星 周作 Blog

★ 福岡より〇〇をこめて  ★

カトリックとプロテスタントの違い(その1)

本日から数回(いまのところ何回になるか不明)にわたり、カトリックプロテスタントの違いについて説明します。

 

外形的、つまり見た目の違いでカトリック教会かプロテスタント教会かを見分ける。

まず十字架にイエス像があるかないかの違い。

主に十字架に磔(はりつけ)されたイエス像があるのがカトリック、無いのがプロテスタント

 

↓ カトリックの十字架には磔されたイエス像がある。

f:id:hoshishusaku:20190123145157j:plain

 

↓ プロテスタントの十字架

f:id:hoshishusaku:20190123145229j:plain

 

教会内部や教会内の敷地にマリア像や聖人像があるのがカトリック、無いのがプロテスタント

<注>偶像礼拝との関係で像の有無は問題視されることがありますが、別途近日中にブログで説明します。

 

↓ マリア像、聖人像(イエスではない)があるカトリック

f:id:hoshishusaku:20190123145538j:plain

f:id:hoshishusaku:20190123145658j:plain


主に教会を主催する人を「神父」と呼ぶのがカトリック、「牧師」と呼ぶのがプロテスタント

テレビなどでドラマ制作者が両者の違いを認識していなくて、十字架に磔のイエス像があるカトリック教会の神父を出演者に「牧師」と呼ばせていることもあったりするようです。

 

カトリックの司祭の神父は原則独身ですが、プロテスタントの牧師は妻帯が原則許されている。

 

ブログアップは月曜日・木曜日の週2回です。

次回は1月27日(月)にアップします。

本名「馬場忠博」で投稿しているFBも宜しければ覗いてみてください。

↓ ↓ こちらをクリック

馬場 忠博 | Facebook

 

f:id:hoshishusaku:20180427063953j:plain

https://bible-seisho.jimdo.com/

 

★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

f:id:hoshishusaku:20180519173944j:plain

宗教改革(最終回・救われるためには)

人間が「救われる」ためには、善行をしたり、徳を積んだり、滝行をしたり、千日回峰行をしたり、お百度参りをしたり、日本国で定められている法律のすべてを守ればよいのでしょうか。

つまり、何らかの外形的な行為をすれば「救われる」のでしょうか。

すでに当ブログでも確認したようにカトリック教会が発行していた「免罪符」を購入するという行為をすれば「救われて」天国に行くことができるなどと現代社会では誰も信じることはないでしょう。

マルティン・ルターが再発見した真理の基となる新約聖書・ローマ人への手紙3:28をもう一度見てみたいと思います。

f:id:hoshishusaku:20190121035944j:image

人が救われるためには、法律(律法)を完璧に遵守したり、善行などの行いによるのではなく、主イエス・キリストを信じる信仰が全てなのです。

続いて新約聖書・エペソ人への手紙2:8~9をご覧ください。

f:id:hoshishusaku:20190121040003j:image

この聖書箇所は聖書が教える創造主(神)と人間との関わりの中で最も重要なところです。

聖書に啓示する創造主(神)および主イエス・キリストに背を向けた状態のままで信じる信仰がなければ、いくら数多くの善行をしようが、偽りの神にお百度参りしようが、救われることはないのです。

人間が何かしらの行為をしたことへの対価として「救われる」のではなく、「信仰」と神からの「恵み」によって「救われる」のです。

もう一度書きます。

聖書は「救いは神の恵みのゆえに、ただ信仰によるのであり、行いによって救われるのではない」と教えています。

何故、善行などの「行い」をしても救われることにならないのか、上記のエペソ人への手紙2:9に書かれているように行いをしたことを「だれも誇ることのないため」なのです。

聖書に啓示された創造主(神)は人間の「誇り、高ぶり、おごる心」を嫌います。

旧約聖書箴言21:4をご覧ください。

f:id:hoshishusaku:20190121040016j:image

ビジネスの才能を誇る、知的能力を誇る、美貌を誇る、運動能力を誇るなど、いずれも人間を創造された創造主(神)が授けた賜物によるのであって、何一つ人間に誇るものなどありはしないのです。

善行をすることも、善行をすることができる能力を授けたのも創造主(神)の賜物だからです。

 

話の次元が違うのを承知で、次のことを考えていただければ「救いが、人間の行いではなく、神の恵みと信仰による」ということもある程度は理解していただけるのではないでしょうか。

例えば、皆さんの目の前に二人の青年がいると仮定します。

一人は皆さんの子供でも何でもない他人ですが何の欠点もない品行方正で隣人にも親切な善い行いをする青年です。

もう一人の青年は過去から現在まで繰り返し過ちを犯して親兄弟に迷惑をかけ家出をして遊び歩いていた皆さんの息子が心の底から反省してボロボロになって家に戻って来たのだとします。

どちらの青年が皆さんは愛おしいですか?

