星 周作 Blog

★ 福岡より〇〇をこめて  ★

師弟

 

早速ですが、B(ブルース)・M(マンニング)・メツガー(生1914年~没2007年、新約聖書本文批評の世界的権威)の著書「新約聖書の本文研究」の一部を引用します。昨日のブログに登場したバート・D・アーマンの師匠に当たる人物です。

 

「十五世紀に活字印刷の技術が発明されるまで、新約聖書の本文は、新約聖書だけでなく、古代の文献の本文はみなそうであるが、一字一字、たんねんに書き写すことによってのみ伝えられてきた。したがって、写本の成り立ちや書き写しの過程を研究することは、古代文化を学ぶ者にとって、また特に新約聖書を学ぶ者にとって、きわめて重要なことである。・・・<中略>・・・古代においては、粘土板、石、骨、板、皮革、金属板、陶器の破片、パピルス、(牛、ヒツジ、ヤギの)皮紙などが文字を書きとめるために用いられた。これらの材料のうち、新約聖書を学ぶ者が特に関心をよせるのは、最後の二つである。というのは、ほとんどすべての新約聖書の写本が、パピルスか皮紙でできているからである。」

 

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続いて、昨日に続きバート・D・アーマンの著書「捏造された聖書」の一部を引用します。

「現存する新約聖書ギリシア写本を研究すればするほど、目の前に立ちふさがってくる問題があった。オリジナルは神の霊感によって書かれたと主張するのは良い。だが現実には、私たちの手許にはオリジナルなんてないのである。だからオリジナルを再現することができない限り、霊感云々は言っても詮無いことなのだ。しかもその上、キリスト教会というものが出来てこの方、キリスト教徒の圧倒的大多数はオリジナルを手にすることができていないという点も、その霊感を疑わしいものにしている。むしろオリジナルどころか、そのオリジナルの直接の複製すら存在していないのである。・・・<中略>・・・私たちが手にしているのは、後になって、それも、かなり後になってから作られた複製だ。・・・<中略>・・・古代の世界で本を複製する方法はただひとつ、人間の手で一字一字、一度に一語ずつ書き写すことだ。・・・<中略>・・・書き写す写字生は、テキストに必ず何らかの改変を加えるからだ。つまり、偶然か(ペンが滑ったとか、そんな感じの不注意)あるいは意図的にか(写字生が書き写している単語に故意に改変を加える)の理由によって、書き写す単語を変えてしまうのだ。」

バート・D・アーマンには、写本は写し間違いがあるのが当然だという思い込み先入観があるようです。

 

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続いて、無神論者であったリー・ストロベル(生1952年~、作家、元新聞記者)は、妻がキリスト教徒になったことをキッカケに新聞記者の取材力を武器に、キリスト教神学者や大学教授に神の存在についての疑問をぶつけたり、様々なキリスト教関連文献を当たるうちに、キリスト教徒になった人物です。

彼の著書「ナザレのイエスは神の子か?」の中に、取材対象となった上記のB・M・メツガーとの対話がありますので、その一部を引用します。

 

「『正直、最初に新約聖書の原本がないと知ったとき、どうにも懐疑的になりましてね。コピーのコピーのそのまたコピーしか存在しないわけですね。この状態で、今日私たちが読んでいる新約聖書とオリジナルが同じだと、どうして信じられるのでしょうか』私は博士に尋ねた。『それは何も聖書に限った問題ではなく、古代から伝えられてきたすべての文章に言えることでしょう。しかし、新約聖書が信頼できる、特に他の文章に比べて俄然信頼できるという理由は、今まで残されてきた写本の多さにあります』と博士は答えた。『どうしてそれが重要なのでしょうか』、『つまり、同一の写本が多いほど、特に違う場所から同一の写本が見つかったという事例が多いほど、それぞれの写本を見比べて原本の内容を推察することがしやすくなります。人間の系図になおして考えると、わかりやすいかもしれません。つまりこうした写本のもとをたどっていけば、それが同じ家族から派生した子孫であることが証明されるわけです。』・・・<中略>・・・『博士は研究者として何十年もの間、研究され、教科書になるような本を執筆され、新約聖書を徹底的に調べてこられたわけですが、こうしたことがご自身の信仰にどう影響したと思われますか』、『そのことですか』と博士は嬉しそうに言った。『新約聖書が今日までしっかりと受け継がれてきた事実、圧倒的な写本の多さ、そして大変古い時代の写本があるという事実を得て、私の信仰の基礎はさらに強固なものとなりましたね』」

 

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キリスト教を棄てたバート・D・アーマンは、昨日引用した彼の著書「破綻した神キリスト」の中で神が全能ではなく愛でもないことを聖書の様々な聖句と悲惨な現実世界を引き合いに出し説明します。

「捏造された聖書」では、聖書はコピーにコピーを重ねたもので神の書ではないとの主張を展開します。

簡単に言えば、神及び聖書を信じることができなくなった彼には、彼の思い込みによって、聖書の真実性が見えなくなってしまったというのが、私が持った印象です。

 

