被造物はうめいている(最終回)
(その②)の続き。
食事を美味しくいただくことが出来る「味覚」は、人間が生を楽しむための一つとして創造主(神)が授けてくださった恵みだ、と私は理解しています。
人間は、アダムが禁断の果実を食べて創造主(神)に背いたことにより、被造物全体がのろわれて創造の本来の姿から、かけ離れた状態で現在に至っています。
ですから、アダムが創造主(神)に背いてから現在に至るまで、人間は真の意味での人生を楽しめずにいます。
「いや、私は充分に人生を楽しんでいる」と言われる方もおられるでしょうが、そのように言われる方も、人知れず仕事上のストレスを抱えている時があったり、人間関係に悩んだりすることもあったり、家族との別離(死別)で涙することもあったり、予期せぬ病に冒されることもあったり、自然災害に遭遇することもあったりするのではないでしょうか。
創造主(神)が人間を創造した目的は、仕事上のストレスを人間に抱えさせるためではなく、人間関係に悩ませることにあるのではなく、家族との別離で涙を流させることでもなく、病に冒させることではなく、もちろん自然災害に遭遇させるためでももちろんありません。
今は、将来訪れる栄光までの産みの苦しみの状態であり、必ずや被造物自体も滅びの束縛から解放される日が訪れて、創造主(神)が想定されている麗しい本来の状態に回復されることを、前回のブログで確認しました。
ただ、その回復される日が何時なのか創造主(神)がお決めになることで私たち人間には分かりません。
回復される日までに私を含め多くの人間たちはガンなどの病気、交通事故、地震、台風、津波などの自然災害によって命を失っている可能性が高いと思われます。
主イエス・キリストを信じるキリスト者だけは創造主(神)から守られて不慮の事故によって命を失うことはないなどということはなく、全ての人間たちと同様に例外なく、何時予期せぬ事故や自然災害によって死に至るかもしれません。
だからこそ、私たち主イエス・キリストを信じるキリスト者にとって「復活の希望」を抱きつつ、のろいから解かれて回復されるその日を待ちわびるのです。
「復活の希望」があるからこそ、将来訪れる栄光までの産みの苦しみの状態、つまり、のろいの状態にキリスト者は忍耐することができるのです。
「復活」が現実に必ず起こることだと心底信じることができるかどうか、これが、最も重要な信仰の鍵だと私は考えています。
「復活」の信仰が確かなものでなく不安定であれば、自分の最も愛する人との死別など、人生の中で遭遇する様々な患難の際に、創造主(神)の愛を疑ったり、創造主(神)の存在を否定するといったようなことになりかねないのではないでしょうか。
過去のブログ「復活と永遠のいのち」の中で復活について書いていますが、本日は内村鑑三が明治33年(1900年)9月に創刊した「聖書之研究」という月刊誌の1914年7月の復活に関する記事を以下一部引用したいと思います。
「信者に復活の希望がある。これがなくして彼は信者ではない。『とにもかくにも死にたる者のよみがえりにあずからんことを』(ピリピ人への手紙3:11)とは、使徒パウロの希求(ねがい)であってまた信者各自の希求である。信者の希望というは実にこの復活の希望である。彼はただ漫然として未来の希望をいだくのではない。彼はキリストのごとくよみがえりて、永遠の栄光(さかえ)に入らんと欲するのである。・・・中略・・・信者にありては復活は現世の終わりにおこなわるる事である。・・・中略・・・信者が復活を待ち望むは、目的(めあて)なき根拠(よりどころ)なきものを望むのではない。すでにキリストの霊を受け、彼の心の深き所に復活の力を実験するがゆえに、その、ついに彼の死すべき肉体(からだ)をも生かすに至るべきを望みかつ信ずるのである。・・・中略・・・イエスは信者の内にありて復活したもうて、信者と共に復活したもうのである。信者はイエスの復活の同伴にあずかるのである。彼と共に挙げられるのである。『われ生くるれば、なんじらも生くべし』(ヨハネの福音書14:19)と彼が言いたまいしはこの事である。・・・中略・・・吾人が今日有する肉体のみが霊魂を宿すに足るの唯一の機関であると言うことはできない。血肉は神の国を嗣(つ)ぐことあたわずというは、神の国に入りてその市民たるの特権にあずかる者は血肉以外のさらに巧妙なる身体を備えたる者ならざるべからずとの意(こと)ではあるまいか。パウロの言えるがごとく、すべての肉同じ肉にあらず、人の肉あり、獣の肉あり、鳥の肉あり、魚の肉あり。さらばその他にさらに天使の肉あり、霊体を構成する救われし信者の肉ありと言うを得ざるか。神の能(ちから)は吾人の肉眼に触るるところの造化もって尽きたりと言うことはできない。彼があるいは吾人が今日なお知らざるところの元素をもって、あるいは今なお人に知られざるところの動力をもって、この肉体よりさらに精巧なる身体をもって、イエスによりてあがなわれし信者の霊魂を装いたもうとは、信じがたいことではない。」
内村鑑三が言うように、獣の肉体、鳥の肉体、魚の肉体があり、又、クラゲのような透明な肉体や光を発する動物の肉体があるように、主イエス・キリストを信じるキリスト者の復活は「栄光のからだ」を備えたものであり、病に冒されることもなく、もちろん死にいたることもないものだと理解することができるのです。
もし、キリスト者が死後に主イエス・キリストの再臨の時に復活するということが空想の世界の絵空事であるのであれば、聖書を学ぶ必要性は全くなく、イエスをキリスト(メシア)と信じる必要もなく、創造主(神)の存在を信じる必要さえもない、と私は考えています。
イエス・キリストの復活と信者の復活の奇跡が非理性的で非合理なものではなく、理性的であり合理的であることを2017年9月9日のブログ「理性的、合理的」に書いています。未読の方は、こちらもご覧ください。
「復活の希望」はキリスト教信仰の最重要の要です。
私を含め一人でも多くの人たちが「復活の希望」の信仰を強固に持ち、将来訪れる栄光までの産みの苦しみの現在の状態(のろいの状態)を耐え忍んで、主イエス・キリストの再臨を待ち望むことを願います。
アーメン。
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https://bible-seisho.jimdo.com/
★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・天地万物の創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。