品行方正で隣人に善行をする青年が愛おしいですか。

答えは明らかですね。

親である自分の元に戻って来た息子が愛おしいに決まっています。

いくら品行方正で善行をしていても偽りの神を崇拝(偶像崇拝)している人間よりも、聖書に啓示されている父なる神は、父なる神に背を向けている人間が悔い改めて天地万物の創造主の存在を認め、信じてご自分のもとに帰ってくることを願っているのです(新約聖書ルカの福音書15:11~32の放蕩息子のたとえ話をアレンジ)。

 

聖書の教えを理解するためには、天地万物が偶然に存在するようになったのではなく、つまり、進化などでは絶対なく、目に見える物はもちろん目に見えない物も、ありとあらゆる全てのものである天地万物を創造された創造主(神)が間違いなく存在することを明確に認識し、そして、信じることが何よりも必要なのです。

天地万物の創造主(神)の存在を明確に信じることができれば、聖書の難解な箇所も自ずと理解できるようになるはずです。

逆に天地万物の創造主(神)の存在を明確に信じることができなければ、聖書に書かれている内容が理解出来ず当然心の琴線に触れることもなく、聖書が神話・作り話あるいは単なる道徳書に過ぎないものとなってしまいます。

 

ブログアップは月曜日・木曜日の週2回です。

次回は1月24日(木)にアップします。

本名「馬場忠博」で投稿しているFBも宜しければ覗いてみてください。

↓ ↓ こちらをクリック

馬場 忠博 | Facebook

 

f:id:hoshishusaku:20180427063953j:plain

https://bible-seisho.jimdo.com/

 


★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

f:id:hoshishusaku:20180519173944j:plain

宗教改革(その5・カルヴァン)

フランス人のジャン・カルヴァン(1509年~1564年)は、若い頃パリでマルティン・ルターの教えに接した宗教改革の第2時代の人物であり、宗教改革の完成者とも目されている人物です。

 

f:id:hoshishusaku:20190116144627j:image

 

カルヴァンが歴史の脚光を浴びるのは1533年のニコラ・コップ事件です。

親友のニコラ・コップがパリ大学学長になり11月に新学年の開講演説をしました。

演説内容は主に硬直化したローマ・カトリック教会を批判したものだったのです。

頑冥(がんめい)な神学者たちはニコラ・コップを高等法院に訴え出たので、コップは難を逃れるためにスイスのバーゼルに旅立ちます。

そもそもコップの演説草稿をカルヴァンが書いた可能性があるといわれています。

コップとの関係を疑われたカルヴァンもパリを脱出することになるのです。

1535年1月頃にカルヴァン自身もコップのいるバーゼルに赴き、この地で執筆に精を出し翌年の1536年3月に主著「キリスト教綱要」の初版本を出版します。

この初版本はわずか6章という少ないものでしたが、後に数度にわたって大幅に書き直されて、1559年の最終版では80章からなる大部な著作となりました。

 

f:id:hoshishusaku:20190116145048j:plain

 

また、スイスのジュネーブでも活動したカルヴァンは1559年に創設された神学校のジュネーブ大学の創設者でもあります。

 

カルヴァンとミカエル・セルヴェトゥスの火刑事件>

ミカエル・セルヴェトゥス(1511年~1553年)はスペイン出身の高名な医者で血液の「肺循環」の発見者だけでなく、数学、地理学、天文学、神学に通じたルネサンス期のミニ万能人でした。

彼は1531年弱冠20歳にして「三位一体の誤謬(ごびゅう)について」をドイツで出版しました。

「三位一体」は一人の神という本質の内側に父(神)、子(キリスト)、聖霊の三つの位格があるという考えであり、カトリックプロテスタント両派共通の絶対に揺るがせない教理です。

しかしセルヴェトゥスは三位一体については聖書のどこにも書かれていないと主張し、カトリック宗教改革派の双方から異端の烙印を押されることになります。

1553年にセルヴェトゥスは「キリスト教復元」を出版しますが、この書のタイトルは意識的にカルヴァンの「キリスト教綱要」に対比させているのです。

「綱要」とは手引きを意味していたのに対して、「復元」は逸脱・堕落したキリスト教を復元しようという意味をもたせています。

キリスト教復元」が出版される前からカルヴァンとセルヴェトゥスとのあいだでは文通がなされていて、カルヴァンはセルヴェトゥスの主張をまったく認めることはありませんでした。

