復活と永遠のいのち(その4)
(その3)の続き。
復活を次のように考えている人たちがいます。
「イエスの復活は異常な出来事ではない。それは、普通の出来事が異常な形で現れたものにすぎない。人が死ねば、その霊は創造主である神のみもとに行く。これが復活である。」
この考えには注意を払う必要があります。
復活を人のからだではなく、人の霊に当てはめているからです。
次の聖書箇所をご覧ください。
新約聖書・テサロニケ人への手紙第一5:23
人間は高度な知性を持った生き物であり、三つの部分、すなわち、「霊、たましい、からだ」から成り立っています。
人の霊とたましいには密接なつながりがあるので、この二つを区別するのは困難ですが、それらは全く別のものであることが、新約聖書・ルカの福音書1:46~47の記事でわかります。
霊とたましい(霊魂)は、永遠のいのちを考える上で重要な要素なので別の機会に必ずブログ・アップします。
聖書に用いられている「復活」ということばは、からだにだけ関連しています。
復活とは、人のからだが肉と骨を備えた状態でよみがえり、そのからだを持って神に会うという意味です。
<番外編>
「トリノの聖骸布」をご存知の方も多いことでしょう。
北イタリアのトリノにある聖ヨハネ大聖堂に厳重に保管されているその布は、全長約4.4メートルです。
イエスの遺骸を包んだとされる布ですが、その真偽は如何に?
聖書の記事を読めば、その真偽は明らかです。
イエスは、十字架刑に処せられた後にからだは亜麻布で巻かれて墓に葬られました。
墓に葬られてから3日後に復活した際の墓の中の様子を次のように聖書は語っています。
復活したイエスは亜麻布から通り抜けて消えていた。
亜麻布はイエスの死体を覆ったままで残っていた。
頭に巻かれていた布切れは、離れた所に巻かれたままの状態になっていた。
したがって、イエスの死体を覆った布は、頭に巻いた布と体に巻いた布が別であることが分かります。
結論です。
トリノの聖骸布は一枚布であり、一枚布に人間(イエスとは書きません)の全身が写しだされているものであり、誰かが人間の姿を書いたものであることが真実のようです。
昨年のアメリカ映画「復活」はイエスの復活に焦点を当てた映画ですが、この「トリノの聖骸布」が出て来る場面があります。
そこそこ面白い映画でした。
レンタルショップのツタヤとゲオが住まいの近くにあるのですが、意外にも商品数が多いツタヤには置いてなかったので、普段利用することのないゲオで借りました。
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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
・親鸞、日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。