星 周作 Blog

★ 福岡より〇〇をこめて  ★

いけにえの血と贖い(その①)

 

早速ですが、本日のテーマに入ります。

まず、旧約聖書レビ記1:1~5をご覧ください。

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聖書は血生臭いから好きになれない、と言われる方がいたりします。

恐らく、旧約聖書の上記のレビ記のいけにえの血や新約聖書のキリストの血の意味することを知らないで、血だけをクローズアップして拒否反応を示しているのだろうと思われます。

 

「いけにえの血」と「キリストの血」について、3人のキリスト者の著書から引用します。

内村鑑三は次のように書いています。

旧約聖書は『真の物の模(かた)』である。神の子(イエス)をもって施されるべき完全なる救いをあらかじめ教えんがために、レビ記の示すがごとき、しかも精密なる儀式が行われたと見て、この書(レビ記)の価値が充分に認められる。まことに罪のゆるしは容易のことではない。『血を流すことなくしてゆるさるることなし』(ヘブル9:22)。ただ悔いただけでゆるさるるにあらず、ただ祈っただけできよめらるるにあらず、あるものが罪人に代わって血を流さねばならぬ。まことにいとうべき血なまぐさき教えである。ゆえにある人は聖書の宗教を称して『屠殺者の宗教』であるという。牛、羊、山羊、鳩、これらを神の前に殺してその血を流すにあらざれば、罪のゆるしとこれに伴うすべての恩恵はくだらないという。まことに無慈悲きわまる宗教であるように見える、されどもこれ人生の事実なるをいかんせん。神の子(イエス)が一点の罪なくして人類全体に代わりその罪を負いて血を流し、狂暴の死(十字架)につきたりと知って、信者各自の心の奥底に真の平安を覚ゆる理由はここにあるのである。」

 

続いてF・B・マイヤーです。

「犠牲のうち、全焼のいけにえ(燔祭・はんさい)について示されています。このいけにえは、全部焼いてささげるので、その名があります。すべてが焼かれるということは、全き献身を意味しています。人はこの祭を行なって、自らの献身の全きことを示したのです。そして、それは、やがて来るキリストの犠牲の死を預言するものでもありました。『キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました』(エペソ5:2)。まさに御子(キリスト)の御父に対する献身は完全無欠でした。」

 

最後にJ・I・パッカーです。

「贖い(あがない)とは償いをすること、違反を抹消すること、不正行為に対する賠償をすること、したがって離反した相手と和解し、引き裂かれた関係を修復することを意味する。聖書は、すべての人間が自分の罪に対する贖いを必要としており、しかも自分で自分の罪を贖うための力も能力も完全に欠いている者であると述べている。私たちは聖い神に対して罪を犯した。聖い神のご性質は罪を憎み、罪を罰することである。このような神に受け入られること、あるいは交わりを持つことは、贖いがなされない限り期待することはできない。私たちの最高の行いの中にさえ罪がある以上、罪の償いをしようとして私たちがどんなことをしたとしても、それは私たちの罪責感を増すか、状況を悪化させるだけである。・・・中略・・・私たち人間が神に対して罪を犯したにもかかわらず、創造者なる神は、私たちの罪ゆえに必要となった贖いをご自身で用意された。この驚くべき恵みが、新約聖書の信仰、希望、礼拝、倫理、霊的生活の中心である。・・・中略・・・神がイスラエルをエジプトから連れ出したとき、神は契約関係の一部として、『肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちの贖いをするのは血である。』(レビ記17:11)、傷のない動物の血を流してささげることを中心とする犠牲の制度を定めた。これらの犠牲は『象徴』であった(すなわち、それらは『予型』として将来に来る別のもの(キリスト)を指し示していた)。犠牲が忠実にささげられたときに、罪は事実上見のがされきたが(ローマ3:25)、罪を実際に消し去ったものは動物の血ではなく(ヘブル10:11)、『対型』である罪のない神の御子イエス・キリストの血であった。十字架によるキリストの死は、十字架以降に犯された罪ばかりでなく、十字架以前に見のがしてきたすべての罪をも贖った(ローマ3:25~26)。新約聖書が、キリストの血について言及するとき、それは常に犠牲(いけにえ)としての血である(ローマ5:9)。」

 

以上3人のキリスト者が語っているように旧約聖書レビ記に書かれている牛や羊などの動物の「いけにえの血」は、後に現れて十字架上で血を流されることになる主イエス・キリストの「型(かた)」だと言うことなのです。

 

イエス・キリストは人間の罪の贖いのために、ご自身を「いけにえ」としてささげてくださったのですが、キリストがリアルに登場する新約聖書だけでなく、未だキリストがリアルに登場しない旧約聖書を含む聖書全体が主イエス・キリストを抜きにしては意味をなさないものです。

 

内村鑑三は次のように語ります。

「聖書は一名これをイエス・キリストの伝記というてもよいと思います。その旧約聖書なるものは、キリストがこの世に生まれて来るまでの準備をのべたものであって、新約聖書は、キリストのこの世における行動や、あるいは直接にキリストに接した人の言行等を伝えたものであります。もし聖書の中からキリストという人物を取り除いて見るならば、ちょうど石橋より枢石(かなめいし)を引き抜いたようなものでございまして、その全体が意味も形象(かたち)もないものとなるだろうと思います。聖書の解し難いのは、文字のゆえではなく、また理論のこみ入っているわけでもなく、じつにキリストがその枢石である事がわからないからでございます。それゆえ、ひとたびキリストと彼の真意とがわかりさえすれば、聖書ほど面白い書は世の中にまたとなく、またこれほど読みやすい書はないようになります。」

 

つまり、「旧約聖書新約聖書」イコール「真理」イコール「主イエス・キリスト」なのです。

 

イエス・キリストを信じたからといって、キリスト者がお金持ちになったり、この世の成功者になるわけではありません。依然として、予期せぬ苦難が降りかかり、病に侵されることもあります。しかし、キリストを信じた後はキリストを信じる前とは全く異なり、苦難や病さえも別の意味を持ちはじめ、心に平安と歓びが満たされることになるのです。

私自身も個人的には困難な問題を度々抱えることになる人生を日々過ごしているわけですが、聖書の真理を知り聖書にのめり込む日々を過ごすことによって、主イエス・キリストにあって、苦難の中にあっても心は平安であり歓びに満たされている日々なのです。

 

↓ ↓ (その②)はこちらをクリック

hoshishusaku.hatenablog.com

 

 

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https://bible-seisho.jimdo.com/

 


★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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