1546年2月にフランスの宗教改革者ギョーム・ファレル宛の手紙の中でカルヴァンは次のように書いています。

「セルヴェトゥスが最近、手紙を寄越しました。その手紙と一緒に、精神が錯乱したような幻想による、大きな本がきました。それは大ボラを吹いて自慢していました。この本には驚嘆すべきこと、聞いたこともないことが書いてあると言うのです。もしわたしが同意すれば、かれはこちらに来るとも約束します。しかし、かれの身の安全を保障するわたしの言葉をかれに与えることは望めません。なぜなら、もしかれが来れば、生きたままかれを去らせることは決してないでしょう。」

セルヴェトゥスは1553年4月に異端として火刑の判決を下され投獄されます。

その後脱獄をしたりもしますが、結局、再度逮捕投獄され1553年10月に異端として火刑に処せられました。

 

本日はここまでです。

 三位一体について書いた過去ブログを未読の方はこちらもご覧ください。

hoshishusaku.hatenablog.com

 

 <参考文献>

キリスト教の歴史(いのちのことば社

キリスト教大事典(教文館

・二つの宗教改革・ルターとカルヴァン教文館

宗教改革河出書房新社

キリスト教の歴史(新教出版社

キリスト教の本(学研)

 

ブログアップは月曜日・木曜日の週2回です。

次回は1月21日(月)にアップします。

本名「馬場忠博」で投稿しているFBも宜しければ覗いてみてください。

↓ ↓

馬場 忠博 | Facebook

 

f:id:hoshishusaku:20180427063953j:plain

https://bible-seisho.jimdo.com/

 

 ★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

f:id:hoshishusaku:20180519173944j:plain

宗教改革(その4・プロテスタントとは)

本日は「プロテスタント」と「プロテスタント主義」について書きます。

まず、プロテスタントについて説明します。

プロテスタントは新教徒ともいいます。

1517年マルティン・ルター宗教改革宣言以来、貴族などのドイツ諸侯の中で宗教改革派に投ずる者が続々と現れました。

1529年にドイツ南部の帝国都市のシュバイエルで開かれた帝国議会神聖ローマ帝国の皇帝カール5世の名において宗教改革を否定したため、宗教改革派諸侯が抗議書(プロテスタティオ)を出したことから、プロテスタントという名称が生まれました。

<注釈>「神聖ローマ帝国」は現在のドイツ、オーストリアチェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家。

 

↓ 神聖ローマ帝国の皇帝カール5世

f:id:hoshishusaku:20190114045659j:image

 

続いて、プロテスタント主義について説明します。

プロテスタント主義は、16世紀(1500年代)にルターやカルヴァン(次回のブログで取り上げます)によって行われた宗教改革の流れをくむキリスト教です。

ルターの宗教改革は免罪符販売を非難し、カトリック教会によるキリスト教信仰の歪曲(わいきょく・誤った教え)に抗議するということでしたが、ルター自身当初はカトリック教会の外に出ようとは考えていませんでした。

しかし、教皇の権威を否定する発言をするなどしてカトリック教会を破門されたことは前回のブログで書いたところです。

なお、プロテスタント主義(Protestantism)の言葉の中にある「Protest」という動詞には「抗議する」という意味と「告白する」あるいは「公言する」という意味もあります。

現在プロテスタント主義には数々の教派が全世界に存在し、ローマ・カトリック教会東方正教会と並んで3大キリスト教のひとつを形成しています。

このプロテスタントの各教派について近日中にアップ予定です。

 

ブログアップは月曜日・木曜日の週2回です。

次回は1月17日(木)にアップします。

本名「馬場忠博」で投稿しているFBも宜しければ覗いてみてください。

↓ ↓

馬場 忠博 | Facebook

 

f:id:hoshishusaku:20180427063953j:plain

https://bible-seisho.jimdo.com/

 

 ★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

f:id:hoshishusaku:20180519173944j:plain

宗教改革(その3・カトリックを破門されるルター)

宗教改革の時代的背景として、カトリック教会の腐敗のほか、国民文化の隆盛、民主主義思想の伝播、商工業都市の発生、貴族階級の奢侈(しゃし・贅沢)、農民への不当な課税、飢饉による不安等の社会的事情があげられます。

 

マルティン・ルターローマ教皇庁を訪れたとき、教皇庁の腐敗を目の当たりに見て、ローマ・カトリック教会に対する疑いを強くし、「もし地獄というものがあるとすれば、ローマ・カトリック教会はその上に建てられているに違いない」と語ったといわれます。

 

