金儲けは悪いことですか?
知恵の乏しい私です。
文章力の乏しい私です。
ですから、本日のブログの全てを、私の尊敬するキリスト者の内村鑑三の著書から引用させていただきます。
「キリスト教信者は財産を作ってはならないか?
貧はキリスト教信者がえらんでおるべき境遇であるか?
蓄財はキリスト教信者にとり罪悪であるか?
これまじめなる信者にしばしば起こる問題である。
この問題について、イエスは教えていいたもうた。
『なんじら、地に財(宝)をたくわう(積む)なかれ』(マタイの福音書6:19)
と。
財は宝である。しかして財産はかならずしも宝ではないのである。
神は義人ヨブに報ゆるに、多くの財産をもってしたもうた。
『主(神)、ヨブを恵みて、その終りをはじめよりも善くしたまえり。すなわち彼は綿羊一万四千匹、らくだ六千匹、牛一千匹、めろば一千匹をもてり』(ヨブ記42:12)
とある。
神が信仰の報いとしてたまいしものが、悪でありようはずはない。また、
『謙遜と主(神)をおそるることとの報いは、富と貴きと生命となり』(箴言22:4)
とある。
かくのごとくにして、富(財産)そのものの罪悪でないことは、聖書全体の明らかに示すところである。
イエスのいましめたものは財産ではない。宝である。
しかして財産はかならずしも宝ではないのである。
宝とは、人がその中に心をおくものである。
すなわちイエスがここに、
『なんじらのたからのある所に、心もまたあるべければなり』(マタイの福音書6:21)
といいたまいしがごとく、人がその心をおくところのもの、そのものが彼にとり宝となり、また宝であるのである。
人がその心を財産をおくにあたって、財産が彼の宝となるのである。
これをもって、人はこれにおのが心をおきやすくある。
しかしながら、これ財産そのものの罪ではない。
これを宝となすものの罪である。
世には、財産をもつも、これを宝とみなさない者もいる。
(銀行家・慈善活動家の)ジョージ・ピーボデーまたは(鉄鋼王・慈善活動家の)アンドリュー・カーネギーのごときはその例である。
彼らは巨万の財産を有して、その中に彼らの心をおかなかった。
彼らは財産を支配して、財産は彼らを支配しなかった。
彼らは宝を財産以外のものに求めた。
彼らは財産を有した。されど地に宝を積まなかった。」
・・・・・
上記文中で引用されている文語訳の聖句を、2017年版の新改訳聖書で引用します。
マタイの福音書6:19
ヨブ記42:12
箴言22:4
マタイの福音書6:21
上記の内容に関連して、内村鑑三の「後世への最大遺物」を読まれることをお勧めします。
「この本こそ内村鑑三先生から後世への贈り物」「生きる勇気が湧いてくる」「歴史的書物」などと読者がレビュー(評論)しています。
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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・天地万物の創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。