星 周作 Blog

★ 福岡より〇〇をこめて  ★

法令遵守(コンプライアンス)

昨日は、どうしても唄いたくなって自宅近所のカラオケ店で一人カラオケしました。

私が唄うのは、もちろん、昭和歌謡ですが、この日特に唄いたかったのは、野口五郎の「甘い生活」「私鉄沿線」、欧陽菲菲の「恋の十字路」、水越恵子の「far away」、五輪真弓の「リバイバル」、柳ジョージの「プリズナー」、前川清の「東京砂漠」でした。

何曲歌ったか数えていませんが1時間30分心行くまで大声を張り上げて唄い、満足満足、ただヘタクソです。

でもいいんです、一人カラオケで誰も聴いていませんから(笑)。

 

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話は変わりますが、法令遵守コンプライアンス)が叫ばれるようになったのは、いつ頃からだったでしょうか。

私が20代のサラリーマン時代はまだ、コンプライアンスという言葉すら世の中に出ていませんでした。

そんな時代でしたから多くの会社の経営者が労働基準法を遵守して適法に残業代を支払おうなどという意識は皆無に近かったと思います。

私が20代の時に勤めていた会社の社長は、従業員を前に平気で「労働基準法を守っていたら会社はつぶれてしまう。」と公言していましたが、自分は高級車に乗り、入社してきた美人女性社員を社長秘書にしていつの間にか不倫です。

しかし、こんな社長は、珍しい人ではなく、世の中の多くの男は金と成功を手にすると、こんなものなのです。

 

病気の為に廃業しましたが、前職は行政書士でした。

職業柄、多くの個人事業者や中小企業の経営者と接する機会がありましたが、大袈裟ではなく、程度の差はありますが100%全ての会社が何らかの法律に抵触(違反)していました。

このブログでその実体を全て暴露するつもりはさらさらありませんが、多くの経営者が「法令遵守に努めます。」と口にするのですが、遵守するためには、その会社を運営するための関係法令を熟知していなければ遵守しようがないのに、多くの会社では、その法律を熟知する努力をあまりしていないのが実体です。

 

例えば、中古車販売会社では、古物商の許可が必要ですが、その関係法令は「古物営業法」であり、建設会社であれば「建設業法」などです。

ある中古車販売会社では、一度古物商の許可を取れば後は何も手続きをしなくてよいと考えていたようで、取締役の交代が数年ごとに行われていたにも関わらず、監督官庁の警察署に届け出ていなかったのです。

古物営業法」には、取締役などの役員の就任・退任があった場合は一定の書面を添付して一定期間内に届け出なければならないとされています。

大幅に遅延していたため始末書を警察署に提出することになりました。

この会社の経営者は、そんな事は知らなかったと弁解しますが、知る努力をそもそも全くしていなかったようです。

 

私も含めて、知らず知らずのうちに多くの人たちが、程度の差があるにせよ法律違反をしているのが世の中の実体のようです。

 

創造主(神)は、偶像崇拝と姦淫(不倫)を忌み嫌います。

このことを世界中のどれだけの人間が知っているのでしょうか。

現実のこの世界は、偶像崇拝と姦淫(不倫)がまん延している状態です。

 

国家の最高法規憲法です。

 

人間の守るべき最高法規は何でしょうか。

 

私たち人間を創造した創造主(神)が定めた戒めが最高法規なのです。

 

最近、特に分かってきたことがあります。私の聖書研究は、もっと、もっと、真理を知りたい、創造主(神)を知りたい、ということなのですが、知れば知るほど創造主(神)の栄光を崇め賛美したいという思いが不思議と湧いてくるようになったことです。

以前は詩篇148章を表面的に文字だけを読んでいたような気がしますが、最近は詩篇作者の思いが少しはわかってきたようです。

全文表示します。
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御使い(天使) や日・月・星など天地万物の被造物に対して、創造主(神)を賛美せよと作者は記しているのです。

 

一人でも多くの人が一日でも早く、創造主(神)の存在を知り、この詩篇148章のように創造主(主)の栄光を崇め賛美することができますように。

アーメン。

 

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https://bible-seisho.jimdo.com/

 

 

★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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わたしは今日リンゴの木を植える

「古い奴だとお思いでしょうが、古い奴ほど新しいものを・・・・」

このフレーズをご存知ですか。

鶴田浩二「傷だらけの人生」ですね。

部屋の中に貼っている何枚かのレコードの一枚です。

聴いたことがない方はユーチューブでどうぞ!


