聖書の矛盾? 聖書は作り話?(その⑧)
(その⑦)の続き。
前回、イエスがバプテスマ(洗礼)のヨハネの弟子であったと捉えていた作家の遠藤周作の著書「イエスの生涯」の一部を引用しましたが、もう一箇所引用します。
「(洗者)ヨハネの抱く神のイメージは父親のイメージである。怒りと裁きと罰のイメージでもある。それは旧約(聖書)にさまざまな形であらわれる峻厳仮借ない神であり、おのれに従わぬ町を亡ぼし、民の不正に烈しく怒り、人間たちの裏切りを容赦なく罰する厳父のような神である。」
確かに、旧約聖書では、神が偶像崇拝の罪を犯し堕落した人間を滅ぼすエピソードが何度も出て来ます。
大洪水によってノアの家族8人以外の人間を滅ぼしました。
ソドムの町を滅ぼしました。
反キリストの人たちや聖書が作り話だと主張する人たちは、神は大虐殺(ジェノサイド)をしたと非難します。
また、聖書を学び始めた間もない人やキリスト者(クリスチャン)の中の一部の人は、次の聖書箇所にくると、「神は愛である」(ヨハネの手紙第一4:16)はずなのに、この聖書箇所はどういうことだろうと神の愛に疑問を持つようです。
申命記2:33~34
ヨシュア記6:20~21
昨年9月18日のブログで取り上げた敬虔なキリスト教徒であったにもかかわらずキリスト教を棄てた大学教授のバート・D・アーマンは、著書「破綻した神キリスト」で次のように書いています。
「この神は、童謡や日曜学校のパンフレットに描かれるような、親切で慈悲深く、優しく寛大な神ではない。この神は、自分を崇拝しない民をズタズタに引き裂く獰猛な野獣である。」
このように、かなり激しく神を攻撃しています。
9月18日のブログでバート・D・アーマンを取り上げた「ダースベイダーにはなりたくない」を未読の方は、こちらもご覧ください。
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さらに、「利己的な遺伝子」「盲目の時計職人」などの進化論の著書で有名な筋金入りの進化論者のリチャード・ドーキンスは著書「神は妄想である」の中で徹底的に神の存在を否定し、聖書の神を攻撃しています。
少し長くなりますが一部引用します。
「モーセの時代に始まった民族浄化は『ヨシュア記』において血まみれの成果をもたらすが、『ヨシュア記』のテキストは、そこに記録された血に飢えた大虐殺と、その模様を描く上でこれでもかと盛り込まれる、よそもの嫌いの感情において注目すべきものである。・・・中略・・・ヨシュアは、イスラエルの民が『男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽く』すまで、休むことがなかった(ヨシュア記第六章二一節)。またしても、神学者は抗議するだろう。そんなことは実際には起きなかったと。それはまあ、そうなのだ。この物語は、人々の叫び声とラッパ(角笛)を吹き鳴らす音だけで城壁が崩れ落ちたと述べているが、確かに、そんなことは起きなかったが、それは話の本筋ではない。肝心なのは、真実であろうがなかろうが、聖書が私たちの道徳の源泉として引き合いに出されることである。そして、聖書の、ヨシュアによるエリコの破壊や約束の地全般への侵略の物語は、道徳的には、ヒトラーのポーランド侵略やサダム・フセインによるクルド族やマーシュ・アラブ族と区別しがたいものである。聖書は人目を引くための詩的な虚構の作品かもしれないが、自分の子供の道徳を形成するために与えるような類の本ではない。」
すでに天地万物の創造主(神)の存在を信じた後に上記の申命記とヨシュア記の箇所を読んだ私は、直ちに神の愛を疑うことはなかったものの、神の御心を推し量ることが出来ずにいました。
ただ、聖書の学びを続ければ、必ずや神の御心がいつの日か理解できる時が必ずくるはずとの思いを持ち続けました。
皆さんはどのように感じるかはわかりませんが、今では、次のように私は考えています。
もし、聖書が作り話であれば、神は愛であり慈悲深い御方で、人間のどんな過ちも赦される御方なので、この御方を崇拝せよと創作したほうが、一般の人間の感情にも一致して大多数の人間に受け入れられたはずです。
または、私が作り話を書くなら、少なくとも「子供を除外した男や女をすべて聖絶した。」というような創作をしたでしょう。
ところが、上記の申命記とヨシュア記の箇所で子供まで聖絶したと記されたのは、作り話ではなく、歴史上の事実だったからこそ聖書記者の感情に反することであったはずなのに、その事実を淡々と記す必要があったのです。
リチャード・ドーキンスの最大の誤解は、聖書が道徳を教えている、聖書は道徳を教えるべきだと考えていることです。
人間の道徳とはなんでしょうか。
ヒューマニズム(人道主義)という考えがありますが、それに近いものでしょうか。
私は、聖書の神を信じる前までは、ヒューマニズムは、人間の善の表れだと思っていました。
しかし、聖書を学んでわかったことは、人間の善悪の基準と私たち人間を創造した神の善悪の基準とは異なるということです(もちろん全て異なるということではありません)。
アダムが禁断の「善悪の知識の木」を食べたことによって、アダム及びアダムの子孫である私たち人間は、創造主(神)の御心に反して、人間の作った善悪の基準に従った生きる道を選んでしまったのです。
私たちは人間の善悪の基準ではなく、ヒューマニズムでもなく、イエス・キリストを信じることによって創造主(神)の御心(善悪の基準)に還る必要があります。
皆殺しされた人たちの中に、人間の善悪の基準からすれば罪のない子供たちもいました。
この子供たちの「死」を私たち生身の人間は受け入れることが出来ず、殺すことを命じた神に対して「神が愛なんてウソだ」と非難の言葉を浴びせます。
しかし、私は、「神が愛である」ことを疑いません。
愛である神をとことん信頼すると心に決めています。
「天使、サタン、悪霊」のテーマのブログで創造主(神)は、御自身の壮大な計画のためにサタンの存在さえも許しておられると書きました。
創造主(神)の御心は、私たち人間の考えが及ばない程、奥深いのです。
創造主(神)の知恵に遥かに劣る被造物の人間の知恵で、創造主(神)を非難することは慎むべきではないでしょうか。
皆殺しにされた子供たちが死後どのようになるのか、聖書には何一つ書かれていないので、軽々に書くことはできませんが、創造主(神)を絶対的に信頼する私は、次のように考えています。
創造主(神)は、見えるものだけでなく見えないものも創造した天地万物の創造者です。
そして、私たち人間の、この地上での「生」を保ち支配しているのはもちろんですが、「死」と「死後の世界」をも支配されている御方であることを忘れてはなりません。
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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・天地万物の創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。