バート・D・アーマンとB・M・メツガーの関係を軽いものにする意図は全くありませんが、ダースベイダーとダースベイダーになる前のアナキン・スカイウォーカー時代の師匠オビ・ワン・ケノービとの師弟関係を重ねて見てしまいます。

 

最後に、私が長々と二人の立場を扱ったのは、結局、世界のすべての人間がこの二人のどちらかの道を選ぶことになるということを言いたかったのです。

 

B・M・メツガーの立場を取る人間(キリスト者)は圧倒的に少数派(狭い門)です。

 

新約聖書・マタイによる福音書7:13~14には有名なイエスが語った聖句が記されています。

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最後まで読んでいただきありがとうございます。

 


★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

親鸞日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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ダースベイダーにはなりたくない

 

早速ですが、まず、バート・D・アーマン(生1955年~、ノース・キャロライナ大学教授兼宗教学部長)の著作「破綻した神キリスト」の一部を引用します。

 

少々長くなりますが、ご辛抱ください。

 

「私は熱心に聖書の学習に取り組み、その多くを暗記してしまった。特に新約聖書は初めから終わりまで一字一句違わず暗唱できるほどになった。聖書学と神学に関する免状をもらってムーディ(聖書学院)を卒業すると、次にイリノイ州にある福音派キリスト教の学校であるホイートンに行った(ここはビリー・グラハムの母校である)。そこでギリシア語を学んだ私は、新約聖書を原語で読めるようになった。そこで私は、新約聖書ギリシア語写本の研究に生涯を捧げたいと考えるようになり、長老派の学校であるプリンストン神学校に行くことにした。そこの有能な教授陣の中に、アメリカ最高の文献学者であるブルース・メツガーがいたのである。このプリンストンで、私は神学修士の学位―牧師になる修行―を取り、そしてついに新約聖書の研究によって文学博士号を取った。このような学歴を書いたのは、つまり私がガチガチのキリスト教であり、キリスト教の信仰に関しては隅から隅まで知り尽くしていたということを示すためである。結局はその信仰を失うことになるのだが。・・・<中略>・・・だがいずれにせよ最終的には私はキリスト教を棄てざるをえなくなった。それは簡単なことではなかった。それどころか、私は足をばたばたさせて泣き喚きつつ、何とか信仰にしがみつこうとしたのである。何と言っても、私は子供の頃から信仰に慣れ親しみ、10代以降はそれこそ人生を懸けてのめり込んできたのだ。だが私は、もうこれ以上信じることのできない地点にまで辿り着いてしまった。話せば長くならざるを得ないが、簡単に述べよう。要は私は、キリスト教の主張と人生における事実の双方を妥協無く受け容れることができないということに気づいてしまったのである。ことに、世界の状況を見る限り、この世界にして全能にして愛なる神が能動的に介入しているということはあり得ないと言わざるを得ない。地球上の多くの人々にとって、人生とは悲惨と苦しみの詰まった肥溜に他ならないではないか。私はもはや、この世を統轄する善良で親切な神が存在するということを信ずることができなくなってしまったのだ。・・・<中略>・・・ついに私は敗北を認めたのだった。私はもはやキリスト教の神を信じることはできないと悟り、不可知論者となった。不可知論者である私には、神が存在するかどうか『判らない』。だがもし存在するなら、その神はユダヤキリスト教が主張するような能動的かつ強力にこの世に介入する神ではないということは間違いない。こうして私は教会に行くのを止めた。

 

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(この本は、旧約聖書の内容について触れている箇所も多く、聖書初心者の方には、お勧めできません。)

 

聖書を丸ごと信じているキリスト者である私が、キリスト教を棄てたバート・D・アーマンの本を何故引用したのか。

それは、聖書の神を信じない多くの人達が持つ心情が、彼が持つに至った心情と共通するのではないかと考えたからです。

 

その心情を簡単に書くと次のようなことです。

世界には、いまだに戦争が止むことがなく多くの死者と難民が生まれます。

テロが多くなることがあっても無くなる気配がありません。

干ばつや地震、洪水が世界のいたるところで起こり飢餓で苦しむ人々で溢れています。

生まれながらの障害で苦しむ人、様々なウィルス感染により死者が絶えることはありません。

神が愛であり、全能であるならば、積極的、能動的に介入して、これらの人間の悲惨極まる苦難を一掃してくれないんだ、という叫びが多くの人間の心情です。

 

キリスト教に関心を示して一般書店でよく目にするマザーテレサの本を買って読んでみると、「愛」の重要性が巻頭から巻末まで一貫して語られています。

マザーテレサの本だけでなく、多くのキリスト教の本では、必ず聖書の「神は愛である」を引用しています。

 

ところが、現実世界は、バート・D・アーマンが(上記引用文で)書いているように「人生とは悲惨と苦しみの詰まった肥溜に他ならないではないか。」と感じています。

 

せっかく、キリスト教に関心を示しても、一般書店で購入した本が、神は愛であるということを強調し過ぎるが故に現実世界とのギャップが生じ、神を感じることができずキリスト教の信仰に至らないような気がします。

