聖書の矛盾? 聖書は作り話?(最終回)
(その⑨)の続き。
突然ですが、「デカンショ~デカンショ~で半年暮らす、あとの半年は寝て暮らす、ヨォーイ・ヨォーイ、デカンショ」という歌詞の「デカンショ節」をご存知ですか。
デカンショの意味には、いくつかの説があるようですが、私が知っている意味は、哲学者のデカルト、カント、ショウペンハウエルの最初の文字を取ったという説です。
私の青臭く悩める十代後半に、充分に理解もできないくせに内外の哲学書をよく読みました。
中でも、ショウペンハウエルの著作を好んで読んだ記憶がありますが、今の私の頭に思い浮かぶのは、ショウペンハウエルの言葉ではなく、多くの人も知っているはずのデカルトの「コギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)」ぐらいですね(笑)。
さて、本日のテーマに入ります。
反キリスト(アンチクリスト)の人たちや聖書を作り話と主張する人たちの中には、キリスト教はイエスの教えではなく、パウロがイエスの思想を捻じ曲げて作った宗教だと言います。
本日は、上記のデカンショ以外の哲学者で「ツァラトゥストラはかく語りき」の著書で有名なニーチェ(1844年~1900年)を取り上げます。
まず、ニーチェの著書「アンチクリスト」の一文を引用します。
「ユダヤ教から離れたキリスト者の小さな宗派運動を利用して、世界を焼き払ってしまおうと。『十字架にかけられた神』というお話を使って、人々をダマしてやろうと。ローマ帝国の中で、ねじ伏せられている下層民、反乱を起こしたがっている連中、陰謀を持っている無政府主義者など、すべてのものの巨大な力を利用してやろうと。『救いはユダヤ人から来る』(ヨハネ4:22)とは、よく言ったものです。パウロはあらゆる種類の地下的な礼拝を利用したのです。頭がいいというか、ずる賢いというか。パウロはそういった概念によって、真理を攻撃し、『救い主』をでっちあげて、自分に都合のいいことを語らせたのです。パウロは気づいてしまったのです。『この世』を無価値にするためには、『不死の信仰』が必要であることを。そして『地獄』という概念を使えば、ローマを支配することができることを。『あの世』を使って人々をおどせば、この世界をつぶすことができることを。」
このニーチェの主張は、無神論者や反キリストの人たちにとって、拍手喝采というところでしょう。
しかし、パウロの経歴を考えれば、ニーチェが主張するような『救い主』『不死の信仰(永遠のいのち)』『地獄』などをでっちあげる必要性はないはずです。
パウロ(別名サウロ)はユダヤの地ではなく、小アジア(今のトルコ)のタルソ(アレキサンドリアと並ぶ学術都市)で生まれたユダヤ人でした。
おそらく両親が熱心なユダヤ教徒だったと思われますが、パウロはエルサレムで育てられ、当時、ユダヤ教最高のラビ(ユダヤ教の教師)のガマリエルの薫陶を受けます(使徒22:3)。
なお、パウロは「律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義について非難されるところのない者です。」(ピリピ3:5~6)と自分自身のことを語り、「男も女も縛って牢に投じ、死にまで至らせのです。」とも言っています(使徒22:4)。
ユダヤ人であったパウロですが、「生まれながらのローマ市民」(使徒22:28)でもあり、地位も財産もある家庭の生まれでなければ、与えられない特権です。
ユダヤ人として誰もが羨む裕福な家に生まれ、ローマ市民権もあり、最高の教育を受けてユダヤ教徒として将来を約束されたパウロです。
好き好んで、その恵まれた環境及び地位を捨てて、ニーチェが主張するような
『救い主』『不死の信仰(永遠のいのち)』『地獄』などのウソをでっちあげる必要性は全くないのです。
パリサイ派の人間として重要な地位もあったのですから、それを投げ打って、裏切者として新興宗教をつくり上げる必要性も必然性も考えられません。
すべては、イエスの「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」(使徒22:7)という声を聞き、そして、イエスから「行きなさい。わたしはあなたを遠く、異邦人に遣わす。」(使徒22:21)と言われてから、劇的にパウロの進むべき道が変ったのです。
次の聖書箇所をご覧ください。
使徒の働き20:24
<注> 「私」とはパウロのことです。
使徒の働き20:33~35
コリント人への手紙第二11:23~25
これらの聖句から分かるように、パウロは金儲けのためではなく、(天幕作りの)仕事をしながら、ある時は牢に入れられ、むちを打たれ、石を打たれてもなお命がけで伝道したのです。
ウソ、でっち上げの教義をつくり上げて伝道し、金儲けでもなんでもないのに、わざわざ、迫害に遭い、最後には殉教の死を遂げるバカがどこにいるのでしょうか。
人間は、ウソのために命を投げ出すことなど断じて出来ません。
思い出すだけでも腹立たしい地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教ですが、信者の弟子は、教団の教義を心底信じて命がけで信仰していたはずが、教祖の麻原彰晃は、ウソ、でっち上げの教義をつくり上げた張本人ですから、当然その教義に命をかけることができません。
その証拠に、私の記憶違いじゃないはずですが、逮捕されても、実行部隊の弟子にさせたことを己の命令でさせたと証言するわけでもなく、ただ命が惜しいばかりで徹底した黙秘権を行使したのではなかったでしょうか。
パウロだけでなく、他のイエスの使徒たちも、ウソ、でっち上げの教義のために命をかけたのではなく、「神の恵みの福音」の「真実」を命がけで伝道したのです。
ニーチェ同様に、聖書に書かれている内容を独自に解釈して、パウロは性的不能者、女性蔑視者、権力迎合者、奴隷肯定者などと激しくパウロを攻撃する人たちもいます。
これらのパウロへのいわれのない攻撃に対して、「被告パウロを弁護する(仮称)」というテーマで別の機会にブログで取り上げ、私なりにパウロを弁護したいと思います。
↓ ↓ 聖書の他の重要なテーマについてはこちらを参照してください。
https://bible-seisho.jimdo.com/
★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・天地万物の創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。