星 周作 Blog

★ 福岡より〇〇をこめて  ★

お目出度い人

昔、聖書を学び始める前までの、神とイエス・キリストを信じていない頃の私は、テレビの時代劇の中に出てくる切支丹(キリシタン)と呼ばれる人達が死をも恐れずに時の権力者に迫害されてもパラダイス(天の御国での永遠の命)を信じ信仰を堅く守っている姿を観て、すごい人達だなあと思うのと同時にパラダイスをまともに信じるのは「お目出度い人達だなあ~」と小馬鹿にして観ていたところがあったような気がします。

 

小馬鹿にしていた私自身がいつしか天地万物の創造主である神とイエス・キリストを信じることによって「死者の復活」と「永遠の命」を信じるようになり、「お目出度い人」の仲間入りをするとは露ほどに思っていませんでした。

 

「お目出度い人」という表現は、あくまでも自虐的に表現したものであり、土のちりから人間をそもそも創造された神ですから「死者の復活」や「永遠の命」を授けることなどたやすいことだ、と信じることは当然の帰結になるのです。

 

他人(ヒト)から口に出して言われるのではなく「あの人クリスチャンで永遠の命とか馬鹿げたことを信じているお目出度い人よ」と心の中で思われているんじゃないかと、ある時期まで恐れていましたが、今では、聖書の学びを深めることによって確信を持つに至ると人の評価は全く気にすることがなくなりました。

神とイエス・キリストを信じることができるようになっている自分自身に驚くと同時に歓びでいっぱいです。

 

話は変わりますが、部厚い聖書を真剣に学び始める前までに持っていた先入観がありました。

旧約聖書の創世記から新約聖書ヨハネの黙示録までの記事は数千年の時の隔たりがあり、複数の著者が時を隔てて書いている以上、記事の前後につじつまの合わない箇所が必ず出てくるはずだと考えていました。

 

実際学びを進める中で、神がなされることに反発を覚えたり理解に苦しむ箇所が数多く出てくることがありました。

しかし、時を置いて別の記事を読むことによって、はっと気付かされるときがやってくるのです。

これをインスピレーション(霊感)というのでしょうか。

神に反発を覚えた箇所や理解に苦しんだ箇所の神の真意が分かるのです。

このことは、旧約聖書の記事では理解出来なかった箇所が、新約聖書を学ぶことによって旧約聖書の疑問点が氷解するのです。

逆に新約聖書で分からなかったことが旧約聖書の記事によって理解できるのです。

 

ある人たちは、聖書には矛盾する記事やつじつまの合わない記事があると指摘しますが、それは、神の存在とイエスを救い主(キリスト)と信じていないからではないかと思います。

 

信じていないと聖書記事の「あら捜し」をすることになるのではないでしょうか。

神を信じることが出来ない人にとっては「あら」であっても、神を信じ信頼している人にとっては「何か意味があるはず」と捉えます。

そして、後日その意味を発見して、聖書への信頼をより一層深めて行くことになります。

 

聖書を詳細に学んでみると、聖書を読む前に持っていた先入観は一掃され、複数の聖書記者がいる部厚い聖書であるにもかかわらず、つじつまの合わない箇所も論理のほころびもなく、首尾一貫していることを新たに認識しました。

 

内村鑑三の著作「聖書之研究(1893年)」の中に出てくる話ですが、有名なベンジャミン・フランクリンがフランスに滞在していたときに、無神教の哲学者がキリスト教をしきりに嘲笑したそうです。

フランクリン自身はキリスト教にあまり熱心ではなかった無宗教家に近い者でしたが、フランスの無神教の哲学者があまりにもバイブル(聖書)を野卑にして文学の趣味に乏しいとあざけるので、フランクリン自身がキリスト教に冷淡であったにもかかわらず腹に据えかね、一計を案じたそうです。

場所はホテルでしたが、同じホテルに宿泊している女優に旧約聖書のルツ記(わずか7ページほどの短編)を哲学者たちの前で朗読させたそうです。

 