 

また、バート・D・アーマンのようにキリスト教徒であった人が信仰から遠ざかる一因になるような気がします。

 

9月16日のブログ「神がしない、一つのこと。究極の自己責任」の一部を再度ここでそのまま書きます。

「天地万物の創造主である神が創造された自然界(被造物)を観察し、もっとも身近な人間の体全体が神の恵みにどれほど満たされているかを考えると、神が人間の苦難の多い人生を死を持って終わらせることなど、どう考えても不合理です。地球自体の現状を観察してもそうです。神の辞書に不可能の文字がないはずの全能の神が、その気になれば、今この瞬間に地震、洪水などの災害を一掃できるはずなのに、それをしないのは、どう考えても不合理です。したがって、キズついた今の世界(天地万物の被造物)が終わりをつげ(終末)、次の新たな完全な世界(神の御国)を全能の神が用意されると考えることは(聖書全体はこのことを書いている)、極めて合理的であると確信します。」

 

バート・D・アーマンがキリスト教を棄てる要因になった彼の主張、心情は理解できないこともありません。

その昔私も彼と似たり寄ったりの心情を持っていました。

心情が理解できても、その主張を受け入れることは絶対にできません。

彼は、ユダヤ人がヒットラーによって大量虐殺されたホロコーストを神は沈黙されたと主張します。

未熟なキリスト者の私も神の本当のご意思はわかりません。

ただ、すべての人が全能の神の存在を否定したり疑っているわけではないのです。

ホロコーストを生き抜いたユダヤ人の子孫の中にもキリスト教徒が沢山いるのです。

 

私に文章力があれば、本を出版してこのことを訴えたいところですが、稚拙な文章しか書けないことを自己認識しているので諦めています。

 

唐突ですが、バート・D・アーマンの「破綻した神キリスト」を読んでいて、スターウォーズのダースベイダーを思い浮かべました。

 

ダースベイダーはそもそもフォースを使うジェダイの騎士でしたが、妻パドメを死の運命から救いたいためにシスの暗黒卿に利用され暗黒面(ダークサイド)に堕ちていきます。<参考>フォースとは、架空のエネルギー体のこと(ウィキペディアより)

 

ダースベイダーは映画のキャラとしては最高ですが、こと聖書とキリスト教に関しては、フォースの暗黒面(ダークサイド)に堕ちたダースベイダーのようにはなりたくありません。

 

キリストは世の光です。

 

まっすぐキリスト(光)を見つめ地上の人生を全うしたいものです。

そして、確信を以て来るべき神の御国に希望を持ちます。

 

最後に、新約聖書ヨハネによる福音書12:44~50を引用します。

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本日も最後までお付き合いいただき、感謝します。

 

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https://bible-seisho.jimdo.com/



★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

親鸞日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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小休止

私は根っからの無教会者なので、直接、特定の人からキリスト教の祈りの仕方を伝授されたことがありません。

だから、十字架に向かってする祈りの仕方も知りません。

 

しかし、毎日の祈りを欠かしたことはありません(我流)。

 

型通りの形式的な正しい祈りの仕方があるとは思っていません。

 

キリスト教の各教団には、十字架のデザインにそれぞれ違いがあるようです。

キリスト教を信仰した当初、十字架のネックレスを購入して一週間だけ首にかけたことがありますが、その後は、ケースに入れたままです。

私の持っている十字架はこのケースに入っている1個だけです。

部屋の中を見回しても、当然ありません。

毎日お祈りをしますが、十字架に向かってすることはないのです。

 

エスは、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マルコによる福音書10:15)と教えられました。

私が、この教えを実行するのに、形(十字架)を必要としないのです。

 

話が180度変わります。

数日置きに体重を測っていますが、写真のとおり、95.3㎏です。

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医者からもう少し減量するよう指導されていますが、中々、減りません。

数日前からご飯の量を少な目にしているので、効果が出ればと期待しています。

 

私の身長からすれば、医者が奨める体重は80㎏程度ですが、私の目標は90㎏です。

身長も測ってみました。

182cmです。

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下の写真は20歳頃の私ですが、185cmほどではなかったでしょうか。

その時から、3cm縮んだことになります。

この頃は、見ての通り頭にはあるべきものがチャンとありましたが、27歳頃から髪の毛の後退が始まったような気がします。

ただ、不思議とあまり気にしませんでした。

毛生え薬を使った覚えもないし、カツラなど論外でしたね。

一時期、理髪店で丸刈りをしてもらっていましたが、昔と違い性能の良いバリカンが出てきたのでアマゾン通販で購入して、今では、自分でしています。

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本日は、小休止と言うことで、以上です。

次回から、また、宜しくお願いします。

 

 



★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

親鸞日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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神がしない、一つのこと。究極の自己責任!

「神がしない、一つのこと」はなんでしょうか?

