苦しみや悲しみのときの出会い
「世には、聖書には全く無関心で一生を終える人も少なくない。
だがどんな人であっても、一生に一度や二度、必ず、『ああ神よ』と叫び、『一体どうしたらいいのだろう』と、うめくような悲しみや苦しみにあうことがあるのではないか。
もし、そうしたときに、その人が聖書を知っていたならば、その苦しみや悲しみは、その人にとって、単なる苦しみに終わらず、もっと別の意味を持つかもしれないのである。
私自身、聖書を知らなかったときの自分と、知ってからの自分とを比較して、そう思うのである。
私は13年間もの長い病気もした。肉親や恋人の死にもあった。
人間関係の悩みにもあった。だが、聖書を知ってからのそうした悲しみや苦しみは、以前の悲しみや苦しみとは全く別の意味を持つようになった。
私は、聖書を一度も手にしたことのない人、読んでみたいが、むずかしそうで読めないと思っている人、そうした人たちと一緒に、新約聖書の世界について、つとめて平易に語り合いたいと思って、稿を起こした。私にとっても、聖書はむずかしい本であっただけに、そうした人たちの気持ちがわかるからである。・・・」三浦綾子著「新約聖書入門・まえがき」より
★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「○○神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
・親鸞、日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
☆星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室☆