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私の人生は傷だらけの人生というよりも「失敗だらけの人生」でした。

自分だけの失敗であれば自業自得でそれも仕方のないことですが、人の心を傷つけてしまったことも正直あります。

しかし、後悔しても始まりませんよね、創造主(神)から授かった命を無駄にしないようにこれからの地上での残された人生を精一杯生きることに努めることが大切ですよね。

 

ところで、「たとえ、世界の終末が明日であろうと、わたしは今日リンゴの木を植えるという言葉をご存知の方も多いと思いますが、どこかの会社の社長が人生訓を語るときにこの言葉を引用したり、多くの方が引用するようです。

 

私が初めてこの言葉を知ったのは40年程前だったように記憶しています。

そして、この言葉の作者は、東欧の詩人ゲオルギウだと何かの本に書いていました。

石原慎太郎も繰り返し東欧の詩人ゲオルギウ作だと紹介してきたようです。

しかし、ネットを見るとマルチン・ルターの言葉だと説明されています。

マルチン・ルターの言葉を詩人ゲオルギウが引用したのでは、という説もあるようです。

出所がいずれであっても、多くの人の心に何かを訴える言葉であることに間違いないようです。

 

40年程前にこの言葉を知り、そして、聖書を信じる前までの私が考えていたことは、世界の終末を想像したのではなく、もし、ガンに侵されて余命数ヶ月と宣告されたときに、今までと全く同じように日常生活を送ることが出来るだろうか、というものでした。

恐らく、悲嘆に呉れ死の恐怖に苛まれて今までと同じように日常生活が送ることは困難だろう、と想像していました。

ましてや、リンゴの実りを間違いなく見ることができないのに、今日リンゴの木を植えるなど到底私には出来ないと考えていました。

 

このように考えることしか出来なかった私に劇的変化が起こったのが、聖書によって真理を知ってからです。

 

過去のブログにも書きましたが、可笑しなことを言うようですが私にはキリスト教を信じているという認識も、世の中の人が考えているような「神」を信じているという認識がありません。

私が信じているのは、天地万物を創造された創造主の存在を信じているのであり、創造主の口から出た「ことば」だけが真理であると信じているに過ぎないのです。

この真理を教えてくれているのが聖書であり、キリスト教であるというだけのことなのです。

したがって、私の心持ちとしては「神」という言葉は出来れば使いたくないし、キリスト教信者、つまり、クリスチャンという名称もあまり使いたくないのです。

 ただ、このブログを書いたり、人と会話する際にその都度クリスチャンという名称を使いたくない理由を説明するのも面倒なので、便宜上使うことになります。

 

常に私が求めているのは「真理」です。

 

「真理」は天地万物の創造主から出たものだけです。

 

森羅万象のすべての「真理」は、繰り返しなりますが、天地万物の創造主のものです。

 

普通に考えれば「人間が死んでも、主イエス・キリストを信じる者は、復活して永遠のいのちを持つ」など、とんでもない話です。

しかし、私を創造してくださった天地万物の創造主の存在を確信してからは、とんでもない話ではなく、「復活と永遠のいのち」が当たり前、つまり「真理」であると確信することができるのです。

 

もし、天地万物の創造主の口から出たことば、つまり、真理が「人間は数十年この地上に生きて、この世で数々の病に侵され、様々な苦難を経たのちに死に至り、その後無意識の状態になる。」というのであれば、このことを私は信じます。そして、他の宗教(偽りの神)が逆に「復活と永遠のいのち」を教えていても、この他の宗教の教えは真理ではないので「復活と永遠のいのち」を信じることはできないということになります。

 

要するに私の主張は、常に「真理」が何であるかが重要だということなのです。

 

私にとって受け入れがたい教えであったとしても、それが「真理」であれば、それを信じて従うだけのことなのです。

 

「復活と永遠のいのち」が私にとって都合がよく受け容れ易いから信じたのではなく、あくまでも、天地万物の創造主の口から出たことば(聖書)だから信じているのです。

 

61歳の私ですから、年齢的にどんな病に侵されてもおかしくありません。当然ガン宣告を受けるかも知れません。

しかし、40年程前に知った「たとえ、世界の終末が明日であろうと、わたしは今日リンゴの木を植える」という言葉は、天地万物の創造主の存在を信じ、主イエス・キリストを信じ、「復活と永遠のいのち」を信じてからは全く違った捉え方が出来るのです。

私が余命数ヶ月のガン宣告を受けることがあっても、リンゴの木を植えることはありませんが、少なくとも悲嘆に呉れ死の恐怖に苛まれことはなく、復活と永遠のいのちに希望を持ちながら、それまでと同じように主イエス・キリストに信仰を持って日常生活を送ることが出来るようになれるのでは、と思っています。

 

続いて次の聖書箇所をご覧ください。

ローマ人への手紙12:19(文語訳聖書)

