互いに愛し合いなさい
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
さらに、このヨハネの福音書13章34節の文語訳を引用します。
「われ新しき戒めをなんじらに与う。すなわちなんじら相愛すべしとのこれなり。わがなんじらを愛するごとくなんじらも相愛すべし。」
イエスが弟子たちに語った有名な言葉ですが、「互いに愛し合いなさい。」「相愛すべし」、何と重い言葉でしょうか。
愛の乏しい私にとって極めて重い言葉なのです。
ですから、私が愛とは何かを語ることなどできるものではありません。
この聖句について、私の敬愛する内村鑑三が深い洞察によって興味深いことを書いています。
文語調で読みづらいとは思いますが、そのまま引用します。
「ここにキリストはその弟子たちに新しき戒めを与えたまいしとあります。そうしてその戒めとは、なんじら相愛すべしとのことであるとあります。しかしながら、私どもにわからないことは、なんじら相愛すべしとの戒めは、はたして新しい戒めであるか、そのことであります。旧約聖書レビ記19章18節を見ますれば、こう書いてあります。すなわち
『なんじ、あだを返すべからず、なんじの民の人々にむかいて恨みをいだくべからず。おのれのごとくなんじの隣を愛すべし』
と。かくもすでにモーセによりて与えられし戒めは決して新しい戒めではないはずであります。キリストもまた一人の教法師に答えて、モーセの律法の中で最も大なるものの第二は、おのれのごとくなんじの隣を愛すべしということであると述べられました(マタイの福音書22:39)。ゆえになんじら相愛すべしとの戒めをもって、キリストがその弟子に与えたまいし新しき戒めであるとは、どう見てもわかりません。
ゆえにここに聖書の誤解がなくてはなりません。あるいは誤訳がなくてはなりません。そうして少しく原文に照らして見ますると、その誤訳であることがわかると思います。『与う』の下に句切りをつけたのがそもそも誤解の始めであると思います。新しき戒めとは、34節全体にわたるべきものであると思います。
いまギルシャ文にしたがって、言葉なりにこれを直訳しますれば、こうなろうと思います。すなわち
『なんじらもまた相愛せんがためになんじらを愛せしごとくなんじら相愛すべし。これわがなんじらに与う新しき戒めなり』
普通の日本訳に『わがなんじらを愛するごとく』とあるのは、どうしても『愛せしごとく』でなくてはなりません。
さて、こう改訳しまして、その意味はこれを探るに難しくありません。キリストがここに与えたまいし、なんじら相愛すべしとの戒めの新しきわけは、その愛の性質に存します。単に相愛すべしとのことではありません。わがなんじらを愛せしごとく相愛すべしとのことであります。キリストが在世中、弟子たちの模範とならんために彼らを愛したまいしごとく、そのごとく、またはそれと同じ性質の愛をもって、彼ら互いに相愛すべしとのことであります。そうしてキリストの愛が一種特別、世のいまだ知らざりし愛であったことは、われらキリスト信者にはよくわかります。キリストの愛そのものが新しい愛でありましたから、この愛をもって相愛すべしとの戒めは新しい戒めでなくてはなりません。」
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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・天地万物の創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。