ここで内村鑑三の著書を以下引用します。

「女優は精神と感情とを込めてルツ記を読めり。哲学者らはその文意の高妙なると、その趣向の単純清廉なるとを賞賛してやまざりき。読み終わりて満場の学者らは深くフランクリンの厚意を謝し、かつ問うていわく、『かくのごとき佳話、君はいずこより得しや。その美、その妙、いまだかって余輩の味わわざるところなり』と。フランクリンは賞嘆のやむを待って粛然として立って告げていわく、『これ実に貴公らの貶視嘲罵してやまざりし古き聖書中に記載しあるルツの記なり』と。しかして後、黙然たり。哲学者輩は今は赤面語るにことばなく、一人去り二人退き、暫時にして室内フランンクリンと女優を除くのほかは人なきに至れりと。フランクリンの頓知、『哲学者』の無学、ルツ記の絶妙、共にこの一小話に載せて間然たることなし。聖書非難する人は聖書を読まざる人なり。聖書をもってただに厳格なる倫理のみを教うるものと信ずる人はいまだ聖書を知らざるなり。

 

因みに、クリスチャンの中には、ルツ記に登場する女性ルツの名を自分の娘に付ける方も少なからずいます。

内村鑑三も長女にルツ子と名付けましたが、19歳で天国に召されました。

 

<おことわり>

上記のブログ記事は2年前の2017年6月3日にアップしたものに、ほんの少しだけ加筆修正したものです。

 

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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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酒とバラの日々

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酒とバラの日々」(Days  of  Wine  and  Roses)

1962年のアメリカ映画のタイトルです。

 

この映画を私が観たのはテレビの淀川長治解説の日曜洋画劇場だったと記憶しています。

週休二日制など考えることさえない当時の多くの日本人が日曜日という貴重な休みの日に放映された「日曜洋画劇場」を楽しんでいた反面、放送終了時刻の午後11時が近づくと明日からまた仕事や学校に行かなければならないと頭によぎり憂鬱な気分になっていたようです。

 

華やかなタイトルとは裏腹に、日常のストレスなどから酒に溺れてアルコール中毒になったしまう男女を描いたドラマでした。

 

20代の私は「酒とバラの日々」ならぬ「酒と仕事の日々」でした。

アルコール度数の高い焼酎やウィスキーを毎日欠かさず大量に飲んでいました。

しかし、30歳代になると一転して酒から遠ざかることが出来て、30歳代から50歳代後半までは「仕事オンリーの日々」でした。

そして、数年前から現在の今は、キザに書けば「聖書とともにある日々」です。

 

聖書なしの生活は考えることができないように私を導いて下さった創造主(神)、主イエス・キリストに感謝します。

アーメン!

 

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・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

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・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

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霊は人間に備わっている!

霊は人間に備わっているのか?

結論を言えばYESです。

自信を持ってもう一度言います・・・YESです。

 

勘違いして欲しくないのは、存在しないはずの影(霊)が写真に写っていたとか窓ガラスに人間の霊が見えたなどのテレビ番組などで取り上げられるオカルト的な霊のことを言っているのでは決してないのです。

 

霊が備わっていなければ人間は肉の塊に過ぎなくなります。

これがどういうことかをコンピューターを例に話したいと思います。

ただ、私はIT技術者でもなんでもないので専門的に詳細を書くことは出来ず多少の間違いがあるかもしれませんが、あくまでも「霊」の存在を分かりやすく説明するためのものであることを予めご理解ください。

 

コンピューターが本来の働きをするためにはOS(オペレーティング・システム)が機能しなければなりません。

 

なお、OSとはコンピューターを動かすためのソフトウェアです。

 

パソコンに対応するOSにはマイクロシステム社のWindowsやアップル社のMac・OSがあり、スマートフォンに対応するOSにはアップル社のiPhoneiOSiPhone以外のスマホのほとんどにインストールされているAndroidがあります。

 

いくら高価なコンピューター(パソコンやスマホ)の機器本体(ハード)があっても、OSがインストールされていなければコンピューターはただの箱に過ぎないわけです。

 

例えば、ゲーム機本体(ハード)があってもゲーム・ソフトがなければゲーム自体を楽しむことができないのと同じで、いくら高価なコンピューターの機器本体があっても、OSがインストールされていなければコンピューターはただの箱に過ぎません。

 

つまり、コンピューターを人間に置き換えて考えると、コンピューター機器本体が人間の肉体で、OSが霊(あるいは魂)と考えることができないでしょうか。

 

聖書を読むと人間は「肉の体」と「霊」でこの世で生きていると記されています。

まず、創世記2:7をご覧ください。

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「その鼻にいのちの息を吹き込まれた」とありますが、「息」はヘブル語で「ルアク」と言い、「霊」あるいは「風」とも訳すことができる言葉です。