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この言葉を知ったのは、聖書を学ぶ随分前の佐木隆三の小説を映画化した緒方拳主演の「復讐するは我にあり」です。

復讐するのは俺(人間)がするという意味ではなく、創造主(神)がされるという意味だということを聖書で学びましたが、その後当分の期間もう一つピンとこない聖句でした。

何故なら、独裁者のヒトラースターリンポル・ポトなどはもちろんですが、生前に非道なことをしていながら金銭的にはもちろん健康的にも恵まれながら生を全うしたまま、神から復讐されないまま死んでいった人も多くいるからです。

 

また、キリスト教以外の宗教を信じて大成功をしている人(偶像崇拝者)が、キリスト教を信じている貧しい人に次のように言ったとか?。

キリスト教を信じても貧しいだけじゃないか、私の信じている宗教を信じれば私のように成功するよ。」

 

人生がこの地上での一回限りのものであれば、この世で神の復讐も行われず、貧しいだけの人生や病に次から次と侵される人生の人にとっては不公平だと感じることでしょう。

 

しかし、人間の人生はこの世だけが全てではありません。

死で全てが終わるわけではありません。

過去ブログでも引用した、次の聖書箇所をご覧ください。

ヘブル人への手紙9:27

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創造主(神)の復讐(裁き)は必ず行われます。

 

イエス・キリストを信じる者には、病もなく苦難もなく涙を流すことがない新しい生が待ち受けています。

ヨハネの黙示録21:3~4をご覧ください。
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創造主(神)は公平な御方であり、信頼できる御方であることを肝に命じたいと思います。

 

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 ★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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洗礼について

 

 

私は、過去を含め現在に至るまで仏教系、キリスト教系等を問わず一切の宗教団体に属したことがありませんが、創造主(神)と主イエス・キリストに信仰を持つキリスト者(クリスチャン)です。

ただ、愛溢れる敬虔なキリスト者と比較すれば、まだまだほど遠い私ではありますが、創造主(神)の存在を信じ、主イエス・キリストが私たち人間の罪の贖いのために十字架にかけられて死に三日後に復活して昇天されたことを堅く信じているので、間違いなくキリスト者だと思っています。

 

しかし洗礼を受けていません。

 

「洗礼も受けていないのに、キリスト者のはずはない」という声、主張が聞こえてきそうです。

この主張は正しいのでしょうか。

この主張が正しいとすれば、洗礼を受けないと人は救われないということになります。

 

聖書はどう言っているのでしょうか。

パウロは次のように記しています。

ローマ人への手紙5:1

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ガラテヤ人への手紙2:16

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上記いずれの聖句であっても、「信仰によって義と認められる」つまり「主イエス・キリストを信じる信仰によって救われる」とパウロは言っているのであって、「洗礼によって義と認められる」「洗礼によって救われる」と言っているわけではありません。

心の在り方を問題にしているのであって、洗礼という形式が救われる条件ではないのです。

エスはまさに十字架上で犯罪人に次のように語ったのです。

ルカの福音書23:39~43

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この犯罪人は洗礼を受けてはいませんでしたが、イエスはハッキリと彼がパラダイスにいると約束されたのです。

 

奥山実牧師は、著書で次のように簡潔に語っています。

「洗礼を受けたか、受けないか関係ありません。ヨーロッパには洗礼を受けていても、神の存在を否定し、主イエスをあざけっている名ばかりのクリスチャンが掃いて捨てるほどいます。たくさん献金しているとか、良く奉仕しているというのも基準ではありません。それもいいことなのですが、イエス様を信じるか、信じないかが問題です。」

 

洗礼を受けていない私ですが、決して洗礼を否定したり軽く考えているわけではありません。

マタイの福音書28:19~20をご覧ください。

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このように主イエス・キリスト大宣教命令の中で洗礼(バプテスマ)を授けることを命じています。

私は、この主イエス・キリスト大宣教命令に従い、一人でも多くの人に福音を伝えたくて、このブログも書いています。だからと言って私が洗礼を授ける行いができる身分(牧師)ではありません。

 

ところで、NHK大河ドラマで放送中の「西郷どん」の西郷隆盛が生み出したと思っている方も多くいる「敬天愛人」という言葉は、西郷が生み出した言葉ではなく、18世紀の清王朝の第4代皇帝の康熙帝(こうきてい)によるキリスト教イエズス会)認定の言葉なのです。

詳細は当ブログでは省略しますが、西郷が漢訳聖書を読んでいただけでなく、漢訳聖書を人に教えていたことも資料や証言によって事実ということが確認されています。

ただ、洗礼を受けていたかどうかは不明です。

しかし、上述したように洗礼は形式に過ぎません。

西郷がキリスト教由来の「敬天愛人」という言葉を好んで書いた事実や聖書を教えていたという事実は、主イエス・キリストを信じていなければできることでは絶対ありません。

したがって、私は、西郷隆盛は間違いなくキリスト者であったと考えます。

 