このような背景があったものの、宗教改革の直接の原因はマルティン・ルターの聖書研究に基づく新約聖書ローマ人への手紙3章28節の「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」という真理の再発見し、「人はただ信仰のみによって義とされるのであって(これを「信仰義認論」という)、その信仰のよりどころは聖書以外にない(これを「聖書主義」という)」という信仰原理をルターが確信したことによるのでしょう。

 

「書籍印刷なくして宗教改革なし」とはしばしば言われることですが、グーテンベルグが発明した活版印刷が普及しだしたこともあり、ルターの95箇条の命題はわずか2週間で全ドイツに知れわたり、ローマ教皇に反抗する折からの国民感情に投じたため、市民、農民、騎士は一致してルターを支持しました。

 

1519年7月にドイツのライプチヒでルターはカトリック教会の代表的神学者ヨハネス・エックと論争した際に教皇の権威を否定する発言をして、カトリック教会と決定的に対立することになります。

 

その後教皇レオ10世はルターの主張に対して1520年にカトリック教会を破門すると脅迫する破門威嚇勅書を出し、所説の撤回を求めたのです。

この年にルターは八継ぎ早に書物を出し積極的に教会の改革に踏み込んでいくことになります。

この時に出された書物が、後年に宗教改革三大論文と言われるものですが、以下の書物がそれです。

キリスト教会の改善について」と「教会のバビロン捕囚について」と「キリスト者の自由」です。

 

f:id:hoshishusaku:20190110041101j:image

 

教皇から渡された破門威嚇勅書をルターは焼き捨て、1521年ついにカトリック教会を破門されたのです。

 

ブログアップは月曜日・木曜日の週2回です。

次回は1月14日(月)にアップします。

本名「馬場忠博」で投稿しているFBも宜しければ、ご覧ください。。

↓ ↓

馬場 忠博 | Facebook

 

f:id:hoshishusaku:20180427063953j:plain

https://bible-seisho.jimdo.com/

 

★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

f:id:hoshishusaku:20180519173944j:plain

宗教改革(その2・免罪符)

16世紀の頃のヨーロッパの人々は信仰心を高め真剣に救いを求めていました。

ただ、繰り返し起こったペストの大流行が、死が身分の区別なく訪れることを人々に感じさせていたのです。

いずれ訪れる死の先にある「煉獄」(れんごく)の教えに人々は恐怖していました。

生前に大罪を犯した者は地獄に行くことになるが、生前に小さな罪を犯した者は「煉獄」という場所で浄められた後天国に行くとカトリック教会は教えていたのです。

 

煉獄とは死後の世界に天国と地獄の他に第三の場所として設定された所を指し、この煉獄で厳しい試練の業火に耐えれば天国への道が開かれることになるというのです。

 

聖書に書かれているのは天国と地獄であり、第三の場所の煉獄などは書かれていません。

これはカトリック教会独自の教えです。

そもそも些細な小さな罪さえも全く犯さない人間などいるものではなく、当時の多くの人々は死後に自分が煉獄に行くことになる不安と恐怖を感じていたのです。

ところで当時免罪符(又は贖宥符(しょくゆうふ)、贖宥の文書)というものが販売されていて、免罪符を購入することで煉獄の苦しみが解消されると聞いた人々は群れをなして免罪符購入に走りました。

さらにカトリックローマ教皇レオ三世(在位1513年~21年)は、ローマのサン・ピエトロ大寺院の莫大な改築費用捻出のために大々的に免罪符販売を行うことにしたのです。

そして、免罪符販売を引き受けたのがドミニコ会修道士ヨハネス・テッツェル(1465年~1519年)でした。

テッツェルは免罪符を購入した金貨が免罪符箱に落ちてチャリンとなると魂は天国に昇って救われると言いながら販売しました。


f:id:hoshishusaku:20190107042021j:image

 

金銭を出しさえすれば救われると聞いて人々は喜んで免罪符購入をしたのです。

こうした行為に宗教的危機を見て取ったのがマルティン・ルター(1483年~1546年)だったのです。

当時聖書研究に没頭していたルターは、新約聖書のローマ人への手紙3章28節の「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」という真理を再発見し、「人はただ信仰のみによって義とされ(これを「信仰義認論」という)、その信仰のよりどころは聖書以外にない(これを「聖書主義」という)」という信仰原理をルターは確信するに至るのです。

簡単に言えば、新しい教えでも何でもなく聖書に予め書かれている真理をルター自身はもちろんカトリックも見落としていたわけで、そういう意味でルターは再発見したわけです。

免罪符を金銭で購入すれば天国の切符を手に入れることができるとする教えは、ルターが確信した「人はただ信仰のみによって義とされる」とする信仰義認からすれば、決して無視することのできない宗教的危機を強く感じるものだったのです。

