お目出度い人
昔、聖書を学び始める前までの、神とイエス・キリストを信じていない頃の私は、テレビの時代劇の中に出てくる切支丹(キリシタン)と呼ばれる人達が死をも恐れずに時の権力者に迫害されてもパラダイス(天の御国での永遠の命)を信じ信仰を堅く守っている姿を観て、すごい人達だなあと思うのと同時にパラダイスをまともに信じるのは「お目出度い人達だなあ~」と小馬鹿にして観ていたところがあったような気がします。
小馬鹿にしていた私自身がいつしか天地万物の創造主である神とイエス・キリストを信じることによって「死者の復活」と「永遠の命」を信じるようになり、「お目出度い人」の仲間入りをするとは露ほどに思っていませんでした。
「お目出度い人」という表現は、あくまでも自虐的に表現したものであり、土のちりから人間をそもそも創造された神ですから「死者の復活」や「永遠の命」を授けることなどたやすいことだ、と信じることは当然の帰結になるのです。
他人(ヒト)から口に出して言われるのではなく「あの人クリスチャンで永遠の命とか馬鹿げたことを信じているお目出度い人よ」と心の中で思われているんじゃないかと、ある時期まで恐れていましたが、今では、聖書の学びを深めることによって確信を持つに至ると人の評価は全く気にすることがなくなりました。
神とイエス・キリストを信じることができるようになっている自分自身に驚くと同時に歓びでいっぱいです。
話は変わりますが、部厚い聖書を真剣に学び始める前までに持っていた先入観がありました。
旧約聖書の創世記から新約聖書のヨハネの黙示録までの記事は数千年の時の隔たりがあり、複数の著者が時を隔てて書いている以上、記事の前後につじつまの合わない箇所が必ず出てくるはずだと考えていました。
実際学びを進める中で、神がなされることに反発を覚えたり理解に苦しむ箇所が数多く出てくることがありました。
しかし、時を置いて別の記事を読むことによって、はっと気付かされるときがやってくるのです。
これをインスピレーション(霊感)というのでしょうか。
神に反発を覚えた箇所や理解に苦しんだ箇所の神の真意が分かるのです。
このことは、旧約聖書の記事では理解出来なかった箇所が、新約聖書を学ぶことによって旧約聖書の疑問点が氷解するのです。
逆に新約聖書で分からなかったことが旧約聖書の記事によって理解できるのです。
ある人たちは、聖書には矛盾する記事やつじつまの合わない記事があると指摘しますが、それは、神の存在とイエスを救い主(キリスト)と信じていないからではないかと思います。
信じていないと聖書記事の「あら捜し」をすることになるのではないでしょうか。
神を信じることが出来ない人にとっては「あら」であっても、神を信じ信頼している人にとっては「何か意味があるはず」と捉えます。
そして、後日その意味を発見して、聖書への信頼をより一層深めて行くことになります。
聖書を詳細に学んでみると、聖書を読む前に持っていた先入観は一掃され、複数の聖書記者がいる部厚い聖書であるにもかかわらず、つじつまの合わない箇所も論理のほころびもなく、首尾一貫していることを新たに認識しました。
内村鑑三の著作「聖書之研究(1893年)」の中に出てくる話ですが、有名なベンジャミン・フランクリンがフランスに滞在していたときに、無神教の哲学者がキリスト教をしきりに嘲笑したそうです。
フランクリン自身はキリスト教にあまり熱心ではなかった無宗教家に近い者でしたが、フランスの無神教の哲学者があまりにもバイブル(聖書)を野卑にして文学の趣味に乏しいとあざけるので、フランクリン自身がキリスト教に冷淡であったにもかかわらず腹に据えかね、一計を案じたそうです。
場所はホテルでしたが、同じホテルに宿泊している女優に旧約聖書のルツ記(わずか7ページほどの短編)を哲学者たちの前で朗読させたそうです。
ここで内村鑑三の著書を以下引用します。
「女優は精神と感情とを込めてルツ記を読めり。哲学者らはその文意の高妙なると、その趣向の単純清廉なるとを賞賛してやまざりき。読み終わりて満場の学者らは深くフランクリンの厚意を謝し、かつ問うていわく、『かくのごとき佳話、君はいずこより得しや。その美、その妙、いまだかって余輩の味わわざるところなり』と。フランクリンは賞嘆のやむを待って粛然として立って告げていわく、『これ実に貴公らの貶視嘲罵してやまざりし古き聖書中に記載しあるルツの記なり』と。しかして後、黙然たり。哲学者輩は今は赤面語るにことばなく、一人去り二人退き、暫時にして室内フランンクリンと女優を除くのほかは人なきに至れりと。フランクリンの頓知、『哲学者』の無学、ルツ記の絶妙、共にこの一小話に載せて間然たることなし。聖書非難する人は聖書を読まざる人なり。聖書をもってただに厳格なる倫理のみを教うるものと信ずる人はいまだ聖書を知らざるなり。」
因みに、クリスチャンの中には、ルツ記に登場する女性ルツの名を自分の娘に付ける方も少なからずいます。
内村鑑三も長女にルツ子と名付けましたが、19歳で天国に召されました。
<おことわり>
上記のブログ記事は2年前の2017年6月3日にアップしたものに、ほんの少しだけ加筆修正したものです。
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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・天地万物の創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。