恋におちて
決して一目惚れではありません。
出会う前も、出会った後も疑っていました。
恐る恐る付き合い始めました。
世の中の人たちは、胡散臭いから止めておけと言います。
しかし、その方の本当の姿を知りたくて、少し距離を置きながら付き合いを続けました。
徐々に、わたしの目が開かれていきました。
その方の真の姿がおぼろげながら分かってきました。
ある時、その方の真の姿を確信しました。
その時、わたしは恋におちたのです。
その相手の方は、欠点の多いわたしを死ぬほどに愛してくれています。
実は、わたしがその方を愛するよりも前、はるか昔からわたしのことを愛してくださっていることを知りました。
恋におちたその相手とは、万物の創造主である神とイエス・キリストです。
イエス・キリストは十字架にかかって死ぬほどに罪人の人間を愛してくださったのです。
今も、これから先も永遠に!
新約聖書・ローマ人への手紙5:6~8
みなさんも恋におちた経験があるでしょう。
恋におちたら、日常生活がどんな風になりましたか。
寝ても覚めても、相手のことが頭から離れることはありませんよね。
相手からも愛されているとしたらどうでしょう。
毎日が充実し、エネルギーに満ち溢れ、どんな苦難にも立ち向かう勇気が湧いてきますよね。
わたしの「恋におちて」は、盲目的な熱狂さではありません。
理性的にしずかに燃えています。
恋におちた相手の神様は決してわたしたちの信頼を裏切ることはありません。
それに比べわたしたち人間の歴史はアダムとエバから始まって、偽りの宗教(神)に目移りする裏切りを繰り返してきました。
イエス・キリストは次のように語っています。
当然ですが、あえて言わせていただければ、神は人間から愛されることがなくても、痛くも痒くもないのです。
わたしたち人間のすべてをご存知の創造主である神を愛することが、被造物の人間にとって一番良いことだから、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、わたしの神である主を愛する」ことを第一義とするべきなのです。
聖書は、創造主である神とイエス・キリストが、わたしたち人間に送られたラブレターだと言った方がいますが、まさにその通りだと思います。
恋におちた相手からもらった手紙を何度も読み返した経験がみなさんもあることでしょう。
これからもラブレターである聖書を繰り返し読み返したいと思います。
いにしえの人デジデリウス・エラスムス(1466年~1536年)は、次のように語ったと言います。
「余は堅く聖書の研究を以て余の一生を終わらんと決せり」
アメリカの有名な神学校のムーデー聖書学院を設立したドワイト・ライマン・ムーデー(1837年~1899年)が著わした「聖書研究の快楽」の書名の通り、聖書の研究は堅苦しいものではなく、喜びであり快楽なのです。
★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
・親鸞、日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★