星 周作 Blog

★ 福岡より〇〇をこめて  ★

人もし死なばまた生きんや

以前住んでいた家の78歳の隣りのおばあちゃんと顔を合わせると「あと何年生きられるやら」と寂しげに会うたびに言われていました。

声に出さなくても「もっと生きたい。まだ死にたくない」との思いが伝わってくるものでした。

若い時は、近所でも評判のハイカラさんで日本でも数少ない外車を乗り回していたそうです。

 

私の82歳の祖母が病気で入院して見舞いに行った時に、祖母が哀しい顔をしながら「死にたくない」と呟いた声を30年経った今も思い出します。

 

若い時の私は、人は老人になれば死を怖れる感情が薄れていくとばかり思っていました。

だから、私も、今の若い自分は死は怖いけれど、年を取れば死は怖くなくなるだろうと思っていたのに、祖母の「死にたくない」と言う呟きが少なからずショックでした。

 

死期の近づいた病床の俳優の原田芳雄さんを見舞った俳優仲間の友人は、原田さんが「死にたくない」と言ったことに少し驚かれた話をしていました。

その友人だけでなく世間一般の原田さんのイメージからすれば「死にたくない」なんて言葉は似合わないんですね。

 

改めて言うまでもなく、死は年齢性別に関係なく誰でも怖く、避けれるものであれば避けたいものです。

 

旧約聖書ヨブ記14:14に次の聖句があります。

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内村鑑三著「聖書之研究」(1919年)の一部を少し長くなりますが引用します。

「(旧約聖書の)ヨブ記に言う、『人もし死なばまた生きんや』と。今より二千五百年ないし四千年前に書かれしこの古き書の一言は、今なおすべての人の問題である。われをのこして去りし愛する者はいずこに行きしや。われ自身の生命もまた三、四十年の後にして終わるのであるか。他の問題は解決せられたるも、ひとりこの古き問題のみは解決せられない。古来、幾多の賢哲出でてこれを解かんと試みたるも、今なお依然として一大疑問である。さらば、かかる不可解の問題はこれを放棄して、さらに有益なる他の問題に移らんか。死後生命問題の研究は断然これを廃止せんか。されども、かく決心するや否や、この問題は直ちにまたわれらに迫り来るをいかにせん。親しき者の死の面(かお)を見て、何人も、これがはたして永遠の別離なるか、再び彼または彼女と相見る時はなきかと疑わざるを得ない。その他、人生における多くの不公平なる事実のごとき、これに対する何らかの解決があるのではないか。死後の生命はたしていかに。・・・<省略>・・・来世の存在はこれを科学的に実験することができない。しかしながら純然たる科学者の立場よりこれを弁護したる者は少なくない。オクスフォード大学の教授にして世界的医学者たるウィリアム・オスラーは、『科学と死後生命』中にいわく、『医学の立場よりすれば、死後生命の存在を否定するは、これを肯定するより以上の根拠を有せず』と。また有名なるプラグマティズム哲学の権威ウィリアム・ゼームスは、『人間永生論』中に論結していわく、『脳は思想を作成する機関にあらずして、これを濾過し整理する機関にすぎず』と。彼らは学者としてまじめに霊魂または来世を信ずるのである。・・・<省略>・・・また神は愛なりという。これ最も深き真理である。しかるに人は神に似たる性格を備えんと欲して苦闘幾十年、ようやくにしてやや完全なる生涯に入らんとする時にあたり忽焉(こつえん)として打ち砕かるるがごときは残虐の極みではないか。かくのごとくにして神は愛なりと言うとも、いかでこれを信ずることができようか。・・・<省略>・・・十年二十年の努力を経て育成したる子女ほど母にとりて貴きものはない。しかるにこれをしも捨てて顧みざるごときは何の愛であるか。もし天然と人類とのすべての努力が破壊に終わらんためであると言うならば、人生は絶望である。神は決して愛ではない。われらは来世の存在によりてのみ、人生をこの大なる不合理より救うことができるのである。神は愛である。ゆえに来世は必ず有る。・・以下省略・・」

 
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新約聖書ヨハネによる福音書6:47~51の聖句はイエスの語った言葉です。
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hoshishusaku.hatenablog.com

 

★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

親鸞日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

☆星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室☆
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とてつもない話<永遠のいのち>

神が「愛」「霊」「全能」であることが認識できれば、私たちの疑問は全て解決します。

アメリカの20世紀最大の伝道者と言われたビリー・グラハム(1918年~)もその著書「神は遠くにいない」の中で次のように語っています。

「神がどのようなお方であるかをあなたが一度理解するなら、すべては解決するのである。神をほんとうに知れば問題は実に簡単だ。」

 

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特に「愛」であることを言葉としてではなく、神の本質が「愛」であることを理解することがポイントです。

 

まず始めに、神はわれわれ人を創造する際に、いいかげんに、又は、ちょっとした思い付きで創造したのでしょうか。

障害を持っている方は、中々、そうは思えないかもしれませんが、今から言うことを少し立ち止まって考えて見て下さい。

あなたの脳の構造はどうですか?いいかげんな構造ですか?

