「救い」とは
突然ですが、ドラキュラ映画の話です。
私が小・中学生の1960年代~1970年代にアメリカのドラキュラ映画がよくテレビ放送されていました。
そんなドラキュラ映画の中の一本で、不死身のドラキュラが不死の命を持っているために永遠に生き続けなければならないことに苦しみ、死を望むというストーリーの映画があったように記憶しています。
死を切実な問題だと考えもしないし、ましてや永遠のいのちなど考えることすら思い浮かばない年齢の私でしたが、このテレビ放送をキッカケに永遠のいのちというものが私の心の奥底に置かれることになったような気がします。
ところで、私の世代の人間が知っているドラキュラ俳優と言えばクリストファー・リーであり、ドラキュラ退治をするヴァン・ヘルシング博士と言えばピーター・カッシングです。
当ブログをご覧いただいている皆さんが知っているヴァン・ヘルシング役の俳優はヒュー・ジャックマンでしょうね。
このブログを書きながら思い出しました、クリストファー・リーもピーター・カッシングもスターウォーズに出演していました。
さて、本日のテーマに入ります。
この世界で生きる私たち人間は、日々他人とのあらゆる苛酷な競争(仕事、スポーツ、受験など)によって肉体的にも精神的に疲れながら、そして、あらゆる病に侵されながら生涯を送り、あらゆる犯罪の被害者になるだけでなく、故意過失の違いはあっても自分自身が加害者(高齢者の運転ミスによる交通事故など)になったりすることもあるかもしれません。
人によっては一時的に平和で幸福な時間を過ごすことが出来ている人もいるでしょう、しかし、大多数の人間は、苦難の生涯を送っていることは間違いない事実ではないでしょうか。
私は、聖書を学ぶことによって、幸いにも主イエス・キリストを信じ「死者の復活と永遠のいのち」に希望を持つことができるようになりました。
しかし、私が近い将来死んで復活して永遠に生きる世界が、今のこの同じ世界だとしたらどうでしょうか。
苛酷な競争にさらされながら、あらゆる病にも侵されながら千年、二千年、三千年と生き続けるうちに、冒頭に書いた不死身のドラキュラのように、苦しみに満ちたこの世界で永遠に生き続けることを終わらせたいと望むようになるでしょう。
私たち人間の罪深い性質が除かれないままに、永遠に生き続けることは苦痛であり、生き地獄になりかねません。
苦難に満ちた人間の歴史は、人間が救われることを求めて来た歴史でもあったような気もします。
アニメのヒーロのような超人的な力を持つ者が現われて、我々人間を助けてくれても根本的な救いになるはずもなく、ゴッドハンドと呼ばれる医者に病を治療してもらっても近い将来死に至るのであれば根本的な救いにもならないでしょう。
我々人間が救われるためには、人間の罪の性質が除かれなければ、永遠に生き続けることは苦痛でしかありません。
また、罪が除かれただけで永遠に生き続けることが出来なければ、救いが完成したとは言えないでしょう。
いつものように内村鑑三の著書から引用(一部要約)します。
「救いは、その一面においては罪の消滅である。他の一面においては生命の供給である。前者は一時的であって、後者は永久的である。聖書の言葉をもって言えば、われらはまずわれらの(神に対する)『反逆』を癒されなければならない。これがいわゆる贖罪(しょくざい)である。罪は死に価するものであるがゆえに、われら、罪より救われんと欲すれば、自身死に当たるか、しからざれば、ある他の者がわれらに代わって死の苦痛をなめなければならない。しかしながら救いはこれだけにては成就しない。死をまぬがれし罪人はさらに義とせられなければならない。すなわち正義の生命の供給を受けて、自身義人とならなければならない。医術の言葉をもって言えば、患者は第一に、病根を取り除かれなければならない。第二に、これに続いて滋養物の注入によって生活力を加えられなければならない。しかして『血を流す』は、罪を除くために必要であって、『血を注ぐ』は新生命を注入するために必要である。キリストの施されし救いにもまたこの両面があった。彼は血を流して、彼を信ずる者の罪を除きたもうた。彼はまた彼らの上に彼の血を注ぎたもうて、彼らを永久に生かしたもう。十字架の血によりて、民をあがないたまい、彼より流れ出づる血によりて、彼らに永生を与えたもう。」
ヨハネの手紙第一1:7
私が信じることができた聖書は、人間の(百八つの)煩悩などを教えたり、この世の御利益(ごりやく)を与えるとする偽りの神(神社仏閣などを含むあらゆる宗教)とは全く異なります。
主イエス・キリストの血によって罪が贖われ、主イエス・キリストの血によって永遠のいのちを持つ、これが「真理」です。
「真理」は天地万物を創造された御方から出て来るものです。
天地万物の創造主(神)から出ていない「ことば」(別の言い方をすれば「宗教」)に「真理」があるはずもありません。
イエス・キリストは三位一体の第二位格の創造主(神)であるからこそ「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)と言えることができたのです。
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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・天地万物の創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。