神が、最初の人間アダムから今この瞬間の私たち人間に求めていることは、聖書の隅から隅まで学んで分かったことは、誤解を恐れずに言えば、ただ一つです。

「自発的意思によって神を信じること」

これに尽きます。

 

とにかく、神を信じればよいということではなく、「自発的意思」が鍵です。

要するに、神がしない、一つのこと、それは、無理強いして神を信じさせることです。

 

強制的に神を信じさせることを、神は望んでいません。

神が望まれていることは、自発的意思によって信じる者との交流です。

 

私が信じている神は、全能の神(エル・シャダイ)です。

神の辞書に不可能の文字はありません。

天地万物を創造できる神です、その気になれば、人間に神を信じるようにすることは、いとも簡単です。

神ご自身の姿を現す必要はありません。

神の独り子イエス・キリストを地上に遣わす必要もありませんでした。

旧約聖書・伝道者の書3:11の聖句の「人の心に永遠を与えられた」ように、神の力で人間の脳か遺伝子に働きかけて「神を信じる心を植え付ける」ことをすればすむことなのです。

しかし、神はそのことだけはしないのです。

旧約聖書・伝道者の書3:11

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神が求めているのは「自発的意思によって神を信じること」、この一点であると、私は聖書研究をして確信しました。

 

神のご意思を人間レベルのたとえで語るのは不本意ですが、わかりやすくするためにあえて言います。

神は人間との交流を相思相愛の関係にしたいのです。

神は人間に対して、ご自分の愛を押し付けたくないのです。

あなたは、好きでもない異性から言い寄られて、その異性と親密な交流をしたいですか。

答えは明らかでしょう。

 

ある人は「神を信じた人間だけしか救わないのですか。神は愛であると聖書に書いてあるるじゃないか、神を信じない人間も救うのが神の愛でしょう。」と言います。

神を求めない、神を信じようとしない者を無理強いして神のご計画の中に引き込むことは、愛ではありません。

愛に反することだと私は考えます。

 

神のご計画は、人間が自発的意思によって神を信じるのであれば、その人間を「神の御国」へ迎い入れ、いまだ人間が見たことも経験したこともない素晴らしい祝福を与えてくれます(ここで言う、神はイエス・キリストも指します)。

  

神を信じない、神に背を向けて苦難ばかり多い人生で終わってしまうのか。

神を信じて、神の御心に従い、キリストに従い、苦難の多い人生であっても心の平安を得て地上の生を全うし、死後復活し、神の御国で神との交流をするのか。

「自発的意思によって神を信じるのか、信じないのか」これは、すべてに優先する人生最大の問題です。

究極の自己責任です。

 

私の妄想や空想ではありません。

昨日も書いたことですが、聖書を丸ごと信じて聖書研究をすれば、理解できるものと信じます。

 

人は私に意見するかもしれません。

「馬場さん、あなたは死を恐れるあまり、聖書の死後の復活や永遠の命、そして、ありもしない神の御国を信じたいだけなんですよ。永遠の命は、霊魂不滅や心の持ちようを言っているだけのことですよ。目を覚ましたほうがいいですよ。」

否とハッキリ答えます。

 

天地万物の創造主である神が創造された自然界(被造物)を観察し、もっとも身近な人間の体全体が神の恵みにどれほど満たされているかを考えると、神が人間の苦難の多い人生を死で終わらせることなど、どう考えても不合理です。

 

地球自体の現状を観察してもそうです。

神の辞書に不可能の文字がないはずの全能の神が、その気になれば、今この瞬間に地震、洪水などの災害を一掃できるはずなのに、それをしないのは、どう考えても不合理です。

 

したがって、キズついた今の世界(天地万物の被造物)が終わりをつげ(終末)、次の新たな完全な世界(神の御国)を全能の神が用意されると考えることは(聖書全体はこのことを書いている)、極めて合理的であると確信します。

 

私は、聖書を丸ごと信じていますが、信じたいから盲目的に信じているのではありません。

過去から現在までの地球環境と人間の歴史(現実)と聖書を照らし合わせて検討した結果、上記のような結論を出すことが理性的であり合理的であると考えます。

 

最後に「聖書事典(日本基督教団出版局)」から引用します。

「永遠の生命は、単なる霊魂不滅ではない。単なる死後の永生でもない。永遠の生命は、罪人の人間が、キリストとその十字架によって神とともに生きるもの、神の子とされることであり、罪による死からの解放、その死への勝利である。永遠の生命は、まさに死人の復活である。罪によって死んだ人間が、キリストによって甦らされて生きることである(新約聖書・ローマ6:4、コリント第一15:21~22、55~57、コロサイ3:1)。」
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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

親鸞日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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与えたくてしかたがない

昨日のブログでは、5個のパンと2匹の魚を男の人数だけで5000人に与えた聖書のエピソードを引用しました。

著者のルカは、何故、群衆の数を「男だけでおよそ五千人もいたからである」というような書き方をしたのでしょうか(本日初めて当ブログをお読みの方は、まず、昨日のブログをお読みください)。

ここに、私は、聖書の真実を見ます。

作り話デッチ上げであれば、「男女子供合わせて、およそ〇〇人もいたからである」と書けば済むことです。

 

