星 周作 Blog

★ 福岡より〇〇をこめて  ★

新しい世界へのいざない

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今から30数年前の20代後半の時、神の存在をうすうす感じていたけれど聖書自体をまだ読むことはなく、クリスチャン作家の三浦綾子さんの本を好んで読んでいました。

本日は、その三浦綾子さんの著書「ちいろば先生物語」を読んで知った「ちいろば」の愛称で知られる榎本保郎牧師(1925年~1977年)の著書から引用します。

 

「『こころの貧しい人たちは、さいわいである(マタイの福音書5章3節)』

(マタイの福音書)5、6、7の各章は、いわゆる山上の垂訓と言われているもので、イエスが伝道を始められたときに、これからもたらされる世界の憲法というか、そういうものを語られた言葉が記されている。

3節から言われていることは、私たちの考え方とはおよそ逆説的なものである。貧しい者が幸いであるということはこの世ではありえないことであり、富んでいる者が幸いであって、貧乏人は不幸なのである。それはこの世の道理である。悲しんでいる者よりも、喜んでいる者が幸いなのであり、強い者が地を継ぐのであって、弱い者や柔和な者はいつも放置される。憐れみ深いようなことをしていたら人生の落後者になってしまうし、心の清いということも、この世では通用しないものになってきた。

ところが、イエスが来られることによって、貧しい人が幸いになる世界がもたらされた。なぜそうなるかということは、私たちのレベルで考えてもわからないが、イエスがもたらされた新しい世界がどんなものであるかが書かれている。

『昔の人々に「殺すな。殺す者は裁判を受けなければならない」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う』(マタイ5:21~22)とあって、昔はこれが道徳、道理として言われていたが、イエスはそうではなく、新しい世界のことを語っておられる。イエスは旧約の世界とイエスが来られて始められる新約の世界の違いを、このところではっきりと言われておられる。

エスの誕生日を12月25日にしているが、それはローマ帝国冬至の日を誕生日に選んだのである。冬至の日というのは、これからだんだんと日が長くなっていく太陽の祭の日である。イエスが来られることにより、闇の世界が終って光の世界がやってくるということで冬至の日にしたのである。

貧乏人がいつまでも不幸な生活をしなければならない世界にあって、幸いであるという光がもたらされた。新しい世界は、イエスという光が来ることによって知らされる、この世では理解できない世界である。山上の垂訓は、イエスを除いては理解できないものである。たとえば、『こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである』とあるが、これは、イエスが心の貧しい人のところを選んで行かれるから、その人たちは幸いなのである。

エスは、だれも相手にしてくれず、自分はだめだと絶望している人のところへ行って友達になってくださる。罪を犯しているからどうしようもないというその罪を、イエスは引き受けてくださる。悲しんでいる人をさがし求めてその人のところへ行かれる。だから、イエスに出会ってイエスからの慰めが与えられるのである。不公平なようであるが、イエスは悲しんでいる人を求めていかれるのである。

義に飢え渇いている人、柔和な人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を作り出す人、義のために迫害されてきた人たちもみなそうである。こういう人たちを、イエスが尋ねていかれるから幸いなのである。

もし、私たちがイエスに出会い、イエスの言葉を聞き、手にふれ、足にふれようと思うなら、ここに書かれているような人となり、そういう生活をしていかねばならない。

富める青年が、ある日イエスのところに来て、『どんなに一生懸命がんばっても、自分は永遠の生命を得ることができない。何か足りない。安心できない。どうしたらあなたのように永遠の生命に生かされるという確かさを持つことができるのですか』と尋ねた。それに対してイエスは、『あなたの持ち物が、それを邪魔している』と言われた。貧しくなるために持ち物をみな人にあげたらよい、そうしたら永遠の生命をうけることができるというのである。

私が京都にいたとき、ある画家と知り合いになった。その人は人間的にもりっぱで、生活もきちょうめんな人であった。熱心に教会へ来て、聖書研究会にも通い、信仰を求めておられた。あるとき私が洗礼を受けてはどうかと言った。すると彼は、『そうしたいのだが、何十代もつづいる位牌を守っていかねばならず、自分が信者になっては先祖を守ることができない』と言われた。先祖の遺産を持ち、生活も安定しているのだから、幸せな人だと思う。しかし、これが本物だ、真実なものだとわかったら、そのためにはいっさいのものを捨てていく情熱が、信仰には必要である。

エスは、自分の目が罪を犯させるなら、目をくりぬけ!片目でもよいではないか。五体満足で地獄へ行くよりも、片目で天国へ行ったほうがよいではないかと言われた。問題は、私たちがどこまで本気で地獄とか天国というものを信じているか、どこまでほんとうに神を信じているかということである。神の言葉を『もてあそぶ』ようなことをしていては、イエスと出会うことはできない。あなたのためにこれもあれも捨てます、片目を失ってもがまんしますというほどに神を慕い、イエスを慕ってこそ、イエスに出会うことができる。

そこに私たちが貧しくなっていく世界がある。山上の垂訓は、逆説を逆説でないもののように説いていくのではなく、イエスがそういう人のところへ来られたのだというように解釈すれば解けてくるのである。」

 

<参照聖句>

マタイの福音書5章1節~10節(口語訳聖書)

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最後までご覧いただきありがとうございます。

 

一人でも多くの人が一日でも早く聖書を学ぶことによって主イエス・キリストが開かれた新しき世界の奥義を知ることを願っています。

 

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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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