信仰によって救われる(義とされる)という聖書の真理に反する金銭で免罪符を購入すれば救われるというテッツェルの免罪符販売を批判する「95箇条の命題」を書き、これを1517年10月31日にヴィッテンベルクの城教会の扉に「95箇条の命題」を貼り出したことによって宗教改革が動き出すことになります。

「95箇条の命題」(提題ともいう)の中の「命題27」及び「命題32」をご覧ください。

<命題27>

「箱の中へ投げ入れられた金がチャリンと鳴るや否や、魂が煉獄から飛び上がると言う人たちは、(神の教えではなく)人間的な教えを宣べ伝えているのである。」

<命題32>

「贖宥の文書(免罪符)で自分たちの救いが確かであるとみずから信ずる人たちは、その教師たちとともに永遠の罪に定められるであろう。」

このようにルターは免罪符販売を痛烈に批判したのでした。

本日は、ここまでです。

 

ブログアップは月曜日・木曜日の週2回です。

次回は1月10日(木)にアップします。

 

本名「馬場忠博」で投稿しているFBも宜しければ覗いてみてください。

↓ ↓ ここをクリック

馬場 忠博 | Facebook

 

f:id:hoshishusaku:20180427063953j:plain

https://bible-seisho.jimdo.com/

 

★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

f:id:hoshishusaku:20180519173944j:plain

宗教改革(その1・95箇条の命題)

約500年前の1517年10月31日にマルティン・ルター自身(1483年~1546年)が神学教授を務めているヴィッテンベルクの城教会の扉に「95箇条の命題」を貼り出したことから宗教改革がスタートしました。

 

↓ ヴィッテンベルクの城教会

f:id:hoshishusaku:20190103052223j:image

 

↓ 「95箇条の命題」を貼り出したといわれる北入口の扉

f:id:hoshishusaku:20190103052235j:image

 

何回になるか分かりませんが、本日から、宗教改革を取り扱います。

本日は、宗教改革の発端となった「95箇条の命題」の全文だけを以下掲載します。

説明は次回1月7日(月)以後にします。ご了承ください。

 

<95箇条の命題>

命題1

わたしたちの主であるイエス・キリストが、「悔い改めよ」と言われた時、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。

 

命題2

この言葉が秘跡としての悔悛(すなわち、司祭の職によって執行される告解と償罪)についてのものであると解することはできない。

 

命題3

しかし、それは単に内的な悔い改めだけをさしてはいない。否むしろ、外側で働いて肉を種々に殺すことをしないものであるなら、内的な悔い改めはおよそ無に等しい。

 

命題4

そのため、自己憎悪(すなわち、内における真の悔い改め)のつづく間は、すなわち、天国にはいるまでは、罰はつづくものである。

 

命題5

教皇は、自分自身または教会法が定めるところによって科した罰を除いては、どのような罰をも赦免することを欲しないし、またできもしない。

 

命題6

教皇は、神から罪責が赦免されたと宣言し、また確認するか、あるいは、もちろん自分に保留されている事項について(これらの事項を軽侮したら、罪責はまったく残ることになろう)赦免する以外には、どのような罪責をも赦免することはできない。

 

命題7

神は、人が同時にすべてのことにおいて、神の代理者である司祭に謙虚に従ってしなければ、だれの罪責をも決して赦免したまわない。

 

命題8

悔悛についての教会法は、生きている人にだけ課せられていて、それによるならば死に臨んでいる人には何も課せられていない。

 

命題9

そのため聖霊は、教皇がその教会において常に死と必然の項を除外しているので、教皇によってわたしたちによいことをしたもうているのである。

 

命題10

死に臨む人に、教会法による悔悛を煉獄にまで留保するような司祭たちは、無知で悪い行いをしているのである。

 

命題11

教会法による罰を転じて煉獄の罰とまでしているあの毒麦は、疑いもなく、司教たちの眠っている間にまかれたと思われる。

 

命題12

かつては、教会法による罰は、真の痛悔を試みるものとして、赦免の後ではなく前に課せられていた。

 

命題13

死に臨む人たちは、死によってすべてを支払うのであり、教会法規に対してはすでに死んだ者たちであり、それらの法からは当然解放されている。

 

命題14

死に臨んでいる人たちの不完全な信仰や愛は、必ず大きな恐れを伴う。そして愛が小さければ小さいほど、恐れは大きいということになるだろう。

 

命題15

この恐れとおののきは(他のことはいわずとも)、それだけでも十分に煉獄の罰をなしている。なぜなら、それは絶望のおののきにもっとも近いからである。

 

命題16

地獄、煉獄、天国の異なっているのは、絶望、絶望に近いこと、救いのたしかさの異なっているのと同じように思われる。

 

