霊的119番
私自身をことさらに卑下するつもりはありませんが、正直、隣人に対して特別優しい人間ではなく、愛に乏しい人間です(だからこそ、キリストに従う必要のある人間なのです。)。
警察に捕まるような罪を犯したことはありませんが(スピード違反や駐車違反は別にして)、私自身の内面と向き合ってみれば、私自身が(聖書的には)罪人であることを認識せずにはいられません。
しかし、「自分自身のことを聖人君子とは決して思わないけれど、特別、悪いことをした覚えはなく、それなりに隣人に対して優しくしているので、私には罪はない。私は罪人ではない。」と思っている人が世の中にはいるようです。
ここで、ヨハネの手紙第一1章8節及び9節を引用します。
・8節
「もし、自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」
・9節
「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」
9節は有名で重要な聖句ですが、「第一・1章9節」の数字から「119番」と覚えることができます。
すなわち「霊的119番」です。
上記の聖句について私の敬愛する内村鑑三は次のように著書に書いています。
「人がその肉体に宿る間は、何びとたりとも全然罪を離れることはできない。
その信仰いかに熱烈なるとも、これによりて全然罪を取り去ることはできない。
人のなし得る事は、罪をいいあらわして神にこれをゆるしていただく事である。
さらば彼はすべての不義より潔められるのである。
不義よりである。罪よりではない。
今日までに犯せし悪しき行為より潔められて、罪なき者として取り扱われるのである。
論より証拠である。今や罪なしという者も依然として罪を犯すのである。
真の信仰は、今日ただちに全然罪なきに至る事ではない。
罪を自覚し、これを神の前にいいあらわし、衷心より謙遜なる人となりて、最終の救いを待ち望む事である。
聖ヨハネのことばは簡単にして峻厳である。」
イエス・キリストは人の心の中にある「ねたみ、高慢」なども悪(罪)と言われました。
マルコの福音書7:20~23を引用します。
「イエスはまた言われた。『人から出て来るもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。』」
「私には罪はない。私は罪人ではない。」と思っている人の心の中に「ねたみや誇り高ぶり(高慢)」がないと言えるのでしょうか。
人の心の中を見通すことの出来る神は、全てご存知です。
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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・天地万物の創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。