神の残した痕跡・奇蹟の塊
昨日、ブログをアップして、すぐ外出したのですが、1時間ほどして思い出したことが昨日のテーマとかぶるので、本日取り上げることにしました。
まず、新約聖書・ルカによる福音書9:10~17をご覧ください。
5個のパンと2匹の魚を男の数だけで5000人に与えた有名なエピソードです。
続いて、クリスチャン作家の曽野綾子の著書「現代に生きる聖書」を引用します。
「たった五つのパンと二匹の魚を、みんなで分けるというと、一人あたりの量はどんな少しだったでしょう。五千人に五つのパンなど、分けることはむしろ不可能です。つまり、リアリズムで言えば、象徴的に分けたにすぎない。ところが、みんなが食べたあとに残ったパン屑と魚が十二の籠にいっぱいになるほどにあった、と言うのです。これについて、大変おもしろい説を立てていらっしゃる神父様がおられます。これは奇跡というよりもきわめてリアリスティックな説明ですが、実は彼らみんな食料を持っていた、と言うのです。これはあり得る話です。村もない、レストランも、物を売っている店もない田舎ですから、だいたいの人が少し遠い所へ行くときは食料を持って出掛けるのが普通でしょう。けれど、人にやるのもくやしいからみんな隠しているわけです。ところが群衆は、イエスの弟子のほうから先に、ほんの少しにせよ実際にパンを分けてもらったので、われもわれもと自分のパンを出した。そこで、あなたどうぞ、僕のもどうぞ、私のも召し上がってください、ということになる。そうすると、五千人がすべて食べて残りが出ても、少しも不思議はないのです。」
人には、それぞれの捉え方、信じ方があります。
私が、何か注文をつけるつもりは毛頭ありません。
このような捉え方をする人もいるんだという情報を提供したかっただけです。
イエスは、子どものように信じなさいと繰り返し教えられました。
私は、イエスの教え、イエスの奇蹟を、子どものように丸ごと信じます。
また、イエスは、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と教えられました。
クリスチャンとして未熟な私が、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、神を愛する」には、どのようにすれば全うすることができるか考えました。
私の愛し方が正しいのかどうか分かりません。
もちろん、愛し方に正しいとか間違っているなどはないでしょう。
愛するためには、愛する対象の神とイエスを知らなければなりません。
真の神の存在とイエスの存在を教えてくれたものは聖書です。
つまり、愛する対象の神とイエスを知るには聖書を知ることです。
愛するためには、愛する対象を信頼しなければなりません。
信頼するとは、疑わないことでしょう。
疑いながら、信頼することは、できない相談です。
私以外の人の思考回路を知ることは出来ません。
私の思考回路では、聖書のこの箇所は信じられるが、あの箇所は信じられない、しかし、神とイエスを信頼する、などの芸当はできません。
聖書を丸ごと信じることでしか、私は神とイエスを信頼するはできないのです。
私自身に命じていることですが、「ゴチャゴチャ言わずに、中途半端に信じるな、丸ごと信じ尽くせ。」と言うことです。
「そうすれば、自ずと結果は出る。要するに神が見ていて下さる」と私自身に言い聞かせています。
ところで、事故に遭遇して、足の親指が付け根から切断されたのに、数か月後に再生していたら、どうでしょう、奇蹟でしょうか?
突然、バカな問い掛けをして済みません。
バカついでに、もう一つバカな問い掛けをします。
事故に遭遇した犬のシッポが付け根から切断されたのに、数か月後に再生していたら、どうでしょう、奇蹟でしょうか?
この2つのバカな問い掛けと似たようなことが現実に起こっています。
中学生の頃、昼休みに運動場でサッカーをしているときに、ボールを蹴らずに地面を蹴ってしまったことがあります。
これは仮定の話ではなく事実です。
足の親指の爪の下全体に血豆ができ、数日後、爪がグラグラして根元からポロッと抜け落ちてしまいました。
生まれて初めての経験だったので、親指の爪とは永久におさらばと思っていました。
しかし、何日後かは昔のことでよく思い出せませんが、復活したのです。
永久におさらばと思っていた親指の爪が、復活したのです。
これは、当たり前ですか。
エル・シャダイ(全能の神)を信じた私は、誰が何と言おうと断言します。
神の御業である、神の奇蹟を目の当たりにしたと宣言します。
幼い頃、縁側の下でトカゲをよく見かけました。
捕まえようと触ると、シッポが切れて逃げて行くのを何度も見ました。
もう、私が何を言わんとしているか分かりますね。
ネットで確認すると、トカゲのシッポが切れても、1箇月程で復活するようです。
犬のシッポは、切れても復活しないのは、創造主の神が復活するようにしなかっただけのことです。
神は、私たちが目にするいたるところで、人間に見る目があれば、ご自分の御業が見えるように自然界のすべてに痕跡を残しておられます。
イエスを信じた者が、死後に復活し、神の御国に入ることができることを、自然界に神が残された復活の痕跡を目の当たりにする経験によって、私は信じることができます。
何度かブログで書いてきました。
擦り傷がいつの間にか治っていることは、神の御業、奇蹟です。
足の爪先から頭のてっぺんまで、体の隅から隅まで、要するに体全体が奇蹟の塊だと思っています。
自然界に毎日奇蹟を目の当たりにしている私にとって、5個のパンと2匹の魚を5000人に与えた奇蹟などは不思議でもなんでもありません。
新約聖書・マタイによる福音書12:38~39にあるように、イエスはパリサイ人に言われました。
新たなしるし(奇蹟)は、私には必要ありません。
ある宗教書を読むと、その著者は、神の声を聞いたとか、神が夢の中に出てきて啓示を受けたと書いています。
また、テレビ番組で、そのようなことをいう人が出て来たりします。
真偽は別にして、今の私には、どうでもいいことであり、興味のないことです。
ほとんどは、自己の利益を図るために、人を欺き、自分自身を欺き、真の神を欺き、真の神の栄光を汚しているのです。
真の神の声が、私自身に語りかけてくれば、もちろん、どうでもいいことではありません。
しかし、今、この瞬間、私自身を含めた自然界(被造物)に神が残された痕跡(奇蹟)だけで、私は充分満足です。
人形の髪が伸びたとか、人形が涙を流したのを見たとか言って、それを神の奇蹟だとして、その人形を祀り拝む人たちもいるようです。
たとえ、私の目の前で、実際に人形の髪が徐々に伸びたり、目から涙を流してても、その事実を認めたとしても、神の奇蹟とは絶対に認めません。
なぜなら、真の神は、絶対にそんな馬鹿げたチャチなことで、ご自分の栄光を汚すようなことはなさらないからです。
聖書の中に記されている神とイエスが示された様々な奇蹟(しるし)は、神の栄光を現すものです。
人形の目から涙が流れる、マリア像の目から涙が流れるなどは、神の奇蹟では絶対ありません。
それを神の奇蹟として信じることは神の栄光を汚すことです。
サタンが人間を惑わす行為なのです。
本日も長い文章になってしまいました。
最後まで、私の独り言を読んでいただきありがとうございます。
https://bible-seisho.jimdo.com/
★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
・親鸞、日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。