星 周作 Blog

★ 福岡より〇〇をこめて  ★

人を恐れるな! 主を恐れよ!

昨日は宝満山に登りました。

本当は本日の日曜日に登るつもりでいましたが、ネットで見た天気予報で雨模様になると出ていたので急きょ昨日登りました。

8時半から登ったのですが、人気の山だけあって下りでは次から次へと多くの人とすれ違うことになり、私の着ていたスーパーマンのTシャツを見て「あっ、スーパーマンだ」と声を掛けてくる人も何人かいました。

私に声を掛けてきた同年配らしき女性には、コテコテのおやじギャグで「いいえ違います。スッパマンです。」と返答すると、かなりウケたようで大笑いしてくれました。

 

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マイペースでゆっくりと登ったことと普段市民プールに週3回ほど行っていることが功を奏して心肺機能が高まっているようで、ほとんど息切れもすることなく登頂できました。

以前病気をして体全体の筋肉がヤセ細っていた時期もありましたが、最近は普段の水泳とウォーキングや今回の軽登山の影響もあって、肩関節周辺の筋肉、胸筋、お尻、太腿など体全体に筋肉が付いたことを実感しているこの頃です。

秋の紅葉シーズンにまた宝満山を登りたいと考えています。

 

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宝満山・山頂)

 

さて、本日のテーマに入ります。

 

キリスト教徒でもない日本人の多くは、近親者が亡くなった時やその後何かの折に口にする言葉があります。

親を亡くした人は「お母さん(お父さん)が、天から見守ってくれている。」と口にし、配偶者を亡くした人は、「妻(夫)が、天から見てくれている。」と口にしたりします。

 

このように言う日本人の多くの家庭には、仏壇が置かれ位牌が置かれていますが、親を亡くした人が「位牌の中にいるお母さんが見守ってくれている。」とは決して言わないですよね。

 

また、キリスト教徒、イスラム教徒などでもない大多数の日本人が、自分自身が死んだ時に自分の霊が位牌の中に入るなどと思わないでしょうし、入りたいとも思わないでしょう、そして、ジメジメした真っ暗な墓の中に自分の霊が永遠に留まることを望んだりはしないでしょう。

 

つまり、キリスト教徒ではない大多数の日本人は、無意識であっても、位牌がただの板切れに過ぎないことを知っており、墓がただの石に過ぎないことを知っているのです。

 

しかし、日本人の昔からの慣習上の理由から、墓を建て、仏壇を備え位牌を置いて、その前で手を合わせ拝んでいるのです。

ただ置いているだけで拝むことすらしない人たちも多いようです。

また、拝む人も朝チョット手を合わせるだけであったり、法事の時に拝むだけだったりが実情のようです。

さらに、人によっては新築マンションの中に仏壇や位牌を置きたくない人もいるはずです。では、何故置くのか、昔からの慣習があるからということもあるのですが、親族の眼が気になるのです。もし、仏壇も位牌も置いてなければ親族から何と言われるかと恐れるからなのです。

 

大切に守っている仏壇にしろ、位牌にしろ、その後守る子孫がいなくなれば早ければ数十年後、遅くとも百年後、二百年後には確実に壊されて捨てられる運命にあります。

 

話は少し脱線しますが、ハンコ(印鑑)に「印相」があるなどとハンコ屋さんが言ったりするようですが、ハンコに手相のような相が本当にあるのでしょうか。

随分前にハンコ屋さんから直接聞いた話ですが、ハンコに相などはないとハッキリ言われました。ハンコ屋さんが言うには、高級なハンコが売れるように、悪く言えばハンコ業界がでっち上げただけというのです。

 

墓石も同様に墓石業界が高級な墓石が売れるように「墓相」などというものを考え出したのか、手相などと同様に占い師が墓相を編み出したのを墓石業者が乗っかったのが実情ではないでしょうか。

 