西郷隆盛と会見して江戸城無血開城を成し遂げた勝海舟も聖書の影響を受けた人物であることが下の画像の本を読めばわかりますが、勝海舟も洗礼を受けたかどうかは不明です。

しかし、西郷隆盛と同様に仮に洗礼を受けていなくても、キリスト教との深い関わりや晩年の言動などから、主イエス・キリストを信じたキリスト者であったと私は考えます。

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幕末及び維新に活躍したサムライの中で一番好きなのは勝海舟ですね。

貧乏のどん底のときは、蚊帳(かや)や布団を売り払い、襖を破り、縁側や柱を削って飯炊きをしていたそうです。

しかし、こんな境遇にあっても海舟は自己鍛錬を怠らず、剣術に打ち込み、日々学問に向かっていたということです。

勝海舟を師と仰いだ坂本龍馬ですが、海舟との出会いがなければ龍馬の目覚ましい活躍もなかったのかもしれません。

 

↓ ↓ 聖書の他の重要なテーマについては、こちらをご覧ください。 

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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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一般啓示と特別啓示

「仲よき事は美しき哉」という言葉を見たり、聞いたりした人も多いかと思います。

 

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武者小路実篤(1885年~1976年)の言葉ですね。

 

武者小路実篤の著書は読みやすいこともあって「友情」「愛と死」「真理先生」など10代後半によく読みましたが、高校を卒業して東京で暮らすようになった時に、小説家の全集というものを神田の古本屋で初めて購入したのが武者小路実篤のものでした。

彼の著書の中で出て来る自然の中に神を見い出す「汎神論(はんしんろん)」という考えを知り、神というものを少しは意識し始めた最初ではなかったかと振り返ることができます。だからと言って、汎神論者になったわけではありません、念の為。

 

<注>「汎神論」とは、神と宇宙、または神と自然とは同一であるとみなす哲学的、宗教的立場である(ウィキペディアより)。

 

武者小路実篤のどの著書であったかは忘れましたし、書かれていた内容の記憶もあいまいですが、彼が私たち人間の「手」の造りをいたく感心して賛美していたことが忘れられずにいます。

人間の足の太腿やふくらはぎ、そして、上腕などは鍛えれば筋肉がついて太くなるのに、手の指の筋肉も他の部分の筋肉と同じ様に太くなれば細かい作業が出来にくくなるはずなのに、毎日使っている手の指の筋肉は太くならずに依然として細かい作業をすることができることや、親指が絶妙な位置に備わっていることなどを武者小路実篤は賛美していたのです。

 

ところで、ある物体の表面を何度も擦(こす)り続けるとどうなるでしょうか?

その物体の硬度によって削れる速度は変わりますが、間違いなく、表面は削れて減っていきますよね。

 

ところが、この世には、何度擦り続けても、削れるどころか自然に増えることがある物体があるのです。

本当にこのような物体があるとしたら、人は、その物体を奇跡の物体と呼ぶのではないでしょうか。

 

私たちの身体の中で日常最も使っている部分は、手と足ですよね。

靴は履き続けると底が削れて減っていきます、そして、靴下も同様です。

何故、足の裏は削れて減ることはないのですか。

大昔の人間に限らず、今でも、靴を履かないで生活している人たちもいますが、足の裏が削れて困るという話を聞いたことがありません。

 

野球のグローブや手袋は長年使い続けると破れて使い物にならなくなります。

61年間毎日使っている私の手は、破れて使い物にならなくなってなどいません。

 

手の指や足の裏の一部を使い続けるとその部分の皮が厚くなりますよね、つまり、減るのではなく増えていますよね。

 

このような私の手や足を見つめていると「奇跡」と呼ばずにいられなくなるのですが、私の感覚は可笑しいのでしょうか。

 

創造主(神)がいつくしみ深い「愛」がある御方であるからこそ、このような驚異的な造りの手や足を人間に授けてくださったのではないでしょうか。

 

私は、手や足に限らず自分自身の身体のあらゆる造りを顧みて、創造主(神)の「存在」と「愛」を感じることが出来ます。

 

いつものように、内村鑑三の著書から一部引用します。

「奇跡とは神の能力の発現でありますから、神の存在と活動とを信じる者の眼には奇跡と天然の別はありません。彼(神の存在と活動とを信じる者)にとっては、実は天然と称して、神より全く離れ独りで働いて独りで生じるものはないのであります。彼にはただ二種の奇跡があるのであります。尋常的奇跡、これが天然であります。非常的奇跡、これが聖書に示してあるような奇跡であります。今日まで万物を天然的に解してきた彼は、今は意志的に、すなわち奇跡的にこれを解するようになりました。彼の宇宙観は神を信じることによって一変いたしました。」