また、「人々はみな、食べて満腹した。そして、余ったパン切れを取り集めると、十二かごあった。」と書かれています。

「人々はみな、食べて満腹した。」と書くだけで十分なはずなのに「そして、余ったパン切れを取り集めると、十二かごあった。」と書き加えているのです。

事実だったから、その通り書いただけのことなのでしょう。

 

ここのエピソードで、私は、神のご性質の一端を感じます。

それは何かと言うと、「神はケチじゃない」と言うことです。

人数分ちょうどのパンと魚を与えたのではないですよね。

パン切れが十二かご分残ったのです。

 

ここのエピソードだけでなく、旧約聖書に出てくる様々なエピソードを読むと神は、食物だけでなく、あふれる程豊富な祝福を人間に与えてくれます。

 

旧約聖書出エジプト記では、エジプトを脱出したイスラエル人が荒れ野にいたとき、イスラエル人はモーセにパンや肉を腹いっぱい食べたいと不平を言いました。

そこで、神は天からマナと呼ばれるパンとウズラ(鳥肉)を豊富に与えます。

旧約聖書出エジプト記16:3~4

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旧約聖書出エジプト記16:31

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旧約聖書出エジプト記16:12~13

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聖書を伝説としてしか捉えていない学者は、マナは自然界で採れる植物であろうと説明します。

そうだとしたら、ウズラもウズラではなく伝説の架空の鳥を登場させて、読者に事実はウズラのことだと読み取らせればよかったのではないでしょうか。

聖書を信じていない人は、事実とは考えず他に解釈を求めるようです。

ただ、私は、このような解釈も歓迎します。

聖書研究の過程では、聖書を事実と認めない解釈があることで、却って聖書の真実をあらためて認識することができるからです。

 

神は、愛する私たち人間に「与えたくて、与えたくて」しかたがないのです。

 

話は変わりますが、動物の生態を紹介するテレビ番組で、敵から自分の身を守るために草原や森の色に似る色(保護色)に進化したとか、堅い甲羅を進化によって身に着けたなどの説明がなされます。

 

もちろん私は進化論なんてものは、議論する余地の全くないものとして、眼中にありません。

 

しかし、私はあることを考えてみました。

不本意ですが仮定として話せば、敵から身を守る最善の進化は、「食べたらマズイ」「食べたら毒によって死ぬ」と敵に認識させることだと思うのです。

わざわざ、何億年もかけて堅い甲羅を身に着けるより、短期間に敵から身を守ることができる効率の良い進化ではないでしょうか。

 

先程も書きましたが、進化論など眼中にない私がここで言いたいのは別にあります。

ステーキは好きですか。

ポークソテーは好きですか。

秋刀魚は好きですか。

何故、こんなに美味しいのでしょうか。

牛刺し、馬刺し、鳥刺し、魚の刺身など生でも美味しいです、生だから美味しいのかもしれません。

我々人間の味覚は、色々な香辛料によって、人間が誕生した時の味覚が徐々に麻痺して食物本来の旨味を味わえなくなっているのかもしれません。

 

ライオンやトラも、ただ、生きるためのエネルギー源としてだけで獲物を食べているのではなく、美味しいと感じて食べているはずです。

また、そのように神は創造されています。

動物には味覚はない、と言う人もいるかもしれません。

しかし、その動物にとって、美味しくないものは一旦口に入れても吐き出しています。

 

様々な種類の動物を観察すると食べることが一生のすべてであると思える程です。

常に食べ物を求めています。

人間だけでなく、ライオンやトラにも味覚があります。

味覚が、もし、なかったらどうでしょうか。

想像もしたくないです。

味覚をさずけてくださった神に感謝します。

 

食物に関して、次の聖句があります。

新約聖書・テモテへの手紙第二4:1~5
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神は「与えたくてしかたがない」のです。

神は与える神です。

奪う神ではありません。

 

今はまだ、神がご計画されている、人間をあらゆる面で豊富に祝福する本来の地球の姿ではありません。

神から権威をさずかったキリスト・イエスが支配する「神の御国」によって実現します。

天におられるキリスト・イエスが「神の御国」を支配するために天から地上に来られることを「再臨」と言います。

これに対して、約2000年前のイエスの誕生の時を「初臨」と言います。

このキリスト・イエスの再臨に向かって、神のご計画は着々と一歩一歩進んでいます。

キリスト・イエスの「再臨」については、別の機会に語ります。

このことは、私の妄想や空想ではありません。

聖書に明確に書かれています。

聖書を丸ごと神の書として受け入れ信じれば容易に理解できることです。

浅知恵で頭の悪い私ですら、聖書を学べば理解できることですから、読者の皆さんが本格的に聖書を学べば、あの時、馬場(HN星周作)がブログで書いていた通りだったと思い出してくれるはずです。

 

カルトの教祖が「私を信じなさい」又は「私の言っていることに間違いはない」、だから「〇〇を購入して、病を癒しなさい、悪霊を除霊しなさい。」と言ったりするようです。

私(馬場)は、私の言っていること(ブログ記事)を信じてくれとは言っていません。

神のメッセージに反する情報を提供しないよう、聖書の記事に沿った情報を皆さんに提供しているつもりです。

私の言葉ではなく、聖書を信じてくださることを願っています。

 

聖書を読めば理解できることですが、神のスタンスが、そもそも、人間に神を信じることを強制していません。

人間が自発的に、創造主の神である父を発見して神の御心に従ってくれることを切に望まれています。

神は忍耐して待っています。

しかし、神の忍耐も、そろそろ終盤に来ているのかも?

