のり弁的聖書解釈
私は「のり弁的聖書解釈」をしません。
のり弁的聖書解釈とは、自分にとって都合の良い解釈を聖書の学びに持ち込むことです。
聖書のある箇所は信じるが、別のある箇所(奇跡物語など)は信じられないとして、その信じられない箇所を塗りつぶすというものです。
実際はその部分を読み飛ばすこと。
聖書は旧約聖書の初めの「創世記」から新約聖書の「黙示録」まで、首尾一貫して万物の創造主である全能の神と救い主イエスの存在とその教えを記している書であり、聖書の一部を否定することは、建物に例えると建物を支える構造材の一部を取り除くのと同様になり、建物である聖書自体が揺らぐことになると考えるからです。
学びが浅く、信じられない箇所があっても少なくとも「受け入れる」ことが肝要ではないでしょうか。
「のり弁的聖書解釈」特に奇跡物語を塗りつぶした聖書は、その人にとっての「哲学書」「倫理書」の価値があったとしても、もう聖書と呼ぶに価しないような気がします。
「のり弁的聖書解釈」は、神のことばである聖書を自分基準のものに作り変えるものであり、神の性質を人間基準に引き下げるものだと考えます。
神の栄光を損なうものではないでしょうか。
聖書をのり弁的に減じることだけでなく、付け加えることも断じて戒めなければなりません。
なぜなら、新たな「〇〇教」を創りあげることになるからです。
場合によっては、人の心を魅了する聖書のある言葉フレーズを、つまみ食い的に用いたカルトに聖書が利用されかねないからです(実際そのような宗教もありますね)。
聖書を真正面から取り組み、「わたしは道であり、真理であり、命である」とイエスが語った真理を見つけていただきたいと思います。
そして、聖書の学びによって「神の栄光をたたえる」ことができるようになりたいものです。
<注>「のり弁的聖書解釈」という言葉は、私が、便宜的に造った言葉です。念の為。
★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「○○神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
・親鸞、日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
☆星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室