何という勘違い
「神は、心の中にいる」「神の国は、心の中にある」「天国は、心の中にある」あるいは「永遠の命は、心の中にある」という言葉を聞いたり、何かの本で見たような気がします。
皆さんはどうですか?
その昔、テレビの時代劇でキリシタン(キリスト信者)が迫害に遭いながらも、パライソ(天国)を心に秘めながら殉教死する場面があったような気がします。
突き詰めて考えていたわけではありませんが、キリシタンの人たちは、現実に存在するパライソではなく心の中にあるパライソを思い描きながら死んでいくんだなあ、と幼いながら思っていました。
長い間、神の存在、神の国、天国、永遠の命などは、客観的な実体のあるものではなく、観念的なものだと思っていました。
聖書にも次の聖句があるのです。
「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」と記されています。
聖書を紐解き始めた超初心者の頃、「ああ~、神の国は心の中にあるんだ」と読み、理解したのです。
そして、イエスの言っている「永遠の命」も心の持ちようのことを言っているのだと思っていました。
しかし、引用した聖句をよく読むと「神の国は、あなたがたのただ中にある」と書いているのであって、「心の中にある」などとは書いていません。
イエスはパリサイ人の形式的な心の中から出ない信仰を痛烈に批判していました。
その形式的な信仰しかないパリサイ人の心の中に神の国がある、とイエスが言われるはずがないのです。
イエスがパリサイ人に言っているこの聖句は「神の国を支配する権威を持っている神の御子イエス自身が、パリサイ人や人々の間にいる」と言っているのです。
聖書の注解書でも、そのように説明しています。
おそらく、多くの人達が「勘違い」している聖句ではないでしょうか。
「神は、心の中にいる」「神の国は、心の中にある」ということも間違いではなく、そういう側面もあります。
しかし、神は間違いなく、客観的な存在として存在しています。
神は「わたしはある」というお方です。
神が私たち人間に「『わたしは存在する』わたしを信頼せよ!」と言っているようです(これは、私の訳です)。
創造主である神は、客観的存在として生きて天地万物を支配しておられます。
神が定めた「その時」がくれば、「新しい天と新しい地(新天新地)」が実現し、神を信じ、イエスを信じた人達が、心の中ではなく現実として「永遠の命」を得ることになります。
キリシタンの人達も、心の中だけで存在する観念的なパライソではなく、現実に必ずや到来するパライソを思いながら迫害に耐えていたのです。
聖書を知る前と同じように「神は心の中にいる」「神の国は心の中にある」「永遠の命は心の中にある」だけで、客観的事実として存在もせず、実現もしないものであるとしたら、聖書を信じる価値は全くありません、イエスを信じる価値は全くありません。
聖書研究をすればするほど、神及びイエスが語り、イエスの使徒たちも語った通り、イエスを信じた者が、死んでも復活し、新天新地で永遠の命を得ることを確信します。
使徒ペテロは、イエスから直接教えを受け、復活を目撃した者として、説得力を持って次のように信者に語っています。
新約聖書・ペテロの手紙第一1:3~5
https://bible-seisho.jimdo.com/
★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
・親鸞、日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。