つまり神は人間に、ご自身の「霊」を吹き込まれたのです。

この創造主(神)の息である「霊」を吹き込まれることによって人間は「生きるもの」となったと書かれているのです。

土のちりで出来た「肉体」に「霊」が備わることになったのです。

 

上記で書いたようにハードのコンピューター機器本体に相当する人間の「肉体」にソフトのOSに相当する「霊」がインストールされたのです。

 

次に伝道者の書12:7をご覧ください。

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人間の死は肉体が土にかえることであり、霊は消滅することはなく創造主(神)のもとに帰ることになります。

 

ヨハネ福音書4:24をご覧ください。

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霊である創造主(神)を礼拝する際には、「霊」的存在である人間は「御霊(みたま)」によって礼拝しなければなりません。

 

続いてコリント人への手紙第二4;16~18をご覧ください。

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このように著者のパウロ肉体を「外なる人」霊を「内なる人」と区別して表現し、霊は不変であるがゆえに永遠に新しくされて朽ちることがないと語っています。

 

上記で引用した4つの聖句以外のたくさんの聖句が霊の存在を前提に様々なことを記しています。

 

結論です。

 

創造主(神)がご自身の「霊」を授けてくださったことが人間に対する最高の「愛」の証しです。

 

ですから、わたしたち人間は創造主(神)が授けてくださっている「霊」を汚すようなことを決してしてはなりません。

 

個人的な意見ですが、「霊」を汚す最大の忌むべき行為は、聖書が啓示する真(まこと)の神である創造主を認めずに背を向け続けて、偽りの巷の神(商売繁盛の神、龍神など)を拝むこと(偶像礼拝)だと考えます。

 

一人でも多くの人が一日でも早く聖書を学ぶことによって、創造主(神)が授けてくださった「霊」を認識できるようになることを願っています。

アーメン。

 

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遺跡が聖書の真実を語る

1935年に「ラキシュ」という町の遺跡の中でたくさんのオストラコン(土器の破片)が見つかりました。

 

↓ ラキシュの遺跡

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↓ オストラコン(土器の破片)

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「ラキシュ」は、旧約聖書に度々登場する町です(ヨシュア記10:5、歴代誌第二11:9、ネヘミヤ記11:30など)。

 

ここで、エレミヤ書34:6~7を引用します。

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ラキシュとアゼカはユダの国にとって重要な城壁のある要塞の町でした。

 

紀元前590年頃のユダのゼデキヤ王の治世の出来事ですが、この2つの町を大国のバビロンが攻めているというのが上記のエレミヤ書34:6~7の記事です。

 

「ラキシュ」遺跡の中で発見されたオストラコン(土器の破片)の大部分には、ちょうどこの時期のことが書かれていて、ラキシュにいる軍司令官ヤウシュにあてられているものです。

 

オストラコンに刻まれた文字により聖書の記事がいかに正しいかを確かめることができるのではないでしょうか。

 

遺跡によっても明らかにされているように聖書は歴史書です。

一人でも多くの方が一日でも早く、この真実の書である聖書を学ぶことを願っています。アーメン。

 

 

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わたしはアルファであり、オメガである。

聖書研究をしていて、心に沁みわたり感動する創造主(神)の御言葉が数多くありますが、聖書を学び始めて間もなく神を表現する言葉の新約聖書ヨハネの黙示録1:8の「わたしはアルファであり、オメガである。」との御言葉を読んだ時は、「これだ!」と心のうちで呟きました。

こう呟いたのは、この言葉を私は求めていたような感覚だったからです。

 

ヨハネの黙示録1:8

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人間の知恵では到底発想できる言葉ではなく創造主(神)が間違いなく存在すると感じた言葉だったのです。

 

私が感動した「わたしはアルファであり、オメガである。」とはどういう意味なのでしょうか。

新約聖書の原語はギリシア語であり、「アルファ」と「オメガ」はギリシア文字のアルファベットの最初と最後の文字であり、キリストの神性(神ご自身である)を示しています。

原語がヘブル語の旧約聖書イザヤ書44:6では次のように記されています。

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神は時間に支配されない御方です。

したがって、時間的な意味で「初め(アルファ)」と「終わり(オメガ)」という意味ではなく、神は天地万物の創造から始まるあらゆる現象の原因のそのものである御方であり、全ては神に始まり神に還るということなのです。

