに住職から手渡された「経典」を読むことと住職の説教は、わたしに喜びをもたらしてくれたことは一度もなく、苦痛でした。

 

聖書が「真理の書」であることを確信しているわたしにとって「聖書研究は快楽」です。

 

毎日の聖書研究は、わたしにとって「お勤め」ではありません。

私は、どこそこの教会や教団に属しているわけではないので、クリスチャン仲間(兄弟)の目を気にして「聖書を読まなければならない」ということもないのです。

聖書を「読みたい、学びたい」という心からの欲求なのです。

 

みなさんはどうでしょうか。

日常生活で何かしら疑問に思っていたことで、ある時、人から教えられるか、本を読むかして「本当のこと」を発見したときは、嬉しく感じませんでしたか?

 

本当に本当のことである「真理」を知ることは、わたしたちを「自由」にし「喜び」をもたらしてくれます。

 

エスは「真理」です。

 

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 ★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・創造主だけが神

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・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

親鸞日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

☆星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室☆


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お目出たい人

昔、聖書を読み始める前までの神とイエス・キリストを信じていない頃の私は、テレビの時代劇の中に出てくるキリシタンがパラダイス(天の御国での永遠の命)を信じながらも迫害に遭っているのを見るにつけ、すごい人達だなあと思うのと同時にパラダイスをまともに信じるのは「お目出たい人たちだなあ~」と少し馬鹿にして視ていたところがあったような気がします。

 

まさか、私自身がイエス・キリストを信じることによって「永遠の命」を信じるようになり、「お目出たい人」の仲間入りをするとは露ほどに思っていませんでした。

 

人から口に出して言われるのではなく「あの人クリスチャンで永遠の命とか馬鹿げたことを信じているお目出たい人よ」と心の中で思われているんじゃないかと想像することすら嫌でしたが、今では、聖書の学びを深めることによって確信を持つに至ると人の評価は全く気にすることがなくなりました。

神とイエス・キリストを信じることができるようになっている自分自身に驚くと同時に喜びでいっぱいです。

 

話は変わりますが、部厚い聖書を読み始める前に持っていた先入観がありました。

旧約聖書の創世記から新約聖書ヨハネの黙示録までの記事は数千年の時の隔たりがあり、複数の著者が時を隔てて書いている以上、記事の前後につじつまの合わない箇所が必ず出てくるはずだと考えていました。

実際学びを進める中で、神がなされることに反発を覚えたり理解に苦しむ箇所が数多く出てくることがありました。

しかし、時を置いて別の記事を読むことによって、はっと気付かされるときがやってくるのです。

これをインスピレーション(霊感)というのでしょうか。

神に反発を覚えた箇所や理解に苦しんだ箇所の神の真意が分かるのです。

このことは、旧約聖書の記事では理解出来なかった箇所が、新約聖書を学ぶことによって旧約聖書の疑問点が氷解するのです。

逆に新約聖書で分からなかったことが旧約聖書の記事によって理解できるのです。

ある人たちは、聖書には矛盾する記事やつじつまの合わない記事があると指摘しますが、それは、神の存在とイエスを救い主(キリスト)と信じていないからではないかと思います。

信じていないと聖書記事のあら捜しをすることになるのではないでしょうか。

神を信じることが出来ない人にとっては「あら」であっても、神を信じ信頼している人にとっては「何か意味があるはず」と捉えます。

そして、後日その意味を発見して、聖書への信頼をより一層深めて行くことになります。

 

聖書を詳細に学んでみると、聖書を読む前に持っていた先入観は一掃され、複数の著者がいる部厚い聖書であるにもかかわらず、つじつまの合わない箇所も論理のほころびもなく、首尾一貫していることを新たに認識しました。

 

内村鑑三の著作「聖書之研究(1893年)」の中に出てくる話ですが、有名なベンジャミン・フランクリンがフランスに滞在していたときに、無神教の哲学者がキリスト教をしきりに嘲笑したそうです。

フランクリン自身はキリスト教にあまり熱心ではなかった無宗教家に近い者でしたが、フランスの無神教の哲学者があまりにもバイブル(聖書)を野卑にして文学の趣味に乏しきとあざけるので、フランクリン自身がキリスト教に冷淡であったにもかかわらず腹に据えかね、一計を案じたそうです。

場所はホテルでしたが、同じホテルに宿泊している女優に旧約聖書のルツ記(わずか7ページほどの短編)を哲学者たちの前で朗読させたそうです。

ここで内村鑑三の著書を以下引用します。

「女優は精神と感情とを込めてルツ記を読めり。哲学者らはその文意の高妙なると、その趣向の単純清廉なるとを賞賛してやまざりき。読み終わりて満場の学者らは深くフランクリンの厚意を謝し、かつ問うていわく、『かくのごとき佳話、君はいずこより得しや。その美、その妙、いまだかって余輩の味わわざるところなり』と。フランクリンは賞嘆のやむを待って粛然として立って告げていわく、『これ実に貴公らの貶視嘲罵してやまざりし古き聖書中に記載しあるルツの記なり』と。しかして後、黙然たり。哲学者輩は今は赤面語るにことばなく、一人去り二人退き、暫時にして室内フランンクリンと女優を除くのほかは人なきに至れりと。フランクリンの頓知、『哲学者』の無学、ルツ記の絶妙、共にこの一小話に載せて間然たることなし。聖書非難する人は聖書を読まざる人なり。聖書をもってただに厳格なる倫理のみを教うるものと信ずる人はいまだ聖書を知らざるなり。

 

因みに、クリスチャンの中には、ルツ記に登場する女性ルツの名を自分の娘に付ける方も少なからずいます。

内村鑑三も長女にルツ子と名付けましたが、わずか19歳の若さで亡くなっています。

 

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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

親鸞日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

☆星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室☆


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