目の構造はどうですか?いいかげんな構造ですか?

心臓はどうですか?いいかげんな構造ですか?

指先や体中に張り巡らされた神経はどうですか?この神経がなかったらどうなるのでしょうか?

食べ物をおいしく食べることができる味覚がなかったらどうでしょうか?

喜怒哀楽の感情や愛の感情がなかったら私達の人生はどうでしょうか?

自分に似た子供を持つことができる恵みはどうですか?

 

いいかげんに、ちょっとした思い付きで神が人間を創造したのではないことは明らかではないでしょうか。

 

人間は神の「愛」の結晶であり宝なのです。

 

結晶であり宝である人間を、神はそうたやすくお見捨てにはなりません。

 

そこで、神が「愛」であることを真底心から理解すれば、神に対する信頼は否が応でも芽生えますよね。

 

人間の親は見返りなしに無条件に子を愛します。

その親の示す愛ゆえに子は親を信頼することでしょう。

親が時として子を厳しくしかるのも愛ゆえのことです。

その時の親のすることが不当に思えても、何らかの意味なり理由があってのことです。

大人になってみれば親の真意がわかるものです。

 

神の基準からすれば人間の愛は不完全なものです。

 

不完全な人間の親の愛ですら、子にとって全人類の誰よりも最も信頼できるものです。

 

神の愛は人間の親の愛をはるかにしのぐものなのです。

 

人類の歴史は、戦いの歴史だと言っても過言ではないでしょう。

隣人とのいさかい、部落どうしの戦い、国どうしの戦い、民族間の戦い、そして、地震、洪水、津波などの自然との戦い、人間の体をむしばむ病との戦い、最後には死との戦いです。

 

「愛」の神は何故、このような戦いをしなければならない人間をそのままにしておられるのでしょうか。

 

そのままにしなければならない原因があったはずなんです。

 

そのままにしなければいけない何らかの意味ないし理由があるはずなんです。

 

原因、意味、理由がなく、「愛」の神が、「愛」の結晶であり宝である人間をそのままにしておくわけがないんです。

 

みなさん、そう思いませんか?

 

この原因、意味、理由が書かれているのが「聖書」なのです。

 

この何らかの意味ないし理由の先に大いなる神の恵みが待受けているのです。

 

千年王国」「新天新地」「永遠のいのち」が、それです。

ただ、この大いなる恵みを受けるには、イエスを救い主(キリスト)と信じることが必要だと聖書は教えています。

 

新約聖書ヨハネによる福音書3:16
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<注釈>「世」とは人間のこと。「御子」とはイエスのこと。

 

新約聖書ヨハネによる福音書3:17
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とてつもない話で信じられないと言う方ばかりでしょう。

確かにそうでしょう。

日本のクリスチャン人口は1%と言われているのですから。

ただ、真底このことを信じている人は、1%よりもっと少ないのではと私は感じています。

 

聖書の天地創造、万物創造の神は、とてつもないお方なのです。

 

人間の尺度で測れるほどのことしかできないのであれば、人間は「なんだ、その程度のことしかできないんだ」とあなどるのではないでしょうか。

 

とてつもないお方だからこそ、神として崇めることができるのです。

 

神の栄光を讃えることができるのです。

 

新約聖書ルカによる福音書1:37に次の聖句があります。
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そうなのです。

神の辞書に不可能の文字はないのです。

だってそうでしょう。

神社にお参りに行ったら、

「われは交通安全を守るだけの神であって人類を救うことはできないのだ」

「われは安産だけの神であって人類を救うことはできないのだ」

「われは商売繁盛だけの神であって人類を救うことはできないのだ」と言われたのでは興ざめですよね。

神に得意不得意があっては困ります。

 

神にとって不可能なことは一つもありません

永遠のいのち」を人間に授けることも、神にとっては、とてつもないことではなく、たやすいことなのです。

 

↓ ↓ 聖書の他の重要なテーマについては、こちらをご覧ください。 

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https://bible-seisho.jimdo.com/

 

★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

親鸞日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

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〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉(ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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あなたはどのタイプ?