命題17

煉獄にある魂にとって、おののきが減ぜられるに応じて愛が増し加えられるのは、必然のように思われる。

 

命題18

また、煉獄にある魂が、功績や増し加わる愛の状態の外におかれているということは、理性によっても、聖書によっても証明されているとは思えない。

 

命題19

また、わたしたちはいかに強く救いを確信しているとしても、煉獄にある魂、少なくともその全部のものが自分の救いについて確信し、安心しているということが証明されているとも思われない。

 

命題20
したがって、教皇は、すべての罰の完全赦免ということによって、これをただもうすべての罰の赦免と解するのではなく、ただ彼自身によって課せられた罰の赦免とだけ解するのである。
 
命題21
したがって、教皇の贖宥によって、人間はすべての罰から赦免され、救われると述べるあの贖宥説教者たちは誤っている。
 
命題22
否むしろ、教皇は、煉獄にある魂が、この生において教会法にのっとって課しておかねばならなかったような罰を、煉獄にある魂にたいして赦免することはない。
 
命題23
とにかく、もしすべての罰の赦免がだれかに与えられうるとするならば、それはもっとも完全な人にだけ、すなわち、ごく僅少な人にだけ与えられることは確かである。
 
命題24
このことから必然的に、大部分の人は罰の免除についてのあのけじめなく、壮麗な約束によって欺かれていることになる。
 
命題25
教皇が一般的に煉獄にもっている権限と同じ権限を、どの司教も主任司祭も、その司教区、聖堂区に特殊的にもっている。
 
命題26
鍵の権限によってではなく(彼はそうしたものをもっていない)、代祷の方法によって魂に赦免を与えることが、教皇として至当なことをしているのである。
 
命題27
箱の中へ投げ入れられた金がチャリンと鳴るや否や、魂が煉獄から飛び上がると言う人たちは、(神の教えではなく)人間的な教えを宣べ伝えているのである。
 
命題28
金が箱の中でチャリンと鳴ると、確かに利得と貪欲は増すことになる。しかし、教会のなすところはただ神の御心にのみかかっている。
 
命題29
聖セヴェリウスやパスカリスにあったと語られているように、煉獄で魂のすべてがあがなわれることを願っているかどうかをだれが知っていよう。
 
命題30
自分の痛悔が真実であることについては、だれも確かではない。まして完全赦免を得たかどうかについてはなおさらのことである。
 
命題31
真実に悔い改める者がまれであるように、真実に贖宥を買う者もまれである。しかり、もっともまれである。
 
命題32
贖宥の文書で自分たちの救いが確かであるとみずから信ずる人たちは、その教師たちとともに永遠の罪に定められるであろう。
 
命題33
教皇のするあのような贖宥は、人間を神と和解させる神、あのはかり知れない賜物なのだという人たちは、大いに警戒されねばならない。
 
命題34
なぜなら、あの贖宥の恵みは、人間によって制定された秘跡による償罪の罰にだけかかわるからである。
 
命題35
魂を《煉獄から》買い出し、あるいは、告解証を買おうとしている者に、痛悔が不必要であると教える人たちは、非キリスト教的なことを説いている。
 
命題36
真実に痛悔したキリスト者ならだれでも、贖宥の文書がなくても彼のものとされているところの、罰と罪責より完全赦免をもっている。
 
命題37
真実のキリスト者ならだれでも、生きている者も死んでいる者も、贖宥の文書がなくても神から彼に与えられたものである、キリストと教会とのすべての宝にあずかっているのである。
 
命題38
しかし、教皇からくる赦免と伝達とは、決して侮蔑してはならない。なぜなら、(すでに述べたように)それは神の赦免の宣言であるからである。
 
命題39
もっとも博学な神学者たちにとっても、人々の前で贖宥の寛大さと痛悔の真実さとを同時にほめることは、もっとも困難である。
 
命題40
真実の痛悔は罰を求め、またこれを愛する。しかし、贖宥の寛大さは《罰を》ゆるめ、これを憎むようにしむける 少なくとも、そのような機会となる。
 
命題41
使徒的贖宥は、人々がこれを他の愛のよいわざより優位におかれるものだと誤解しないように、注意して説かれねばならない。
 
命題42
贖宥を買うことが、どのような点でも、あわれみのわざに比すことだということは、教皇の考えではないということを、キリスト者は教えられねばならない。
 
命題43
貧しいものに与えたり、困窮しているものに貸与している人は、贖宥を買ったりするよりも、よりよいことをしているのだと、キリスト者は教えられねばならない。
 
命題44
なぜなら、愛のわざによって愛は成長し、人間はよりよくなるからであるが、贖宥によっては人間はよりよくならず、ただ罰から自由となるにすぎないからである。
 
命題45
困窮しているものを見て、彼を無視して贖宥に金銭を払う人は、教皇の贖宥ではなく、神の怒りを自分に招いているのだと、キリスト者は教えられねばならない。
 
命題46
人があり余るほどに豊かでないかぎり、必要なものは自分の家にとどめておかねばならず、決して贖宥のために浪費してはならないのだと、キリスト者は教えられねばならない。
 