 

内村鑑三の言う、天然の尋常的奇跡を神学的には一般啓示」と言い、聖書に記されている非常的奇跡を「特別啓示」と言います。

 

続いて、キリスト教神学者のジェームズ・パッカー(1926年~)の著書から少し長くなりますが一部引用します。

「神が創造された世界は、創造者である神の力と威光を隠す盾ではない。自然の秩序を見ると、全能で威光に満ちた神がそこにいることは明らかである。パウロはローマ人への手紙1章19~21節でそのことを述べ、使徒の働き17章28節では、ギリシアの詩人が、人間は神によって造られたと証言していることに触れている。パウロはまた、この創造主のすばらしさは、いつくしみに満ちた摂理によって明らかになっているとも断言している(使徒14:17、ローマ2:4)。さらに、神の聖なる律法が要求することの少なくともいくつかは、最終的には自分の行いに応じて神のさばきを受けるという受け入れがたいが確かな事実とともに、すべての人の良心に知らされている(ローマ2:14~15)。このようなことが確かに起こるということが、一般啓示の内容を構成している。一般啓示という呼び名は、神が造った世界に生きているという理由によって、すべての人がその啓示を受けていることに由来する。これは人類の歴史の始まり以来そうであった。神はすべての人に対して、ご自身のこのような側面を端的に明らかにしている。したがって、どのような場合でも、義なる創造主に感謝し仕えないことは、この知識に反する罪である。・・・中略・・・今では神は、さらにイエス・キリストによってご自身を救い主として啓示することで、一般啓示を補足している。この啓示は歴史の中で与えられ、聖書の中に記録され、失われた者に救いの扉(とびら)を開くものであり、通常、特別啓示あるいは特殊啓示と呼ばれている。特別啓示は、一般啓示が神について私たちに告げているすべてのことを明白にことばによって述べるものであり、自然の秩序、歴史の出来事、人間の道徳的性質における啓示を見極めるように私たちに教える。」

上記引用文の中の聖句を以下表示します。

ローマ人への手紙1:19~21

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使徒の働き17:28

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使徒の働き14:17

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ローマ人への手紙2:4

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ローマ人への手紙2:14~15

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一人でも多くの人が、一日も早く、一般啓示に気付くことによって創造主(神)の存在と愛を知り、そして、聖書に記された真理(福音)に与(あず)かりますように。

アーメン。

 

↓ ↓ 聖書の他の重要なテーマについては、こちらをご覧ください。

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・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

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<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

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なくてはならないもの

4月28日(土)には福岡県立四王寺県民の森に行きましたが、引き続き、翌日の29日(日)も福岡市内の油山市民の森に行きました。

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30代の頃は仕事の合間に大分県九重山や福岡県内の山によく出掛けましたが、その当時はあまり多くの高齢の登山者も見かけず、ましてや、若い女性などほとんど見かけることもなかったのですが、今回久し振りに登ってみると、高齢の登山者が多くなっているのはもちろんですが、若い女性、つまり巷で言うところの山ガールの多さにビックリしました。

 

本格的な登山をするわけではありませんが、トレッキング・シューズも買ったことだし足腰の鍛錬も兼ねて今後も日帰りが出来る近場の山に登ろうと思っています。

 

話は変わります。

酒は百薬の長と言いますが、飲み方によっては飲む人にとってキチガイ水になりかねません。

酒によって人生を台無しにしてしまう人が少なからずいるようです。

 

今でこそ酒をほとんど飲まない私ですが、20代の頃は飲まない日は皆無であり、恥ずかしながら毎日が二日酔い状態でした。

仕事上のストレスと個人的な悩みも抱えていた29歳前後の頃に、何とか現状から抜け出したいと思っていた時に、クリスチャン作家の三浦綾子さんの本に出会いました。

「道ありき」「塩狩峠」「あさっての風」(小説を除く)などむさぼるように読みましたが、記憶があいまいで書名は忘れましたが、人間にとって「なくてはならないもの」は何かと問いかける一文が私の琴線に触れました。

あまりにも抽象的な問いかけですが、読者の皆さんにとっての「なくてはならないもの」は何ですか。

 

私の知人の中で大の酒好きの人がいて、酒で命を失うのだったら本望だと常々言っていましたが、当然アルコール中毒から肝硬変になり52歳の若さで死んでしまいました。

この人にとって酒が「なくてはならないもの」だったのかも知れません。

毎日飲んでいた当時の私にとって酒が「なくてはならないもの」だったわけではありませんが、現実の生活では酒がなくてはならないものになっていました。

 