新約聖書コリント人への手紙第一1:22~25

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パウロが語ったこの聖句は、何を言っているのでしょうか。

ユダヤ人はイエスのメシア(救い主)の証明としてしきりにしるし(奇跡)を要求しました。

わたしたち多くの人間がそうであるように「しるしを見たら信じてやる」という態度です。

今風に言うと上から目線ですね。

そもそも十字架は呪いの刑ですが、救い主がみじめな呪いの刑を受けるはずがないとしてユダヤ人はつまずきます。

要するにイエスを救い主として拒否しました。

ギリシヤ人(異邦人)は当時、ギリシヤ文明、ギリシヤ哲学などがあり、知恵ある民族とされていました。

しかし、知恵あるが故に、罪人のため十字架につけられるような者が救い主だと信じることは愚かであると考えます。

また、知恵あるが故に理詰めで考え、あらゆる角度から検討した上でないと信じようとしません。

しかし、神は人間の知恵をはるかにしのぐ大きなお方です。

人間の知恵で理解し尽くすことは不可能です。

人間の知恵では理解できないはるかに大きなお方であるからこそ、神なのではないでしょうか。

現代のキリスト・イエスを信じていない人や神の存在を信じていない人も、「しるしを見たら信じるのになあ」と思っているユダヤ人タイプと、「すべてを納得しないと信じない」とするギリシヤ人タイプに分かれるのかもしれないですね。

ユダヤ人はイエスのしるしを何度も目の当たりにしたにもかかわらずイエスを受け入れることができませんでした。

神を真底求める心がないといけないような気がします。

誤解を怖れずに言うなら、この「真底求める心」を別の表現を使うと「霊感」というのかもしれません。

神を信じるには「霊感」が必要なのです。

新約聖書ヨハネによる福音書4:24に「神は霊」と記されています。

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そして旧約聖書・創世記1:26では神に「似せて」人を創ったとあります。

つまり、神の「」の性質を我々人間は持っているのです。

<参考>

異邦人とは、ユダヤ人以外の民族を言います。ですから、聖書的には私たち日本人は異邦人です。

エスは異邦人を含む全人類の救い主であると聖書は教えています。
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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「○○神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

親鸞日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

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☆星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室☆

神はいない? 真理とは?

神はいる、神はいない、このどちらかしかないですよね。

 

真理とは何でしょうか、「永遠不変の絶対的なもの」ということでしょうか。

 

神がいないのであれば、ものごとの良し悪しは、人間が便宜的に作ったその時代その時代のうつろいやすい規則やその地域の掟があるだけで、永遠不滅の絶対的なものはないですよね。

だから、国によっては、その国の最高法規と言われる憲法ですら時世に応じて度々改正が行われることになります。

 

神がいないとしたらこの世には真理はないということでしょうか。

真理が存在しないのであれば、この世を自分の欲望のまま勝手気ままに生きた者の勝ちでしょう。

ただ楽しく暮らすことだけを追求すればいいはずです。

ただ一生を通じて楽しく暮らすことができることはなく、現実は悩み、苦しみ、病気、人とのいさかい、戦争と、人間は苦難の真っただ中で生きていくことになります。

ほんの一握りの人に限って、運よく、自分の人生を振り返って満足しながら死んでいく人もいないではありません。

ただ、その人生も一瞬の走馬灯のようなものです。

 

内村鑑三先生は「聖書之研究(1910年2月)」に次のようなことを書いています。

無神論は吾人の堪え得らるるところではない。神なし、霊魂なし、愛なし、ただ盲目の力と無感の物質あるのみと言う。もし宇宙と人生とがかかるものであるならば、哲人セネカの言いしがごとく、『最も幸福なることは生まれざりしことなり、その次に幸福なることは一日も早く死することなり』である。無神論は、意味なき宇宙と目的なき人生を吾人に提供するものである。吾人はこれを信じて(もし信じ得るとして)、絶望の人となりおわらざるを得ない。」

 

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 ところで、俳優の松方弘樹さんが亡くなった時に、親友の梅宮辰夫さんがインタビューに答えて「人間死んじゃあ~お終いだ、死んじゃあ~お終いだ」と繰り返し語っていたのが印象的でした。

果たして、人間は死ねばお終いでしょうか?

そもそも「死」とは何でしょうか。

聖書は、「死」について答えています。

 

エスは「救い主」として、この世に来られました。

「救い主」は、ヘブル語では「メシア」、ギリシア語では「キリスト」、英語では「クライスト」です。

われわれ人間の「救い主」として、この世に来て下さいました。

 

何度でも引用しますが、「わたしは道であり、真理であり、命であるヨハネによる福音書14:6)」とイエスは宣言されました。

 

「真理」であるイエスの言葉に耳を傾けること(聖書を読むこと)は、何と心地良いのでしょうか。

 

かって、無神論者であった私ですが、私が神を、イエスを、信じたというよりも、神が私を信じるように導いて下さったことを本当に感謝しています。

 

★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

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・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「○○神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

親鸞日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

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学び、探究、研究

世界には、聖書を学ぶ人、探究する人、研究する人など、様々な動機を持って聖書に向き合っている数多くの人がいます。

 

