当たり前の世界? 奇跡の地球(ほし)?
ある日A君は運転ミスをして、大切に乗っているマイカーのボディにキズを付けてしまいました。
無神論者の彼ですが、冗談半分にキズが直るよう神に祈りました。
翌日、ボディを見るとキズが見当たりません。
奇跡が起きたと思いました。
神に感謝しました。
その後、何度か小さな事故を起こしましたが、修理工場に出す事もなくキズは直っていました。
何度も続く奇跡は、A君にとっては、もはや奇跡ではなく、当たり前のことになり、神に感謝することもなくなりました。
人間がころんで擦り傷をしても、数日で擦り傷は治っています。
当たり前なのでしょうか?
日常生活で人間の体の中で手はよく活躍してくれます。
手の爪が擦り切れたまま伸びなかったら、どうでしょうか?
皆さんは、考えたことがありますか。
爪が伸びるのは当たり前でしょうか。
桑田佳祐の「奇跡の地球(ほし)」という歌がありました。
奇跡を目の当たりにしていても、それが、日常的に繰り返して起こると慣れてしまって、奇跡を奇跡と感じることができず、当たり前になっている・・・とは考えられないでしょうか。
神様は、恩着せがましくありません。
押し付けがましく奇跡を見せつけません。
親は、子に愛情を注ぎます。
しかし、親は、何か子供にしてあげる度に「これは、わたしの愛の証しだよ」などと恩着せがましくはありません。
押し付けたりはしません。
親は、あふれる程の愛を子に注ぐことが喜びなのです。
親の愛は、「与える愛」なのでしょう。
神は、私たち人間の「父(親)」なる神です。
神は人間にあふれる程の愛を注ぎました。
神は、「与える神」なのです。
特にイエスを信じた者に究極の愛の証しである「永遠の命」を授けると聖書では教えています。
私たち人間は、神を目で見ることはできません。
しかし、神の創造した被造物である人間の造り(治癒力)や自然の豊かな恵みを感じることによって神を認識することができるのではないでしょうか。
しかし、現在の私たちの住む「奇跡の地球(ほし)」は、神が創造した当時と異なり傷付いた地球(ほし)であり、傷付いた人間の姿です。
歴史的に二つの大事件によって傷付いてしまったことが旧約聖書に記されています。
一つ目が、最初の人間アダムの神に対する背任です。
創造時の人間は病とは無縁であり、老化もなく、死もありませんでした。
しかし、このアダムの罪によって、人間には病が棲みつき、美貌は老化とともに衰え、死に至ることになりました。
二つ目は、ノアの大洪水です。
大洪水によって、地球のバランスが不安定になってしまったのです。
アダムが「善悪の知識の木」の実を食べたことが、何故、神に対する背任(罪)になるのでしょうか。
また、人間には「原罪」があるとキリスト教は教えます。
「原罪」とは何でしょうか。
聖書の記事を丹念に読み込み学び探究することにより、アダムが「善悪の知識の木」の実を食べたことの深い意味を「聖霊」に導かれて、答えを得たような気がします。
神の性質を知り、神を信じて、神を信頼しないと納得できない答えかもしれません。
逆に、神を信じることができれば、答えはシンプルです。
「真理」はシンプルです、修行・苦行した人だけのものではありません。
私が得た答えは、別の機会に語りたいと思います。
期待させて、申し訳ありません。
「私は、毎日、(爪が伸びる)奇跡を見ています」
★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
・親鸞、日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★
〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉(ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。