また、数か月前に福岡地方だけで放送されたNHKのローカル番組で「墓」の現状を一般視聴者を交えて討論する放送をたまたま視たのですが、殆どの参加者が自分が死んでも墓はいらないと言っていたのが興味深かったですね。

墓のいらない理由の多くは、自分の墓の煩わしい管理を子孫にさせたくないと言うものでした。その代わりに骨だけを納骨してくれる施設を捜すと言うのです。

それで、高齢化社会で今後死ぬ人が必然的に増える現状であっても、このような墓不要の人が多くなっているので、この番組に参加した墓石業者の方は、商売繁盛どころではなく経営が苦しくなっていると危機感を持っていました。

 

過去のブログに書きましたが、私は両親の位牌を叩き壊し捨てました。

イエス・キリストを信じる者として、偶像崇拝の対象の位牌を処分することは当然のことです。

 

しかし、主イエス・キリストを信じて直ぐに処分が出来たのではありません。何故出来なかったかと言うと、親族からの非難を恐れたのです。

つまり、「親の位牌を叩き壊して捨てるなど言語道断、バチ当たり者が」と言われることを恐れたのです。

これは、私だけでなく、多くのクリスチャンでも最初はそのようです。

 

ある時イエスが語られた聖句を思い出しました。

その聖句を思い出した時、主イエス・キリストに顔向けできない自分を悟り本当に恥ずかしい気持ちになりました。

その聖句とはマタイの福音書10:28(新改訳聖書)です。

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<注>「ゲヘナ」を新共同訳聖書では「地獄」と訳しています。

 

人を恐れるな、創造主(神)を恐れよ」ということなのです。

 

私は、「人」つまり親族の非難を恐れて位牌の処分をためらっていたのです。

この聖句を思い出させてくれた聖霊に感謝して、直ちに位牌の処分をすることができました。

 

そう言えば一時期「千の風になって」という歌が流行りましたね。

「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません、眠ってなんかいません。千の風に、千の風になって、あの大きな空を吹きわたっています。・・・・・」

何故、この曲がヒットしたのでしょうか。

歌詞とメロディーが素晴らしかったこともありますが、次のようなことも一因ではなかったでしょうか。

人前で口に出して言わないけれど、日本人の多くが実感として、自分が死んでも墓の中に自分の霊が永遠に入り続けることになるとは思ってないし、位牌の中に入ることになるとは特に思ってないから、と私は考えています。

 

皆さんはどのように考えますか。

 

結局、「仏壇そのものに」「位牌そのものに」「墓そのものに」にクリスチャンでもない大多数の日本人も死者の霊が宿っているとは思っていません、

つまり、「真理」があるとは考えていません。

ただ、昔からの慣習に従っているだけなのです。

もし、そこに「真理」があると信じているのであれば、朝チョット手を合わせるだけでなく、法事の時だけでもなく、毎日心を込めて拝むはずです。

 

前々回のブログでも書きましたが、次のことを今後も何度も書くことになるでしょう。

 

「真理」は創造主(神)から出たものだけである。

 

したがって、「私は道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)と語った主イエス・キリストのことばに耳を傾けるべきなのです。

 

「真理」は人を自由にします。

 

人間が作り上げた迷信などは、あくまでも、迷信であって「真理」ではないので、人を不安にし不自由にもします。

 

「真理」そのものである主イエス・キリストは次のようにも語っています。

マタイの福音書11:28~30
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<注>29節と30節の「くびき」とは、2頭の牛や馬などがそれぞれ別方向に動かないように首の上に取り付けた木の横棒のこと。

 

イエス・キリストを信じるということは「真理」に目覚めるということなのです。

「真理」は心に平安をもたらし、人の精神を自由にしてくれます。

 

ブログアップは日曜日・火曜日・木曜日の週3回です。

次回は5月15日(火)にアップします。

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https://bible-seisho.jimdo.com/

 

 

★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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