マザー・テレサのことば
本日午後、「聖書検定」というテーマで、すでにブログをアップしました。
アップ後に日課として読んでいる数冊の本のうち、「マザー・テレサ日々のことば」の本日12月8日のことばを読んで戸惑いを覚えたので、皆さんにも考えていただきたく、このブログを書くことにしました。
まず、下の写真のことばを読んでみてください。
皆さんはどう感じましたか。
私が感じたことを書く前に次のことを申し添えておきます。
私は、どの教会にも属していない無教会者ですが、カトリック、プロテスタント等のどの教会に属している人であっても、聖書の本質的教えに反しない信仰を持っている方を尊重し、敬意を払っています。
カトリック教徒であったマザー・テレサは、私が聖書の神を知る前から今に至るまで尊敬するお方です。
さて、私が戸惑いを感じたことばは、終わり4行です。
「私たちはもっと善いヒンズー教徒、もっと善いイスラム教徒、もっと善いカトリック教徒、その他なんであっても、もっと善い人になり、もっと神に近い者になるのです。」
信仰の対象が何であっても、「もっと善い人」であれば、聖書の神に近い者となるのでしょうか。
以下、いくつかの聖句を引用します。
新約聖書・エペソ人への手紙2:8~9
新約聖書・ローマ人への手紙11・6
わたしたち人間が救われるのは、「信仰と恵み」によります。
つまり、聖書の唯一の神とイエス・キリストを信じる信仰によって、神が恵みによって救ってくださるのです。
信仰がなければ、いくら善行を積もうが、いくら徳を積もうが、いくら苦しい修行をしようが、イエス・キリストの道(真理)を歩むことにはなりません。
そして、永遠のいのちを得ることもできません。
「もっと善い行い」とは何でしょうか。
この世の人からいくら善人と評価されようが、真の神及びイエス・キリストを信じていなければ、アダムとエバが「善悪の知識の木」を食べる道を選んで、善悪を神の基準ではなく人間の基準で「この行いが善」だと勝手に決めて生きる道に過ぎないのです。
「この行いが善」だと人間自身で決めて生きていくことこそが、神に背く最大の罪なのです。
「もっと善い人」になろうとして、仮に善い人になったつもりでも、真の神に対する信仰がなければ虚しいものです。
神への道にはつながっていません。
イエス・キリストを通してでなければ、父なる神に近づくことはできないのです。
★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
・親鸞、日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。
〈イエスを信じる者は永遠の命をもつ〉(ヨハネによる福音書3:16)ことを私は確信します。