丸ごと
20代後半に、ある出来事をキッカケに苦悩し、その苦悩から抜け出る道を求めてキリスト教に関心を示したことがあります。
いきなり、聖書というわけではなく、キリスト教を信じている人はキリスト教のどのようなところに惹かれ信じているのかを知りたくて、ファンでもある遠藤周作の本を買って読んでみたのです。
昨年、アメリカのマーティン・スコセッシ監督による「沈黙-サイレンス-」が公開されましたが、その「沈黙」を含め遠藤周作のキリスト教関連本は、当時、すべて読んだのではないでしょうか。
昨日引用した「イエスの生涯」の別の2箇所を引用します。
<一つ目>
「聖書のなかにはあまたイエスと見棄てられたこれらの人間との物語が出てくる。形式は二つあって、一つはイエスが彼等の病気を奇蹟によって治されたという所謂『奇蹟物語』であり、奇蹟を行うというよりは彼等のみじめな苦しみを分ちあわれた『慰めの物語』である。だが聖書のこの二種類の話のうち、『慰めの物語』のほうが『奇蹟物語』よりはるかにリアリティを持っているのはなぜだろう。『奇蹟物語』よりも『慰めの物語』のほうがはるかにイエスの姿が生き生きと描かれ、その状況が眼に見えるようなのはなぜだろう。」
30年以上前のことですから、ここを読んだ当時のことを明確に覚えていたわけではもちろんありません。
恐らく、反発を持つことはなく、そういうものかと何となく納得したのでしょう。
<二つ目>
「『慰めの物語』が『奇蹟物語』よりリアリティをもって我々に迫るのは、『奇蹟物語』がガリラヤ地方に残っていたイエス伝説を集めて書かれているのにたいし、前者はおそらく目撃者の弟子の記憶に生々しくあったものをそのまま使っているためではないだろうか。」
この箇所も、当時どのように私が感じたか明確に覚えていたわけではありませんが、遠藤周作はイエスの奇蹟が伝説であって、事実あったこととして信じていないんだと当然読み取ったわけです。
そして、遠藤周作以外のクリスチャンを知らない当時の私は、クリスチャン全部がこのように奇蹟を伝説として捉えているんだと、明確な記憶ではありませんが、思い込んだのです。
今、ここを読み直してみると、おかしな点を発見します。
聖書の『奇蹟物語』を伝説だとして聖書の記事をそのまま事実として受け取らない一方、『慰めの物語』の方は「目撃者の弟子の記憶に生々しくあったものをそのまま使っているため」と書いている論理です。
何故、遠藤周作は『奇蹟物語』も「目撃者の弟子の記憶に生々しくあったもの」つまり事実として受け取らなかったのでしょうか。
続いて、「イエスの生涯」の次の作品として書かれた「キリストの誕生」の一部を引用します。
「・・・・・以上が私の『イエスの生涯』の縦糸だが、この本が一部のキリスト教信者の顰蹙(ひんしゅく)をかい、批判をうけたのは、私がイエスの現世的な人間像を『無力な人』として書いたためである。そしてまた聖書に語られているイエスの奇蹟物語を彼の愛の行為や復活の意味よりは重視しなかったためであろう。だが私のこの考えは今日も変っておらぬ。イエスは大衆の地上的メシヤとしての期待を裏切ったから、彼等の眼には無力な存在に映ったのである。」
結局20代後半の当時の私は、遠藤周作の本からは、真の神を見いだすことが出来ず、イエスが救い主キリストであることを発見することも出来ませんでした。
ハッキリ言って、遠藤周作が聖書の何を信じているのか、イエスの何を信じているのか、神そのものを本当に信じているのかが、彼の一連のキリスト関連本からは読み取ることができなかったのです。
これが神だ、このイエスが救い主キリストだ、だから私(遠藤)は信じているという強いメッセージがなく私の心に訴えて来なかったのです。
したがって、聖書自体を読む意欲がわくことも当然ありませんでした。
遠藤周作の本から、私が、神とキリストを感じることができなかった原因が何か、今はハッキリわかります。
遠藤周作の本だけではありません、一般書店で売られているキリスト教関連本(マザーテレサの本など)ではキリスト教の愛ばかりが強調され、私たち人間が天地万物の創造主の神から創造された被造物の人間であるということが、明確に主張されていないのです。
次に、イエス・キリストの示された愛(遠藤周作のいう「慰めの物語」)は、キリスト教の重要な要素ですが、イエスが行った「奇蹟」は同等ないし同等以上のものであると今の私は考えています。
イエスが行った「奇蹟」を事実として、明確に認識する必要があると考えます。
下記の私がイエスに会えたと仮定しての小話をご覧ください。
「イエス様、山上の垂訓のお話しをされたのは事実ですか?」と私が問うと、イエスは「そうだよ」とやさしく答えてくれました。
次に「イエス様、湖の上を歩かれたのは本当ですか。ラザロを復活させたのは本当ですか?」と私が聞くと、イエスは「湖を歩いたなんて誰が言ったんだ。そんなことできるわけないだろう。この私が死んだラザロを復活させたって、冗談はよせ。」と答えられました。
このように聖書に書かれていたら、イエスが行った奇蹟を作り話、デッチ上げと批判する人たちは納得するのでしょうか。
聖書に書かれているイエスの病人や盲人の癒しをイエスの力や神の力ではなくて、ある「特効薬」を飲ますことによって癒したと書いていたら聖書を信じるのでしょうか。
「特効薬」を飲ますことによって癒したなどと聖書に書いていたら、それは人間の業であって、聖書を神の書と誰も認めず、誰も読むこともなく捨てられるたことでしょう。
奇蹟がないとしたら、苦難に喘ぐ私たち人間をどのように救うというのでしょうか。
もはや、イエスは、救い主キリスト・メシアでもなんでもなく、人格が高潔であるが、私たち人間と同じただの人間ということになります。
「奇蹟」は、聖書が神の書であることの最重要の要素です。
奇蹟以外の聖書箇所の中で、人間的知恵では判断のつかない箇所もないではありませんが、浅はかな人間の知恵を遥かに凌駕する神とイエスを信頼して、聖書の記事を私は「丸ごと」受け入れます。
「丸ごと」信じます。
9月9日(土)のブログ「理性的、合理的」でJ・I・パッカーの著作を引用したように、盲目的ではなく、「理性的に丸ごと」信じます。
私が信じる聖書に掲示された神は、商売繁盛の神、交通安全の神などそんじょそこら辺にいる神ではありません。
私の信じている神は「命の源である天地万物の創造主」である「全知全能の神」なのです。
<ことわり>
遠藤周作という作家は、中学校までは教科書以外の本をほとんど読まなかった私が、高校生になって本好きになるキッカケ(狐狸庵先生シリーズ)をくれた大切な作家です。
今でも大ファンです。
本日も長い文章になってしまいました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
https://bible-seisho.jimdo.com/
★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
・親鸞、日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。