三浦綾子さんが言おうとしていたのは、人間にとって「なくてはならないもの」は創造主(神)との繋がりだと言っていたように記憶しています。

 

三浦綾子さんの本はたくさん読んでいましたが、その頃はまだ聖書に手をのばすことはなく、創造主(神)の存在を信じていない私でした。

だから、「なくてはならないもの」が創造主(神)との繋がりである、などと思えるはずもない私でしたが、少なくとも酒が私にとっての「なくてはならないもの」などでは絶対ないはずだと確信だけは出来ました。

このように思えた私は仕事上も私生活上も最も精神的に苦しんでいた頃でしたが酒に頼ることもなく、不思議とキッパリと酒を断つことが出来たのです。

30歳から今日に至るまで酒を我慢して飲まないのではなく、禁酒の誓いをしたわけでもないのですが、酒を飲みたいという欲求が不思議と湧いてこないのです。

 

「なくてはならない存在」と問われれば誰でも両親や妻(夫)・子供と答えるのは当然だとして、あなたにとって「なくてはならないもの」は何でしょうか。

 

ある人は「お金に決まっている」と答えるかもしれないですね。

しかし、お金は人間が生活をしていく上で必要なものであっても、決して人間にとって「なくてはならないもの」とは違うような気がします。

もし、それでも、「俺にとっては、お金は単に必要なだけでなく『なくてはならないもの』だ」と考えているようであれば、有名なイエスのことばを思い出してしまいます。

マタイの福音書6:24

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お金、つまり、富に心が奪われている状態は、神ではなく富という偶像を崇拝していることになるのです。

 

さらに、高齢者がよく「健康が何より」と口にするように、多くの人たちが「なくてはならないもの」は「健康」だと答えるでしょう。

聖書を知らず天地万物の創造主(神)の存在も知らないままに今の61歳になっている私だったら、他の高齢者と同じように「なくてはならないもの」は「健康」だと答えたでしょう。

 

しかし、今更言うまでもなく、この「健康」ほど当てにならないものはありません。

ネット広告が主流になった現代では、内科、外科、眼科、歯科、皮膚科、耳鼻咽喉科心療内科、精神科など街の中で目にする大型の看板広告の大多数が病院のものであり、健康だと自負している人でもその健康も一時的なもので何かの病に侵され病院に行くと病人の多さに誰もが圧倒されるのです。

 

私たち人間だけでなく、この世に存在する全てのものにとって「なくてはならないもの」とは何でしょうか。

 

目に見えるものはもちろん、目に見えないものも創造された天地万物の創造主(神)の存在があって、人間を含む全てのものが存在しています。

したがって、私たち人間を創造された創造主(神)との繋がりこそが「なくてはならないもの」、と最近特に私は思えるようになってきました。

コリント人への手紙第一8:6をご覧ください。

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先程書いた「なくてはならない存在」は大多数の人にとって妻(夫)・子供などの家族のはずです。

その家族に対して、人は一心に愛し尽くそうとするでしょう。

まさに「愛されるより愛する方が幸い」なのでしょう。

 

マタイの福音書22:36~38をご覧ください。

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このようにイエス様が主(神)を愛することを命じましたが、「なくてはならないもの」が創造主(神)との繋がりであると思えるなら、「なくてはならない存在」の家族を愛することができるのですから、イエス様から命じられるまでもなく、「いのち」を授けてくださった創造主(神)を心を尽くして愛することも自然と出来るようになるはずだ、と思えるようになった今日この頃の私です。

 

一人でも多くの人が、一日も早く、創造主(神)の存在を知り、そして、「なくてはならないもの」が創造主(神)との繋がりであることを知って「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、私たちの神である主を愛する。」ことができますように。

アーメン。

 

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https://bible-seisho.jimdo.com/



★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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「救い」とは

 

 突然ですが、ドラキュラ映画の話です。

私が小・中学生の1960年代~1970年代にアメリカのドラキュラ映画がよくテレビ放送されていました。

そんなドラキュラ映画の中の一本で、不死身のドラキュラが不死の命を持っているために永遠に生き続けなければならないことに苦しみ、死を望むというストーリーの映画があったように記憶しています。

死を切実な問題だと考えもしないし、ましてや永遠のいのちなど考えることすら思い浮かばない年齢の私でしたが、このテレビ放送をキッカケに永遠のいのちというものが私の心の奥底に置かれることになったような気がします。

ところで、私の世代の人間が知っているドラキュラ俳優と言えばクリストファー・リーであり、ドラキュラ退治をするヴァン・ヘルシング博士と言えばピーター・カッシングです。

