人間の考えと創造主(神)の御心
主イエス・キリストを信じていないA・B・Cの三人は、それぞれ心の中で「神が愛なら、こんなこと(戦争、災害、病、障害など)を許すはずがない。」と思っています。
しかし、A・B・Cの考える「愛」の定義にはかなりの違いがあるようです。
創造主(神)は、この三人の機嫌を窺うために創造主(神)が定めておられる「愛」を曲げて、この三人それぞれが主張する愛の希望に沿うように行動しなければならないのでしょうか。
この三人の一時的な非難を避けるために創造主(神)が天地万物の創造の初めからご計画されている人類救済計画を放棄しなければならないのでしょうか。
「愛」が何であるかは創造主(神)が定められるのであって、被造物の人間が定めるべきものではありません。
主イエス・キリストを信じる者が救われる人類救済計画は必ず実現します。
ここで、内村鑑三の言葉を引用します。
「我(人間)が思うところはつねに神の見るところと異なる。」
「人間は幸福になるために生まれてきた。だから、あなたも幸福になる権利がある。」という言葉を耳にすることがあります。
誰もこの言葉に反論しない?でしょう?
しかし私は聖書を学ぶ前からこの言葉に素直に頷くことは出来ないでいました。
何故、この言葉に疑問を持っていたのか、具体的な答えをもっていたわけではありませんでしたが、違和感だけはいつも持っていたのです。
この疑問と違和感が聖書を学ぶようになって初めてわかりました。
聖書のどこにも「人間は幸福になるために生まれてきた。」などとは書いていないのです。
真理の書である聖書に書いていないということはどういうことでしょうか。
つまり、人間にとって最重要ではないということなのかもしれません。
聖書に書いていること、つまり、創造主(神)の望まれることは「聖」であるキリストのようになることであり(レビ記14:44~45)、マルコの福音書に書かれているキリストの次の言葉です。
マルコの福音書12:28~31
敢えて言えば、創造主(神)の御心に従うことが、結局、人間にとっての「幸福」なのではないでしょうか。
もちろん、人間が幸福になることを願うのはごく自然な感情であり何ら問題ないのですが、創造主(神)に背を向けた(主イエス・キリストを信じない)状態で幸福を人生の目的とすることに問題があるのです。
人間は「幸福」になることを目指すのではなく、「キリスト」のようになることを目指すべきなのです(このことが全くできていない私です。自戒を込めて)。
キリストが語った次の聖書箇所をご覧ください。
この聖句に関して、内村鑑三は次のように言っています。
「幸福は人生最大の獲物ではない。義務は幸福にまさりてさらに貴くある。義務のゆえにわれらはたびたび幸福をすてざるを得ない。しかして義務のためにわれらのこうむる損失は損失ではないのである。・・・中略・・・人生は犠牲である。犠牲なくして人生は無意味である。幸福は人生の目的ではない。犠牲こそ人生の華(はな)なれである。」
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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・天地万物の創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。