星 周作 Blog

★ 福岡より〇〇をこめて  ★

安息日

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私は何れの教会にも属さない無教会のキリスト者(クリスチャン)であって、カトリックプロテスタントの信徒ではありませんが、本日のブログは、安息日について、カトリック信徒の作家の曽野綾子さんの著書「現代に生きる聖書」から引用します。

 

・・・ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている。」と言った(マタイの福音書)12:1~2)。

麦の穂を摘んで食べるというような一見ささやかなことが、大きな問題とされたのは、安息日には働いてはいけないというユダヤ教の戒律があったからです。

安息日(シャバット)は旧約聖書『創世記2章2節』の「第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった」という部分に由来し、「十戒」のなかにも入っている、ユダヤ人の守るべき基本戒律。具体的には、金曜日の日没から土曜日の日没まで、一切の労働をしてはいけないのです。

この戒律は、もちろん今でも厳しく守られています。現代風に言えば、まずボタンを押してはいけないのです。ボタンを押したりスイッチを入れることは労働になるわけです。だから、安息日の前になると、階段の踊り場などの電燈はつけっぱなしになります。もっと迫力のあるのは、ホテルにあるシャバット・エレベーターです。エレベーターというのは普通、自分がボタンを押すと自分の階に止まり、乗り込んで、三階に行きたいと思ったら、エレベーター内の三階のボタンを押すわけです。しかし、どちらも安息日をおかす労働になっています。そこで考えられたのがシャバット・エレベーターで、これは自動的に各階停止になっているのです。つまり、自分でボタンを押さなくても、エレベーターのほうで一階ごとに止まり、乗り込んでじっと待っていれば、自分の行きたい階に行けるというわけです。

また、家から二千キュビット(1キロ弱)より遠いところまで歩いて行ってはいけないのですが、これではとても不自由です。そこでどうしたか。エルサレムは丘の上の町ですが、エルサレムの周辺の電線に、よく見ると黒いビニールが等間隔に張りつけられています。そして、この黒いビニールで取り囲んだ区域全体が家であると解釈することにしたのです。つまり、その内側ならいくら歩いてもいい、しかし、ビニールの外側は二千キュビットまでしか行けない、というわけです。

聖書の話にもどると、このように厳しく労働が禁じられている安息日にもかかわらず、イエスの弟子たちはおなかが空いたので、麦の穂を摘んで食べだしたわけです。それが厳正なユダヤ教徒であるファリサイ派(紀元前二世紀におこったユダヤ教の一つの派。律法を厳格に守ることを唱えた。)から見て、どんなにいけないことであったか。後年のユダヤ教のラビ(宗教指導者)のマイモネデスという人は、弟子たちの犯した罪を数えあげています。まず、穂を摘むということは「刈り入れ」という労働をすることである。同様に、手で穂をもんで食べるのは、穀物を「こなした」ことになる。籾殻(もみがら)を取り除いたことは、穀物を「選り分けた」ことになる。これらの行為全体が、安息日に禁じられている「食事の用意」をしたことになる。これだけでも四つ犯したという解釈なのです。

・・・そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べではないか。(中略)もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日に主なのである。」(マタイの福音書12:3~8)

ここに、キリスト教の出発点のような心理状況があります。規則づくめではないのです。わたしが望むのは犠牲(いけにえ)ではなく憐れみである、だから、人がおなかが空いているならば食べさせるのだ、という考え方です。これがユダヤ教キリスト教のまさに分岐点だと私は思うのです。

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<参考>

ユダヤ教徒ではない)キリスト教徒が日曜日を「聖日」として守るのは、イエスが日曜日の朝復活されたことに起因する(キリスト教大事典)。

 

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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。

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