当ブログをご覧いただいている皆さんが知っているヴァン・ヘルシング役の俳優はヒュー・ジャックマンでしょうね。

このブログを書きながら思い出しました、クリストファー・リーピーター・カッシングスターウォーズに出演していました。

 

さて、本日のテーマに入ります。

 

この世界で生きる私たち人間は、日々他人とのあらゆる苛酷な競争(仕事、スポーツ、受験など)によって肉体的にも精神的に疲れながら、そして、あらゆる病に侵されながら生涯を送り、あらゆる犯罪の被害者になるだけでなく、故意過失の違いはあっても自分自身が加害者(高齢者の運転ミスによる交通事故など)になったりすることもあるかもしれません。

人によっては一時的に平和で幸福な時間を過ごすことが出来ている人もいるでしょう、しかし、大多数の人間は、苦難の生涯を送っていることは間違いない事実ではないでしょうか。

 

私は、聖書を学ぶことによって、幸いにも主イエス・キリストを信じ「死者の復活と永遠のいのち」に希望を持つことができるようになりました。

 

しかし、私が近い将来死んで復活して永遠に生きる世界が、今のこの同じ世界だとしたらどうでしょうか。

 

苛酷な競争にさらされながら、あらゆる病にも侵されながら千年、二千年、三千年と生き続けるうちに、冒頭に書いた不死身のドラキュラのように、苦しみに満ちたこの世界で永遠に生き続けることを終わらせたいと望むようになるでしょう。

 

私たち人間の罪深い性質が除かれないままに、永遠に生き続けることは苦痛であり、生き地獄になりかねません。

 

苦難に満ちた人間の歴史は、人間が救われることを求めて来た歴史でもあったような気もします。

 

アニメのヒーロのような超人的な力を持つ者が現われて、我々人間を助けてくれても根本的な救いになるはずもなく、ゴッドハンドと呼ばれる医者に病を治療してもらっても近い将来死に至るのであれば根本的な救いにもならないでしょう。

 

我々人間が救われるためには、人間の罪の性質が除かれなければ、永遠に生き続けることは苦痛でしかありません。

また、罪が除かれただけで永遠に生き続けることが出来なければ、救いが完成したとは言えないでしょう。

 

いつものように内村鑑三の著書から引用(一部要約)します。

「救いは、その一面においては罪の消滅である。他の一面においては生命の供給である。前者は一時的であって、後者は永久的である。聖書の言葉をもって言えば、われらはまずわれらの(神に対する)『反逆』を癒されなければならない。これがいわゆる贖罪(しょくざい)である。罪は死に価するものであるがゆえに、われら、罪より救われんと欲すれば、自身死に当たるか、しからざれば、ある他の者がわれらに代わって死の苦痛をなめなければならない。しかしながら救いはこれだけにては成就しない。死をまぬがれし罪人はさらに義とせられなければならない。すなわち正義の生命の供給を受けて、自身義人とならなければならない。医術の言葉をもって言えば、患者は第一に、病根を取り除かれなければならない。第二に、これに続いて滋養物の注入によって生活力を加えられなければならない。しかして『血を流す』は、罪を除くために必要であって、『血を注ぐ』は新生命を注入するために必要である。キリストの施されし救いにもまたこの両面があった。彼は血を流して、彼を信ずる者の罪を除きたもうた。彼はまた彼らの上に彼の血を注ぎたもうて、彼らを永久に生かしたもう。十字架の血によりて、民をあがないたまい、彼より流れ出づる血によりて、彼らに永生を与えたもう。」

 

ヨハネの手紙第一1:7

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ヨハネ福音書6:53

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私が信じることができた聖書は、人間の(百八つの)煩悩などを教えたり、この世の御利益(ごりやく)を与えるとする偽りの神(神社仏閣などを含むあらゆる宗教)とは全く異なります。

 

イエス・キリストの血によって罪が贖われ、主イエス・キリストの血によって永遠のいのちを持つ、これが「真理」です。

 

「真理」は天地万物を創造された御方から出て来るものです。

 

天地万物の創造主(神)から出ていない「ことば」(別の言い方をすれば「宗教」)に「真理」があるはずもありません。

 

イエス・キリストは三位一体の第二位格の創造主(神)であるからこそ「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)と言えることができたのです。

 

↓ ↓ 聖書の他の重要なテーマについては、こちらをご覧ください。

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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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罪とは何ぞや(その③)

(その②)の続き。

 

下の写真の物体を目にした方も多いと思いますが、ある人たちは「黄金ジェット」と呼んだり、別の人たちは異星人が乗ったスペースシャトルが地球に飛来して、それを目撃した古代人が作ったミニチュアではないかと考えて「黄金シャトル」と呼んでいるようです。

