星 周作 Blog

★ 福岡より〇〇をこめて  ★

罪とは何ぞや(その①)

突然ですが、世間ではセクハラが問題になっていますね。

セクハラという言葉がまだない時代に、中年の男性が女性のお尻を触ったら、女性が「止めてください」と言うと、常習者の男性がよく言う口癖がありました。

「触ったぐらいで減るもんじゃないだろ」

この男性は、もし、自分の妻や娘が同じ事をされ悔し涙を流しながら相談したときに、自分の妻や娘に「触られたぐらいで減るもんじゃないだろ、もっと触らせてあげなさい」と言えるのでしょうか。

セクハラ認識が極めて低い男性は、自分と接する女性が自分の妻や娘だったらと考えさえすれば、セクハラが何であるかを学習するまでもなく、どんな些細な性的なことも出来ないし、(自分だけが勝手に面白いと思い込んでいる、面白くもない)性的な冗談も厳に慎むのではないでしょうか。

 

「私は、隣人には優しく、ウソもついたこともない。罪とは全く無縁だ。」と内心自負している人がいます。

毎日欠かさず、仏壇の前で拝み、神社でも拝んで、善人たらんと努めています。

その証拠に、その人の日々の行動を見て、周りの人たちがその人を人格者であり善人だと評価しています。

このような人は決して珍しい人ではなく、私たちの身近に一人や二人はいるのではないでしょうか。

しかし、はたして、この人は罪人ではなく、正しい人でしょうか?

 

不倫、セクハラ、高齢者を狙った詐欺、暴力、殺人などが日々刻々と繰り返され、毎日のようにマスコミを賑わしています。

警察が把握している事件やマスコミに取り上げられるスキャンダルのように表面化していることだけでなく、未だ世間に知られずに表面化していないことも含めて全世界の全ての事件やスキャンダルな情報が毎日あなた一人だけに報告されるとしたら、あなたはこの人間世界をどのように捉えますか。

 

表面的・世間的には、聖人君子のように見えている人が、実は、不倫の常習者であったり、社会的地位のある人が援助交際やセクハラの常習者であったことなどが次々と暴露されている今日この頃です。

いいかげんウンザリして、この世に正しい人間がいるのだろうか、と疑問を持たざるを得ないかもしれませんね。

 

ところで、原罪という語は、聖書に直接でてくる語ではなく、キリスト教神学者アウグスティヌス(354年~430年)が作り出した表現ですが、私たち人間が初めから受け継いでいる罪のことだと説明されます。

そもそも、罪とは何でしょうか。

内村鑑三の著書に書かれているものが比較的分かりやすいので、恐縮ですが、いつものように引用(要約)したいと思います。

聖書に言うところの罪とは何であるか。その事がわからずして、聖書はわからない。罪とは、普通に、盗むこと、殺すこと、姦淫すること、偽りの証拠を立つることと思われている。しかしてこれみな罪であることは何びとも疑わないところである。しかしながら、これ、『もろもろの罪』であって、『罪』そのものではない聖書は前者(「もろもろの罪」)を称して『違法』と言い、後者を称して特に『罪』と言う。罪は多くではない、一つである。罪の罪があって、その結果として多くの罪(違法)があるのである。しかしてこの罪とは何であるかと言うに、それは『反逆(そむき)』であるのである。すなわち人が神に対して犯したる反逆の罪であるのである。しかして聖書が問題にしている罪は常にこの罪である。神がキリストにありて除かんと欲したまいしは、人類のこの罪である。ここに、すべての背徳、すべての苦痛の本原が存するのである。アダムとエバとが犯したりという罪はこの罪である。禁制の果物を食いし事、その事は小さな罪である。神はそれがために彼らとその裔(すえ・子孫)をのろいたもうたのではない。彼らが悪魔の教唆(きょうさ)に従い、神より離れて独り立たんとし、神に対する彼らの反逆の意を表せんためにこの禁を破りしがゆえに、彼らは神の楽園より追われ、世の漂流人(さすらいびと)となったのである。・・・中略・・・かくして始祖(アダムとエバ)の行為によって神と人との親子関係は絶えたのである。しかしてこの悲しむべき絶縁を称して、「人間の堕落」と言うのである。・・・中略・・・罪とは(神に対する)反逆である。・・・中略・・・イスラエルの民は、罪の罪たるこの反逆を犯してやまなかった。『彼ら(イスラエルの民)は、エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、主を怒らせた(士師記2:12)』と。忘恩に次ぐ忘恩、反逆に次ぐ反逆、選民の歴史は神に対するその反逆の歴史である。聖書が他の書と全く異なる点はここにある。・・・中略・・・預言者がしばしば言えるがごとく、罪はまことに姦淫である。人が神に対して貞操みさお)を破る事である。

 

尊敬する内村鑑三の著書に大きく影響を受け、その聖書解釈の多くの部分で賛同の意を表する私です。

ただ、上記引用文の中の「禁制の果物を食いし事、その事は小さな罪である。」に関しては、少し異なる考えを私は持っています。

過去ブログでも触れているのですが、次回、再度触れたいと思います。

↓ ↓ (その②)はこちらをクリック

hoshishusaku.hatenablog.com

 

 

 

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https://bible-seisho.jimdo.com/

 

★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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