わたしは、外形的にはカトリックやプロテスタント等のどの教会にも属さない無教会者であって、牧師でもなんでもなく、そして、平信徒とすら呼べない者です。
ただ、イエスをメシア(救い主キリスト)と信じた者であり、イエスの僕になれるように願い祈っている一人として、聖書を研究する際に心掛けていることがあります。
わたしが聖書を読み、聖句の意味するところを理解しようとする際に最も重要視していることは、次の2つのことです。
(1)命の源である天地万物の創造主であって全能の神(エル・シャダイ)が存在すること
(2)イエスが道であり、真理であり、命であること
大黒柱は普通1本ですが、この2つが、わたしの聖書に取り組む際の大黒柱です。
聖書を研究している過程で痛感することは、旧約聖書の教えていることと新約聖書の教えていることは首尾一貫していることです。
誤解を恐れずに言えば、聖書の教えは単純です。
聖句の一行一行を理解しようとしたとき、その難解さの壁に立ちすくむこともありました。
しかし、命の源である天地万物の創造主である神が愛であること、イエスが道であり、真理であり、命であることに信頼を置いていれば、その時には理解できなかった難解な聖句もあとあと「あっ、そういうことだったのか」と目が開かれてきたのです。
「愛」が強調され過ぎると目が開かれないこともあるようです。
「愛」と「(正)義」は一体です。
旧約聖書の厳し過ぎる神に不満を抱く方もいるようです。
不正を見逃がして愛は実現できないでしょう。
聖書には、信仰のない人には信じることのできない奇跡や出来事が書かれていたり、聖書はでっち上げ伝説に過ぎないと言ったりする人がいます。
信仰のある人でも中々理解できないことが聖書に書かれていたり、解決できないこと(例えば、戦争、災害、病い、障害など)が、この世の中で度々起こります。
この理解できないことや解決できないことが「つまずきの石」となり、神を信じない人には、より一層神に背を向ける結果となり、神を信じていたはずの人は、神から遠ざかっていく結果になることもあるようです。
しかし、愛そのものである命の源である天地万物の創造主の神とイエスが道であり、真理であり、命であることに信頼を置くとき、この理解できないことや解決できないことに「必ず意味があるはず」との思いを失うことがなければ、いつの日かわたしたちに答えが与えられるはずです(とわたしは信じています)。
いままで理解できなかったこと解決できなかったことも、この「必ず意味があるはず」との思いが叶い、「あっ、こういうことを神様はわたしに伝えたかったんだ」とわかった時の喜びが聖書研究の醍醐味であり、わたしの快楽です。
わたしのような人間が言えることではありませんが、どうか許してください。
神は「つまずきの石」につまずかないで、一人でも多くの人間が神の御許に還ってくることを願っているのではないでしょうか。
命の創造主である神に不可能はありません。
命を再生(復活)させて永遠の命を与えることがお出来になります。
★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
・親鸞、日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★