 

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この黄金の物体は南米コロンビア北部の王墓遺跡から発掘された幾つかの黄金製副葬品の一つです。

5世紀から8世紀にかけて栄えたシヌー文化という古代先住民文化が残した遺物とされています。

平均的な大きさは、長さが約6センチ、幅が約5センチ、高さが約1.5センチです。

用途はなぞですが、サイズからみて、鎖か紐で胸にぶらさげたペンダントみたいな一種の装身具だったのではないかと考えられています。

 

聖書を読んだことがなく、創造主(神)の存在を知らなかった昔の私は、上記のように語る本を読んで、異星人スペースシャトル説も可能性があるのでは、と思っていました。

しかし、1月26日のブログ「創造か、進化か(その⑫)」でも書いたように創造主(神)の存在を知ってからの私は、宇宙人の存在を確信的に否定しているので、当然に異星人スペースシャトル説を完全に否定できます。

hoshishusaku.hatenablog.com

 

この黄金の物体は他の黄金製副葬品と一緒にコロンビア国立銀行附属黄金博物館で展示されていますが、黄金博物館の主要所蔵品カタログによると、これらの副葬品は、動物形態像(ズーモルフィカ)と呼ばれ、カエル、チョウ、犬、鳥、ジャガーなどをかたどったものと説明されています。

ただ、この黄金の物体をジェット機や宇宙船と考えたい人たち、つまり、「黄金シャトル」あるいは「黄金ジェット」と呼ぶ人たちは、どんな動物にも似ていないと主張するのです。

はたして、そうでしょうか?

下の写真をご覧ください。

 

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これはプレコという熱帯魚ですが南米などの熱帯地方で生息するナマズの一種です。

恐らく、プレコなどの魚の胸ビレ・腹ビレ・尾ビレなどを誇張(デフォルメ)して作成したものが「黄金シャトル」の実体ではないでしょうか。

皆さんはどう思われますか。

ウィキペディアに次のような説明があります。

「・・・中でもモデルとして有力視されている生物に、同じ南米に生息するナマズの一種であるプレコが挙げられる。この付近に生息するプレコは華やかな色彩のものが多いため、黄金細工のモチーフとして選ばれたと考えられている。」

 

済みません、本日のテーマではない話が長くなってしまいました。

 

本日のテーマに入ります。

 聖書を批判する人の中で、「何故、神は罪を犯すような人間を創造したのか。罪を犯さない人間を創造すれば良かったじゃないか。」と主張する人たちがいます。

この主張に同意するわけではありませんが、創造主(神)が、ノアの時代に堕落した人間を滅ぼすために大洪水を起こした際にノア一家を含めて全人類を滅ぼして、創造主(神)の命令に忠実に従い全く罪を犯さない人間を新たに創造することも出来たはずなのに、何故、そうしなかったのかという疑問も湧いてきます。

 

よく語られる説明として、創造主(神)は人間をロボットのような存在として創造したのではなく、「自由意志」を持った存在として創造されたとするものです。

私もこの説明に賛同する者ですが、最近つくづく思うことは、シンプルに創造主(神)のなさる全てのことに、ただただ、全き信頼をして受け入れたいという思いです。

 

前回引用したイザヤ書55:11「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」という創造主(神)のことばが、改めて、私に迫って来ます。

 

人間の愚かな知恵では、「神は何故こんなことをなさるのか」「神は何故〇〇してくれないのか」と言いたくなる時が多々あります。

 

しかし、今は、創造主(神)の壮大な御計画が実現する途中であり、創造主(神)が望む事は必ず成功し実現すると仰っておられることを、アレコレつべこべ言わずに信頼することが私たち被造物の人間に出来る最善の道だと思えるようになりました。

 

創造主(神)の壮大な御計画が実現するのが、何時になるかは創造主(神)のみぞ知ることでありますが、実現した暁の神の御国の全貌は、私たちの想像を遥かに凌ぐ素晴らしい世界であることは間違いないことでしょう。

この地上での苦しみに満ちた生涯の全てに意味があったのだと受け入れることができる素晴らしい世界が待ち受けている、と私は考えています。

 

恐縮ですが、またまた内村鑑三の言葉を引用します。

「単純な信仰、信仰のみの信仰、結果に目を注がない信仰、信仰のみをもって満足する信仰、この信仰があって信者に初めて真の平和があるのである。主イエスが『私はあなたに平和(やすらぎ)を与える』と言われたのはこの平和である。」

 

Simple is Best(シンプル・イズ・ベスト)」

 

単純に素直に創造主(神)を信頼する信仰を心掛けたいものです。

 

↓ ↓ 聖書の他の重要なテーマについては、こちらをご覧ください。 

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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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