星 周作 Blog

★ 福岡より〇〇をこめて  ★

矛盾、批判(パートⅡ)

<前回からの続き>

 

昨日とは異なるテーマのブログをアップする予定でしたが、今から取り上げるテーマも前回テーマ「矛盾、批判」と類似するので、パートⅡということでアップすることにしました。

 

本題に入る前に、星周作という私のH・N(ハンドル・ネーム)について説明します。

私は、聖書研究のためにキリスト教関連書籍を毎日読んでいますが、そもそも時代小説と海外ミステリーが好きなので、現在は、山本周五郎藤沢周平のほか、北欧ミステリーを聖書研究の合間に読んでいます。

高校時代は遠藤周作の狐狸庵先生シリーズが好きで、このシリーズをキッカケに遠藤周作ファンになりました。

ということで、ファンである山本周五郎藤沢周一・遠藤周作の3人の「周」を取ってH・Nとしたものです。

 

本日は、カトリックのクリスチャンであった遠藤周作イエス・キリストをテーマにした本の一部を取り上げます。

 

これから書くことは、H・Nにする程のファンである遠藤周作を批判するものではないことを、ご理解ください。

 

「イエスの生涯」の一部を引用します。

「周知のように我々が手にしている聖書は、必ずしもイエスの生涯を事実通りに追っているわけではない。カトリック側もプロテスタント側もこのことを等しく認めている。たとえばマタイ、マルコ、ルカの共観福音書ヨハネ福音書とを読み比べるならば、同じイエスの行動でもその時間的配置に食いちがう点が幾つかある筈である。(たとえばエルサレム神殿におけるエスの宮きよめの出来事は、先にものべたようにヨハネはイエスの初期時代のものとして語っているのに、共観福音書はこれを死の直前と考えている)その食いちがいについてはそれぞれの学者にそれぞれの説があるが、いずれも確たる裏づけがあるわけではない。したがって、そうした食いちがいの部分をイエスの生涯のどこに置くかは、聖書を読む者の捉えたイエス像によって決まるのである。」

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当時のエルサレム神殿では、捧げ物をする際のキズのない羊や子牛、鳩などを高価で売っていたり、その捧げ物を購入するための外国貨幣の両替をしていました。

そして、神殿管理者(大祭司)は、その商売人たちから場所代を徴収し不正な蓄財もしていました。

 

エスは、宮(神殿)を商売の場所にしていることに憤慨したのです。

これが、いわゆるイエスの「宮きよめ」です。

 

そこで、上記の遠藤周作の記述において、「宮きよめ」が4福音書のうちヨハネではイエスの活動の初期に行われているのに、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書では、イエスの活動の終盤に行われているから、時期がズレているのはおかしい、矛盾しているのではないかと、遠藤周作だけでなく、多くの学者が主張しているというのです。

 

「宮きよめ」の時期はズレているのでしょうか。

矛盾しているのでしょうか。

 

長くなりますが、4福音書を比較してみましょう。

 

新約聖書ヨハネによる福音書2:13~16

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新約聖書・マタイによる福音書21:12~13

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新約聖書・マルコによる福音書11:15~17

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新約聖書ルカによる福音書19:45~46

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内容的には、4福音書ともほほ同じですね。

ただ、赤文字の箇所の文章内容がヨハネと他の3人では違いますね。

 

ここで、もう一つの情報です。

ヨハネ福音書は全21章あり、宮きよめは2章で登場します。

つまり、イエスの活動の初期です。

マタイ福音書は全28章あり、宮きよめは21章で登場します。

マルコ福音書は全16章あり、宮きよめは11章で登場します。

ルカ福音書は全24章あり、宮きよめは19章で登場します。

つまり、3福音書は、イエスの活動の終盤です。

 

結論は、極めて単純です。

「宮きよめ」は、イエスの活動の初期と終盤の2回行われていたのです。

「宮きよめ」がイエスの活動中、1回しか行われていなかったと聖書を読み取った単純な解釈ミスです。

福音書の「宮きよめ」の前後の記事をみれば明らかです(長くなるので、引用しません。各自で確認してください。)

 

要するに、イエスの活動の初期に「宮きよめ」をしたにもかかわらず、商売人たちは、その後も懲りずに続けていて、イエスの活動の終盤に再度「宮きよめ」が行われたというだけの話です。

公的な権威がないイエスから憤慨されたくらいで、生活もかかっている、したたかな商売人が止めるわけがないのです。

 

以上が、イエスの「宮きよめ」の真相だと、私は解釈しています。

これは、私の独自解釈などではなく、聖書を真実の書であると信頼し、聖書を字義通り解釈しているクリスチャン神学者や牧師にとっては、疑問の余地のないものです。

 

聖書を最初から疑っている人にとって、ほんの些細なことも矛盾に感じたり、デッチ上げだと批判することになるようです。

 

聖書を信頼し真実の書であるという前提に立てば、一見矛盾だと見えるものでも、聖書全体を詳細に検討し、他の文献を調べることによって、ジグソーパズルのピースが収まるところにピッタリと収まるように、聖書が何の矛盾もなく調和している書であるとわかるはずです。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。

 



★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

親鸞日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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