星 周作 Blog

★ 福岡より〇〇をこめて  ★

聖霊と三位一体(その①)

当ブログでは聖書に関して私なりに理解したことを、聖書の学びをこれから始めようと考えている方や聖書の学びを始めて間もない方を念頭に置いて書いています。

すでにクリスチャンである方々にとっては、物足りない内容であるかもしれませんが、ご了承ください。

 

本日より聖霊と三位一体について検討しますが、あまり細かいところまで深入りせず、最低限これだけは押さえて置きたいと私が勝手に考えているポイントだけを書いていきたいと思います。

 

「三位一体」という文言自体は、聖書のどこを見ても書かれていません。

それなのに何故、三位一体という教義が生まれたのか?

キリスト教を支持する神学者たちが創り上げた空想、妄想なのか?

三位一体の第二位格の「子なる神」とされるイエス・キリストが、そもそも神なのか?

同様に第三位格の「聖霊」が、そもそも神なのか?

 

そこで、三位一体の教義の検討に入る前に「聖霊」という存在が聖書にどのように記されているのかを、まず、見ていきたいと思います。

次の聖書箇所をご覧ください。

コリント人への手紙第二1:21~22

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コリント人への手紙第一6:19

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上記の聖句に出て来る「御霊」とは「聖霊」のことですが、パウロは、イエスを救い主(キリスト)と信じた者には、信じた瞬間に聖霊が授けられると語っているのです。

授けられた聖霊は信者の内に宿ることになりますが、これを「聖霊の内住」と言います。

21節の「私たちに油を注がれた方は神です。」の「油注ぎ」とは、本来、旧約聖書において、祭司や預言者の任職にあたって行われたもので、神の選定と祝福をあらわしています。これが、新約聖書においては、おもに聖霊が注がれることを意味しています。

なお、キリストあるいはメシアとは「油注がれた者」の意でもあります。

 

19節の「聖霊の宮」とは、信者のからだが、三位一体の第三位格の神である聖霊が宿る神殿(宮)ということなのです。

 

さらに、パウロはエペソ人への手紙1:13~14では次のように記しています。

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日本人が契約書などに証印を押すというとハンコを押すイメージがありますが、キリスト教世界で有名なアメリカの大衆伝道者であったドワイト・ライマン・ムーデー(1837年~1899年)は、著書で次のように語っています。

「印を押す時に最初にすることは、熱い蝋(ろう)をたらします。そして、蝋が固まる前に、印を押すわけです。もしも、蝋が冷えて固まっていたなら、決して印を押すことはできません。多くの人たちが集会に集まります。しかし、彼らの心に感銘を与えることは、まさに冷えて固まった蝋に、印を押すようなものだと感じることがあります。蝋を暖めさえすれば、印は押せます。人が心を開き、心の中にある蝋を暖めるのならば、神は喜んで贖い(あがない)の日のための印(キリストの十字架の贖いの約束の印)を押されるのです。その印とは、神の子とされる特権なのです。」

 

内村鑑三も「神の子」について、著書で次のように語っています。

「人は生まれながらにして神の子ではない。罪を悔い、キリストに従い、聖霊を受け、旧(ふる)きを捨てて新しくなって初めて神の子となるのである。」

 

聖霊について地上で活動していた時のイエスは弟子たちに次のように語っていました。

ヨハネ福音書14:16~17

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ヨハネ福音書14:26

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16節及び26節に「助け主」という言葉が出てきていますが、これも聖霊のことです。

この「助け主」という言葉は、ギリシア語でパラクレートス(PARAKLETOS)といい、「助けるためにそばに呼ばれた者」という意味です。

つまり、聖霊はイエスを救い主(キリスト)と信じた者に寄り添って助けてくれる存在なのです。

さらに、「真理の御霊」と記されているように、聖霊はイエスを信じた者に真理を解き明かしてくれる存在でもあるのです。

 

エスを救い主(キリスト)と信じた者でなければ、聖霊の存在を受け入れることはできません。

創造主(神)及びイエスを信じることができない人たちは、聖霊の存在など全く気付きもしないし、もちろん、受け入れることもできません。

 

創造主(神)及びイエスを信じているクリスチャンの中にあっても一部の人たちは、聖霊の存在自体は認めますが、聖霊は人格の備わった三位一体の神などではなく、神から出る神の活動力(パワー)に過ぎないと考えています。

しかし、聖書を素直に読めば、聖霊が単なる神の活動力ではなく、人格を持つ神であることが理解できるはずです。

ここでも内村鑑三の言葉を引用します。

聖霊は神より来る力にあらず、またキリストによる感化力にあらず、聖霊はすなわち神にして、人格者(person)としてわれらに臨むということ、これである。これ聖書の明白に示すところにして、疑いもなく革命的大真理である。」

 

次回から少しずつ、聖霊の働き等を聖書から読み解きながら人格を持つ御方であることを理解していきたいと思います。

↓ ↓ (その②)はこちらをクリック

hoshishusaku.hatenablog.com

 

 

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https://bible-seisho.jimdo.com/

 

 


★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★

・天地万物の創造主だけが神

・万物・人間を創造せずして神たる資格なし

・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし

・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。

〈私の信条〉

盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。

★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★

<私は聖書の神を信頼する>

私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。

〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。
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