命題47
贖宥を買うのは自由であって、命ぜられたことではないのだと、キリスト者は教えられねばならない。
 
命題48
贖宥を与える場合、教皇は用意されている金銭以上に、自分のために熱心な祈りを、より求め、より望んでいるということを、キリスト者は教えられねばならない。
 
命題49
教皇の贖宥は、もし人々がこれに信頼しないのであれば有益であるが、これによって神への恐れを捨てるのであればもっとも有害であることを、キリスト者は教えられねばならない。
 
命題50
もし教皇が贖宥説教家たちのする取り立てを知っていたなら、彼は聖ペテロ聖堂が自分の羊たちの皮、肉、骨で建てられるより、むしろ灰と消えることを選ぶということを、キリスト者は教えられねばならない。
 
命題51
教皇は(もし必要ならば)聖ペテロ聖堂を売ってまでも、あの人々に、 その大多数のものから、贖宥の扇動家たちが金銭をまき上げているのであるが 自分の金のうちから与えるべきであるし、またそのように欲しているということを、キリスト者は教えられねばならない。
 
命題52
たとい委任されたものが、否教皇自身が自分の魂をかけてそれを保証しても、贖宥の文書による救いを信頼するのはむなしいことである。
 
命題53
贖宥を説教するために、他の諸教会では神の御言がまったく沈黙するように命ずる人たちは、キリストの敵、教皇の敵である。
 
命題54
同一説教の中で、贖宥にたいして神の御言と同等、あるいは、それ以上の時間が費されるとすれば、それは神の御言にたいして不正となるのである。
 
命題55
贖宥が(それは最小のものである)一つの鐘、一つの行列、一つの儀式で行われるのであれば、福音は(それは最大のものである)百の鐘、百の行列、百の儀式をもって説教されねばならないというのが、必ずや教皇の考えるところである。
 
命題56
教会の宝から教皇は贖宥を与えているのであるが、それはキリストの民には十分に述べられてもいないし、また知られてもいない。
 
命題57
説教者の多くがこの宝をそうたやすく放出しないで、ただ集めることだけをしているという理由からは、確かに宝がこの世のものでないことは明らかである。
 
命題58
また、それらの宝はキリストと聖徒たちの功績でもない。なぜなら、これらの功績は常に、教皇なくしても内なる人には恵みを、また、外なる人には十字架、死、陰府を与える働きをするからである。
 
命題59
聖ラウレンティスは、教会の宝は教会の貧者たちであると語っているが、彼はその時代の語法にしたがって言ったのである。
 
命題60
わたしたちは、(キリストの功績によって与えられた)教会の鍵が教会の宝であるというが、無思慮に言っているのではない。
 
命題61
なぜなら、罰と《教皇の》留保事項との赦免については、ただ教皇の権能だけで十分であることが明らかである。
 
命題62
教会の真の宝は、神の栄光と恵みとのもっとも聖なる福音である。
 
命題63
しかし、この宝は、第一の者を最後の者とするので、当然もっとも憎まれるものである。
 
命題64
他方、贖宥の宝は、最後の者を第一の者とするので、当然もっとも喜ばれるものである。
 
命題65
したがって、福音の宝は網である かつてはこれで富める人々をすなどったのである。
 
命題66
贖宥の宝は網である 今ではこれで人々の富をすなどっているのである。
 
命題67
説教者たちが大声で最大の恵みだと呼びかけている贖宥は、利得を増大させるかぎりにおいて、真に最大の恵みだと解される。
 
命題68
しかし、それら《贖宥》は神の恵みと十字架の敬虔とに比較すると、実際もっとも小さいものである。
 
命題69
司教や主任司祭たちは、使徒的贖宥を委任されている者たちを敬意をつくして認める義務がある。
 
命題70
しかし、彼らは目をみひらき、耳をそばだてて、これら委任されている者たちが教皇の委任の代わりに、自分たちの夢を説教することがないように注意する義務がもっともっとある。
 
