まず、次の聖書箇所をご覧ください。
マタイの福音書8:28
マルコの福音書5:1~2
ルカの福音書8:26~27
マタイの福音書8:28で、悪霊につかれた人をイエスがいやす場所が「ガダラ人の地」としているのに対して、マルコの福音書5:1とルカの福音書8:26では「ゲラサ人の地」となっています。
そこで一部の学者は、地名が異なり矛盾するので、聖書は作り話だと主張します。
しかし、これは矛盾でも何でもなく、ゲラサ人の地はガリラヤ湖東岸の「町」を指しているのに対して、ガラダ人の地はガリラヤ湖東岸の「地域」を指しているだけの話です。
例えば、福岡市博多区に住んでいる人が「博多っ子の私の住所は博多です」と言った場合と「福岡市民の私の住所は福岡市です」と言った場合に、博多と福岡市では地名が異なるから矛盾しているとは誰一人として言わないでしょう。
同じ箇所で、悪霊につかれた人の数がマタイ8:28では二人としているのに対して、マルコ5:2とルカ8:27では一人となっているようです。
これも、一部の学者は、二人と一人では矛盾するので、聖書は作り話だと主張しますが、これは矛盾ではなく、マルコとルカは悪霊につかれた深刻な一人に焦点を当てているに過ぎないのです。
学者などの一部の人が矛盾だと指摘する箇所は矛盾でも何でもなく、実際起こった事実だからこそ、聖書記者がどこに焦点に当てるかによって、説明する内容の書き方が微妙に異なることになるのです。
もし、数人の記者が、同じ場面を書く場合に、一字一句すべて同じように書いているほうが、真実性を疑ってみるべきではないでしょうか。
数人が通謀(つうぼう:あらかじめ示し合わせること)してウソの情報を書いている可能性があるからです。
また、一部の学者は、聖書の原本は全て失われていて、全て写本なので、書き写す際に書き換えられた可能性があると主張します。
しかし、上記の「ガダラ人の地」と「ゲラサ人の地」の違いこそ、書き写す際に、どちらかの地に統一するように書き換えても不思議ではないのに、それをしていない点においても、私は聖書の真実性を感じるのですが、皆さんはどうでしょうか。
聖書全般を通して、学者などの一部の人が矛盾だと指摘する聖書箇所に、私は魅力を感じ惹きつけられるのです。
何故かと言うと、私の直感が、矛盾だと指摘される聖書箇所にこそ聖書の真実性が潜んでいると訴えてくるからです。
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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・天地万物の創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
・親鸞、日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。