人間の幸・不幸
人間は勝手なもので、自分の仕事が順調で家庭も円満で、何の悩みもなく幸せな時は、神の「か」の字も頭に思い浮かぶことはないのに、自分が不幸のどん底に落ちると神に助けを願い祈るけれど、祈りが叶わないと「この世に神などいない」と心のうちで叫びます。
神という存在は、人間の「幸」「不幸」の状況に左右されて、神が現われたり、消えたりするものなのでしょうか。
ここで、マタイの福音書11:2~6を引用します。
上記の聖句について、イギリスの牧師フレデリック・B・マイヤー(1847年~1929年)は次のように語っています。
「バプテスマのヨハネは、キリストにつまずきかけていました。なぜなら、イエスは、いっこうにメシア(救い主)であると宣言されず、その先駆者である私が獄中につながれているのに、救いの手を差し伸べてくださらない。
はたして、これが真のメシアであろうか、と。
私たちにも、折々このような疑念が広がって来る時があります。
もし本当に私を愛してくださっているなら、どうして主(神)はこの苦境から私を助け出してくださらないのか、慰めのしるし(奇蹟)らしいことも無いのは、私を無視しておられる証拠ではないだろうか。
イエスは本当に救い主なのだろうか、と。
しかし、主は弁解もされず、ヨハネに助け手を差し伸べることもなく、ただ盲人が見、足なえが歩き、死人が生き返り、貧しい者には福音がのべ伝えられているという事実を示されただけでした。
あたかも『たとえあなたを獄中から助け出さなくとも、わたしがメシアであることを信ずるか』と言われるかのように。
自分の幸・不幸の具合で、メシアを疑い、つまずく者はいまだし、いまだしなのです。」
・・・・・
私たち人間は、自分の幸・不幸の具合で、神の存在を認めたり、否定したりすることがあるようです。
皆さんはどうですか。
聖書が啓示する天地万物を創造された唯一まことの神は、人間の幸・不幸や思惑に関係なく、間違いなく存在する御方です。
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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・天地万物の創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。