 

本日も最後まで読んでいただきありがとうございます。

 

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https://bible-seisho.jimdo.com/



★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

親鸞日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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神の残した痕跡・奇蹟の塊

昨日、ブログをアップして、すぐ外出したのですが、1時間ほどして思い出したことが昨日のテーマとかぶるので、本日取り上げることにしました。

 

まず、新約聖書ルカによる福音書9:10~17をご覧ください。

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5個のパンと2匹の魚を男の数だけで5000人に与えた有名なエピソードです。

 

続いて、クリスチャン作家の曽野綾子の著書「現代に生きる聖書」を引用します。

「たった五つのパンと二匹の魚を、みんなで分けるというと、一人あたりの量はどんな少しだったでしょう。五千人に五つのパンなど、分けることはむしろ不可能です。つまり、リアリズムで言えば、象徴的に分けたにすぎない。ところが、みんなが食べたあとに残ったパン屑と魚が十二の籠にいっぱいになるほどにあった、と言うのです。これについて、大変おもしろい説を立てていらっしゃる神父様がおられます。これは奇跡というよりもきわめてリアリスティックな説明ですが、実は彼らみんな食料を持っていた、と言うのです。これはあり得る話です。村もない、レストランも、物を売っている店もない田舎ですから、だいたいの人が少し遠い所へ行くときは食料を持って出掛けるのが普通でしょう。けれど、人にやるのもくやしいからみんな隠しているわけです。ところが群衆は、イエスの弟子のほうから先に、ほんの少しにせよ実際にパンを分けてもらったので、われもわれもと自分のパンを出した。そこで、あなたどうぞ、僕のもどうぞ、私のも召し上がってください、ということになる。そうすると、五千人がすべて食べて残りが出ても、少しも不思議はないのです。」

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人には、それぞれの捉え方、信じ方があります。

私が、何か注文をつけるつもりは毛頭ありません。

このような捉え方をする人もいるんだという情報を提供したかっただけです。

 

エスは、子どものように信じなさいと繰り返し教えられました。

新約聖書・マルコによる福音書10:15

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私は、イエスの教え、イエスの奇蹟を、子どものように丸ごと信じます。

 

また、イエスは、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と教えられました。

新約聖書・マルコによる福音書12:30

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クリスチャンとして未熟な私が、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、神を愛する」には、どのようにすれば全うすることができるか考えました。

 

私の愛し方が正しいのかどうか分かりません。

もちろん、愛し方に正しいとか間違っているなどはないでしょう。

 

愛するためには、愛する対象の神とイエスを知らなければなりません。

真の神の存在とイエスの存在を教えてくれたものは聖書です。

つまり、愛する対象の神とイエスを知るには聖書を知ることです。

愛するためには、愛する対象を信頼しなければなりません。

信頼するとは、疑わないことでしょう。

疑いながら、信頼することは、できない相談です。

私以外の人の思考回路を知ることは出来ません。

私の思考回路では、聖書のこの箇所は信じられるが、あの箇所は信じられない、しかし、神とイエスを信頼する、などの芸当はできません。

聖書を丸ごと信じることでしか、私は神とイエスを信頼するはできないのです。

 

私自身に命じていることですが、「ゴチャゴチャ言わずに、中途半端に信じるな、丸ごと信じ尽くせ。」と言うことです。

「そうすれば、自ずと結果は出る。要するに神が見ていて下さる」と私自身に言い聞かせています。

 

ところで、事故に遭遇して、足の親指が付け根から切断されたのに、数か月後に再生していたら、どうでしょう、奇蹟でしょうか?

突然、バカな問い掛けをして済みません。

バカついでに、もう一つバカな問い掛けをします。

事故に遭遇した犬のシッポが付け根から切断されたのに、数か月後に再生していたら、どうでしょう、奇蹟でしょうか?

