堕ちた天使
裕福な家庭で生まれ育ちました。
幼稚園児、小学生の時は神童と呼ばれていました。
有名進学校の中学と高校を卒業し、東大を首席で卒業しました。
オリンピックで金メダルも取得しました。
芸術の分野でも数々の賞を受賞しています。
ブラッド・ピット似のイケメンです。
ビジネスで成功し巨万の富を得ています。
もし、この世にこのような人がいるとすれば、この人は「スーパー人類」でしょう。
わたしは神から選ばれている、わたしこそ神の子だと誇り高ぶることがあるかもしれません。
「いやいや、わたしは神の子なんかじゃない。わたしこそ神だ」と言い出しかねません。
聖書では、天使の存在を記しています。
悪魔(サタン)も元は天使でした。
しかし、みずからの知恵・能力・美しさに誇り高ぶり、神に反逆する堕天使になったと聖書は記しています。
旧約聖書・イザヤ書14:12~13は悪魔(暁の子、明けの明星)が神になろうとしたが、堕天使となった様子を記した聖句です。
これに対して、キリストの姿は真逆のものです。
新約聖書・ピリピ人への手紙2:6~9
話を戻します。
スーパー人類に、虐げられた人たちの苦しみ、貧しい人たちの痛み、様々な苦難に遭遇している人たちの心が理解できるでしょうか。
ある時、快適な人生を歩んでいたスーパー人類に想定外の苦難が襲います。
洪水によって豪邸が一瞬に失われました。
ビジネスで手にした巨万の富も世界恐慌により一夜にして失いました。
一夜にして貧しい人たちと同じ境遇になりました。
このスーパー人類と呼ばれたこの人にとって、洪水や世界恐慌はどんな意味を持つのでしょうか。
悲劇でしょうか。
もしかしたら、(聖書の)神を求めるキッカケになりはしないでしょうか。
神を求めるキッカケになるとすれば、想定外の苦難も単なる悲劇ではなく、深い意味を持ってくるのではないでしょうか。
僭越ですが、興味のある方は8月6日のブログ「想定外の苦難」をご覧ください。
わたしたち人間も堕天使となった悪魔の性質(罪)を心の奥底に持ってはいないでしょうか。
「誇り高ぶり」は、悪魔の弟子となる要素となります。
「誇り高ぶり」は、神に背を向けることになる要素です。
「誇り高ぶり」を、神は罪とされます。
聖書が教える「最大の罪」は、神に背を向けることです。
聖書に全く興味のない方もキリスト教の「原罪」という言葉をご存じでしょう。
「誇り高ぶり」は、人間の心の奥底に巣食う「原罪」の一端を垣間見ることができるようです。
わたしには縁がないと思っている「誇り高ぶり」も何かのキッカケ(ビジネスが成功する、美人だと人から評価されるなど)で顕在化することはないでしょうか。
わたしには、ほんの僅かな「誇り高ぶり」もないという謙虚な方も、その謙虚さを度を越して主張し過ぎると誇り高ぶりにならないとも限りません。
人間とはやっかいな生きものですね。
新約聖書・ローマ人への手紙3:9~10に次の聖句があります。
神の基準からすれば、すべての人間は例外なく罪人なのですね。
★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
・親鸞、日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★