 

パウロは次のように神を表現しています。

次のローマ人への手紙11:36をご覧ください。

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一人でも多くの方が一日でも早く聖書の学びを始めることによって、この世の森羅万象の全てを支配されている御方である創造主(神)の存在を認めることを切に願っています。アーメン。

 

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ガンの恐怖、死の恐怖

人それぞれ「死」を明確に意識するようになる時期ないし年齢は異なるのでしょうが、還暦60歳を超えると多くの人が死を意識する度合いが多くなるのではないでしょうか。

 

私の父は50歳代で死亡し、母はガンを患い64歳で旅立ちました。

62歳の私はもう少しで母と同じ年齢になろうとしています。

 

聖書を知らず、主イエス・キリストを知らないままの私であったなら、母と同じようにガンになるのではないかという恐怖と死の恐怖に捕われながら老後の生活をしていたかもしれません。

 

しかし、聖書を学び、主イエス・キリストを信じることが出来ている今の私は平安の心で日々過ごすことが出来ています。

 

「天地万物の創造主(神)、主イエス・キリストを信じているキリスト者であればガンになることはない」などということは決してありません。

キリスト者であっても、重い病やガンになったり、高齢による認知症になることも充分あり得ます。

ただ、仮に近い将来ガンを宣告され、死の宣告をされることがあっても、聖書を学び創造主(神)、主イエス・キリストを信じることが出来ている今の私はガンを受け入れ、死の宣告も平安の心で受け入れることが出来るはずだと考えています。

 

死の先にこそ、創造主(神)が約束してくださっている神の御国の生活があるのです。

 

次の2つの聖句をご覧ください。

 

神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録21:4)。

 

見よ。わたしはすべての肉なる者の神、主である。わたしにとって不可能なことが一つでもあろうか。」(エレミヤ書32:27)。

 

創造主(神)の辞書に不可能の文字はありません。

 

死者を復活させ、死はなく、涙もない、永遠のいのちを可能にすることが出来る御方だからこそ、神として崇めることができるのです。

 

聖書が啓示する神は、死、悲しみ、苦しみから人間を解放させることができない巷の神々(偽りの神)とは根本的に違うのです。

 

最後に次の聖句をご覧ください。

 

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにいない。」(イザヤ書45:22)。

 

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<私は聖書の神を信頼する>

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〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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寝ても覚めても四六時中

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何らかのキッカケで「恋に落ちて」心底異性を好きになると、「寝ても覚めても、四六時中」相手のことを常に考えるようになります。

 

天地万物の創造主(神)の存在を明確に認識し、主イエス・キリストを信じるようになった時から、「寝ても覚めても、四六時中」創造主(神)、主イエス・キリスト聖霊、聖書のことを常に考えようになりました。

 

つまり、聖書を学ぶことによって「恋に落ちて」しまった私です。

 

男女の恋愛ははかないものです。

異性を想う心も時の経過や何らかのキッカケで色あせていくものです。

 

しかし、聖書研究をすればするほど、より一層、創造主(神)、主イエス・キリストに対する想いは強く深くなってきて、決して色あせることはないのです。

 

因みに「四六時中」とは、4×6=24(しろく、にじゅうし)の24時間の一日中ということですね。

 

有名な聖句ヨハネ福音書3:16をご覧ください。

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神は人間の手によって十字架上で処刑されることになる、ひとり子(イエス・キリスト)をお与えてになったほどにこの世(人間)を愛してくださっています。

 

この聖句からも分かるように聖書は創造主(神)の人間に対する壮大なラブストーリーです。

 

偽りの神への礼拝(偶像礼拝)など、繰り返される人間の創造主(神)に対する裏切りと反逆にもかかわらず、創造主(神)が被造物の人間を愛し尽くすラブストーリーなのです。

 

続いてマタイの福音書22:36~39をご覧ください。

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わたしたち人間が創造主(神)を愛するよりも前に創造主(神)が人間を愛してくださいました。

創造主(神)の人間に対する一方的な愛ではなく、創造主(神)の愛に応えて、この聖句にあるように創造主(神)を「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして」わたしたちの神(主)を愛し、神(主)と相思相愛の関係にぜひなりたいものです。

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馬場 忠博 | Facebook

 

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https://bible-seisho.jimdo.com/

 


★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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