 

この2つのバカな問い掛けと似たようなことが現実に起こっています。

 

中学生の頃、昼休みに運動場でサッカーをしているときに、ボールを蹴らずに地面を蹴ってしまったことがあります。

これは仮定の話ではなく事実です。

足の親指の爪の下全体に血豆ができ、数日後、爪がグラグラして根元からポロッと抜け落ちてしまいました。

生まれて初めての経験だったので、親指の爪とは永久におさらばと思っていました。

しかし、何日後かは昔のことでよく思い出せませんが、復活したのです。

永久におさらばと思っていた親指の爪が、復活したのです。

これは、当たり前ですか。

 

エル・シャダイ(全能の神)を信じた私は、誰が何と言おうと断言します。

神の御業である、神の奇蹟を目の当たりにしたと宣言します。

 

幼い頃、縁側の下でトカゲをよく見かけました。

捕まえようと触ると、シッポが切れて逃げて行くのを何度も見ました。

もう、私が何を言わんとしているか分かりますね。

ネットで確認すると、トカゲのシッポが切れても、1箇月程で復活するようです。

犬のシッポは、切れても復活しないのは、創造主の神が復活するようにしなかっただけのことです。

 

神は、私たちが目にするいたるところで、人間に見る目があれば、ご自分の御業が見えるように自然界のすべてに痕跡を残しておられます。

 

エスを信じた者が、死後に復活し、神の御国に入ることができることを、自然界に神が残された復活の痕跡を目の当たりにする経験によって、私は信じることができます。

 

何度かブログで書いてきました。

擦り傷がいつの間にか治っていることは、神の御業、奇蹟です。

 

足の爪先から頭のてっぺんまで、体の隅から隅まで、要するに体全体が奇蹟の塊だと思っています。

 

自然界に毎日奇蹟を目の当たりにしている私にとって、5個のパンと2匹の魚を5000人に与えた奇蹟などは不思議でもなんでもありません。

 

新約聖書・マタイによる福音書12:38~39にあるように、イエスはパリサイ人に言われました。
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新たなしるし(奇蹟)は、私には必要ありません。

 

ある宗教書を読むと、その著者は、神の声を聞いたとか、神が夢の中に出てきて啓示を受けたと書いています。

また、テレビ番組で、そのようなことをいう人が出て来たりします。

真偽は別にして、今の私には、どうでもいいことであり、興味のないことです。

ほとんどは、自己の利益を図るために、人を欺き、自分自身を欺き、真の神を欺き、真の神の栄光を汚しているのです。

 

真の神の声が、私自身に語りかけてくれば、もちろん、どうでもいいことではありません。

しかし、今、この瞬間、私自身を含めた自然界(被造物)に神が残された痕跡(奇蹟)だけで、私は充分満足です。

 

人形の髪が伸びたとか、人形が涙を流したのを見たとか言って、それを神の奇蹟だとして、その人形を祀り拝む人たちもいるようです。

たとえ、私の目の前で、実際に人形の髪が徐々に伸びたり、目から涙を流してても、その事実を認めたとしても、神の奇蹟とは絶対に認めません。

なぜなら、真の神は、絶対にそんな馬鹿げたチャチなことで、ご自分の栄光を汚すようなことはなさらないからです。

聖書の中に記されている神とイエスが示された様々な奇蹟(しるし)は、神の栄光を現すものです。

人形の目から涙が流れる、マリア像の目から涙が流れるなどは、神の奇蹟では絶対ありません。

それを神の奇蹟として信じることは神の栄光を汚すことです。

 サタンが人間を惑わす行為なのです。

 

本日も長い文章になってしまいました。

最後まで、私の独り言を読んでいただきありがとうございます。

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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

親鸞日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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丸ごと

20代後半に、ある出来事をキッカケに苦悩し、その苦悩から抜け出る道を求めてキリスト教に関心を示したことがあります。

いきなり、聖書というわけではなく、キリスト教を信じている人はキリスト教のどのようなところに惹かれ信じているのかを知りたくて、ファンでもある遠藤周作の本を買って読んでみたのです。

 

昨年、アメリカのマーティン・スコセッシ監督による「沈黙-サイレンス-」が公開されましたが、その「沈黙」を含め遠藤周作キリスト教関連本は、当時、すべて読んだのではないでしょうか。

 

昨日引用した「イエスの生涯」の別の2箇所を引用します。

<一つ目>

「聖書のなかにはあまたイエスと見棄てられたこれらの人間との物語が出てくる。形式は二つあって、一つはイエスが彼等の病気を奇蹟によって治されたという所謂『奇蹟物語』であり、奇蹟を行うというよりは彼等のみじめな苦しみを分ちあわれた『慰めの物語』である。だが聖書のこの二種類の話のうち、『慰めの物語』のほうが『奇蹟物語』よりはるかにリアリティを持っているのはなぜだろう。『奇蹟物語』よりも『慰めの物語』のほうがはるかにイエスの姿が生き生きと描かれ、その状況が眼に見えるようなのはなぜだろう。」

 

30年以上前のことですから、ここを読んだ当時のことを明確に覚えていたわけではもちろんありません。

恐らく、反発を持つことはなく、そういうものかと何となく納得したのでしょう。

 

<二つ目>

「『慰めの物語』が『奇蹟物語』よりリアリティをもって我々に迫るのは、『奇蹟物語』がガリラヤ地方に残っていたエス伝説を集めて書かれているのにたいし、前者はおそらく目撃者の弟子の記憶に生々しくあったものをそのまま使っているためではないだろうか。」

 

この箇所も、当時どのように私が感じたか明確に覚えていたわけではありませんが、遠藤周作はイエスの奇蹟が伝説であって、事実あったこととして信じていないんだと当然読み取ったわけです。