ある人の研究スタイルは、神を求める研究ではなく、聖書の内容を初めから疑いをもってする研究の場合が多いでしょう。

この研究スタイルを非難しているわけではありません。

聖書を信じる者にとって、聖書の真実性に疑問を突き付けられることによって逆に信仰が深まることもあるからです。

 

神の存在を信じていなければ、聖書のある記事(奇跡物語)は伝説作り話と解釈され、仮に肯定的に解釈しても、ノアの大洪水を神の御業ではなく、自然現象の一つとして理解しようとします。

 

これから、聖書の学びをしようと考えている方は、最初は神を信じるか否かは別にして神の存在を肯定的に捉えることを前提にしていなければ聖書理解は進まないと推察します。

 

くれぐれも盲目的に無理やり信じることはしないで下さい。

盲目的信仰は、真の救いにはなりません。

 

私の聖書に対する姿勢は、イエス様をもっと知りたい、神様のことをもっと知りたい、神様のご計画を知りたいという探究心です。

 

旧約聖書及び新約聖書には「永遠の命」「天の御国」「霊」「天使」「悪魔・サタン」などが度々出てきます。

当然、最初は受け入れることが出来ずにいました。

 

私は、どこかの教会や宗教団体に属しているわけではないので、誰かから信じることを暗に強制されることもありませんでしたし、マインドコントロールを受けているわけでもないので、信じなくても一向に差し支えないのです。

 

しかし、「真理」を知りたいという欲求を抑えることはできませんでした。

 

すでに何度も引用した「わたしは道であり、真理であり、命であるヨハネによる福音書14:6)」と語ったイエスの言葉に導かれ、聖書を学び、探究し、研究することにより「永遠の命」「天の御国」の希望、「霊」「天使」「悪魔・サタン」の存在を確信することが出来るに至り、現在も、学び探究し研究を継続しています。

 

もう一度言いますが、「永遠の命」「天の御国」「霊」「天使」「悪魔・サタン」のことを盲目的に信じたわけではありません。

 

批判的、否定的な文献も検討した上で信じたものです。

 

私の中では、合理的な根拠を基に確信しています。

 

この私の合理的な根拠は、別の機会に徐々に明らかにしたいと思います。


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・商売繁盛の神、龍神など「○○神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

親鸞日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

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働くということ

旧約聖書箴言12:9
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旧約聖書箴言6:9~11
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新約聖書・テサロニケ人への手紙第二3:10
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新約聖書・マタイによる福音書6:24~25
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 働くことは尊いものです。

しかし、富に仕える(富の奴隷)になることを、聖書は戒めています。

 

hoshishusaku.hatenablog.com

 

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・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

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・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

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のり弁的聖書解釈

私は「のり弁的聖書解釈」をしません。

のり弁的聖書解釈とは、自分にとって都合の良い解釈を聖書の学びに持ち込むことです。

聖書のある箇所は信じるが、別のある箇所(奇跡物語など)は信じられないとして、その信じられない箇所を塗りつぶすというものです。

実際はその部分を読み飛ばすこと。

聖書は旧約聖書の初めの「創世記」から新約聖書の「黙示録」まで、首尾一貫して万物の創造主である全能の神と救い主イエスの存在とその教えを記している書であり、聖書の一部を否定することは、建物に例えると建物を支える構造材の一部を取り除くのと同様になり、建物である聖書自体が揺らぐことになると考えるからです。

学びが浅く、信じられない箇所があっても少なくとも「受け入れる」ことが肝要ではないでしょうか。

「のり弁的聖書解釈」特に奇跡物語を塗りつぶした聖書は、その人にとっての「哲学書」「倫理書」の価値があったとしても、もう聖書と呼ぶに価しないような気がします。

「のり弁的聖書解釈」は、神のことばである聖書を自分基準のものに作り変えるものであり、神の性質を人間基準に引き下げるものだと考えます。

神の栄光を損なうものではないでしょうか。

聖書をのり弁的に減じることだけでなく、付け加えることも断じて戒めなければなりません。

なぜなら、新たな「〇〇教」を創りあげることになるからです。

場合によっては、人の心を魅了する聖書のある言葉フレーズを、つまみ食い的に用いたカルトに聖書が利用されかねないからです(実際そのような宗教もありますね)。

聖書を真正面から取り組み、「わたしは道であり、真理であり、命である」とイエスが語った真理を見つけていただきたいと思います。

そして、聖書の学びによって「神の栄光をたたえる」ことができるようになりたいものです。

新約聖書ヨハネによる福音書14:6


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<注>「のり弁的聖書解釈」という言葉は、私が、便宜的に造った言葉です。念の為。

 

★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「○○神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

親鸞日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

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