命題71
使徒的贖宥の真理に反して語るものには、アナテマと呪いあれ。
 
命題72
しかし、贖宥の説教者の言葉の欲と放恣とに対して真に心するものには、祝福あれ。
 
命題73
どのような方法であれ、策謀して贖宥の売買に害を加えようとする者たちを、教皇が雷で打つのが正当であるのと同様に。
 
命題74
それより更に教皇は、策謀して贖宥を口実として聖なる愛と真理とに害を加えようとする者たちを、雷で打とうと意図するのである。
 
命題75
たといだれかが、不可能なことではあるが、神の母を犯したとしても、教皇の贖宥がその人間を解放しうるほどに大きいと考えるのは狂っているのである。
 
命題76
これに反してわたしたちは、教皇の贖宥は、小罪のうちのもっとも小さいものでも、罪責に関するかぎりでは、これを除去することができないと言うのである。
 
命題77
もし聖ペテロが今教皇であったとしても、彼はそれより大きい恵みを与えることができないと言うことは、聖ペテロと教皇にたいする冒涜である。
 
命題78
これに反してわたしたちは、現教皇もまたどの教皇も、贖宥より大きいもの、すなわち第1コリント12章[28節]にあるように、福音、諸力、いやしの恵みなどをもっていると言うのである。
 
命題79
教皇の紋章をつけて目立つように立てられた十字架が、キリストの十字架と同じであると言うのは、冒涜である。
 
命題80
このような説教が人々に行きわたることを許している司教、主任司祭、神学者たちは、釈明しなければならないだろう。
 
命題81
贖宥についてのこのような気ままな説教は、信徒のとがめだてや、あるいはいうまでもなく鋭い質問から教皇への敬意を救ってやることが、博学の人たちにさえ容易でないようにしている。
 
命題82
すなわち、「もし教皇が、大聖堂建設のためのもっとも汚れた金、すなわち、もっともいやしい理由によって無数の魂を贖うとすれば、なぜ教皇はもっと聖なる愛や魂が最大に必要とするもの、すなわち、すべてのうちでもっとも正しい理由によって煉獄をからにしないのであろうか」。
 
命題83
また、「贖われた者のために祈ることはすでに不正であるのに、なぜ死者のための葬式や記念がいつまでも続くのであろうか、また、なぜ教皇は死者のために献げられた献財を返さなかったり、回収することを許さなかったりするのであろうか」。
 
命題84
また、「不敬虔な者、敵対する者には、金を出せば敬虔で神の愛する魂を買うことを認めながら、敬虔で愛される魂自身の必要のためであるなら、これを無償の愛によって贖うことをしないような神と教皇との新しい敬虔とは何であろうか」。
 
命題85
また、「事実そのもの、また使用しなかったことからも、すでに長い間、それ自体廃棄され、死物となっていた悔悛の教会法規が、今になっても、贖宥の認可のため、金でもって あたかも今がもっとも強力であるかのように うけ出されているのはなぜであるか」。
 
命題86
また、「もっとも富めるクラススよりも、今日では豊かな財をもつ教皇が、なぜ貧しい信者の金よりむしろ自分の金で、この聖ペテロ大聖堂をひとつ建てないのか」。
 
命題87
また、「まったき痛悔によって完全赦免と《恵みに》あずかる権利を十分にもつ者に対して、教皇は何を赦免し、何をわかち与えるのであろうか」。
 
命題88
また、「教皇はいま一回だけしているが、もし一日百回どの信者にもこれらの赦免と伝達を与えるなら、それよりも大きな善いことが教会に加えられるであろうか」。
 
命題89
教皇が贖宥によっては、金よりもむしろ魂の救いを求めていることからすれば、彼は、すでに以前に与えられた文書と贖宥とを、それらが現在同じように有効であるのに、なぜ停止させるのか」。
 
命題90
以上のような信徒のもっとも細心の議論を、力だけでおさえたり、理由をあげて解かなかったりすることは、教会と教皇とを敵の嘲笑にさらし、キリスト者を不幸にすることである。
 
命題91
したがって、もし贖宥が教皇の精神と意図に従って説教されるとすれば、これらすべてのことは容易に解消するであろう、否存在することもないだろう。
 
命題92
だからキリストの民に「平安、平安」という、かのすべての預言者たちは立ち去るがよい そこには平和はない。
 
命題93
キリストの民に「十字架、十字架」という、かのすべての預言者たちは、さいわいである そこには十字架はない。
 
命題94
キリスト者はその首であるキリストに、罰、死、地獄を通して、従うことに励むように、勧められねばならない。
 
命題95
そしてキリスト者は、平安の保証によるよりも、むしろ多くの苦しみによって、天国にはいることを信じなければならない。

 

 

f:id:hoshishusaku:20180427063953j:plain

https://bible-seisho.jimdo.com/

 

★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

f:id:hoshishusaku:20180519173944j:plain