そして、遠藤周作以外のクリスチャンを知らない当時の私は、クリスチャン全部がこのように奇蹟を伝説として捉えているんだと、明確な記憶ではありませんが、思い込んだのです。

 

今、ここを読み直してみると、おかしな点を発見します。

聖書の『奇蹟物語』を伝説だとして聖書の記事をそのまま事実として受け取らない一方、『慰めの物語』の方は「目撃者の弟子の記憶に生々しくあったものをそのまま使っているため」と書いている論理です。

何故、遠藤周作は『奇蹟物語』も「目撃者の弟子の記憶に生々しくあったもの」つまり事実として受け取らなかったのでしょうか。

 

続いて、「イエスの生涯」の次の作品として書かれた「キリストの誕生」の一部を引用します。

「・・・・・以上が私の『イエスの生涯』の縦糸だが、この本が一部のキリスト教信者の顰蹙(ひんしゅく)をかい、批判をうけたのは、私がイエスの現世的な人間像を『無力な人』として書いたためである。そしてまた聖書に語られているイエスの奇蹟物語を彼の愛の行為や復活の意味よりは重視しなかったためであろう。だが私のこの考えは今日も変っておらぬ。イエスは大衆の地上的メシヤとしての期待を裏切ったから、彼等の眼には無力な存在に映ったのである。」

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結局20代後半の当時の私は、遠藤周作の本からは、真の神を見いだすことが出来ず、イエスが救い主キリストであることを発見することも出来ませんでした。

 

ハッキリ言って、遠藤周作が聖書の何を信じているのか、イエスの何を信じているのか、神そのものを本当に信じているのかが、彼の一連のキリスト関連本からは読み取ることができなかったのです。

 

これが神だ、このイエスが救い主キリストだ、だから私(遠藤)は信じているという強いメッセージがなく私の心に訴えて来なかったのです。

 

したがって、聖書自体を読む意欲がわくことも当然ありませんでした。

 

遠藤周作の本から、私が、神とキリストを感じることができなかった原因が何か、今はハッキリわかります。

 

遠藤周作の本だけではありません、一般書店で売られているキリスト教関連本(マザーテレサの本など)ではキリスト教の愛ばかりが強調され、私たち人間が天地万物の創造主の神から創造された被造物の人間であるということが、明確に主張されていないのです。

次に、イエス・キリストの示された愛(遠藤周作のいう「慰めの物語」)は、キリスト教の重要な要素ですが、イエスが行った「奇蹟」は同等ないし同等以上のものであると今の私は考えています。

エスが行った「奇蹟」を事実として、明確に認識する必要があると考えます。

 

下記の私がイエスに会えたと仮定しての小話をご覧ください。

「イエス様、山上の垂訓のお話しをされたのは事実ですか?」と私が問うと、イエスは「そうだよ」とやさしく答えてくれました。

次に「イエス様、湖の上を歩かれたのは本当ですか。ラザロを復活させたのは本当ですか?」と私が聞くと、イエスは「湖を歩いたなんて誰が言ったんだ。そんなことできるわけないだろう。この私が死んだラザロを復活させたって、冗談はよせ。」と答えられました。

このように聖書に書かれていたら、イエスが行った奇蹟を作り話、デッチ上げと批判する人たちは納得するのでしょうか。

聖書に書かれているイエスの病人や盲人の癒しをイエスの力や神の力ではなくて、ある「特効薬」を飲ますことによって癒したと書いていたら聖書を信じるのでしょうか。

「特効薬」を飲ますことによって癒したなどと聖書に書いていたら、それは人間の業であって、聖書を神の書と誰も認めず、誰も読むこともなく捨てられるたことでしょう。

 

奇蹟がないとしたら、苦難に喘ぐ私たち人間をどのように救うというのでしょうか。

 

もはや、イエスは、救い主キリスト・メシアでもなんでもなく、人格が高潔であるが、私たち人間と同じただの人間ということになります。

 

「奇蹟」は、聖書が神の書であることの最重要の要素です。

 

奇蹟以外の聖書箇所の中で、人間的知恵では判断のつかない箇所もないではありませんが、浅はかな人間の知恵を遥かに凌駕する神とイエスを信頼して、聖書の記事を私は「丸ごと」受け入れます。

 

丸ごと」信じます。

 

9月9日(土)のブログ「理性的、合理的」でJ・I・パッカーの著作を引用したように、盲目的ではなく、「理性的に丸ごと」信じます。

 

私が信じる聖書に掲示された神は、商売繁盛の神、交通安全の神などそんじょそこら辺にいる神ではありません。

 

私の信じている神は「命の源である天地万物の創造主」である「全知全能の神」なのです。

 

<ことわり>

遠藤周作という作家は、中学校までは教科書以外の本をほとんど読まなかった私が、高校生になって本好きになるキッカケ(狐狸庵先生シリーズ)をくれた大切な作家です。

今でも大ファンです。

 

本日も長い文章になってしまいました。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

親鸞日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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