敬天愛人
数ヶ月前に西郷隆盛が聖書を読み、そして、人にも聖書を教えていたことや西郷隆盛が雅号の「南洲(なんしゅう)」の名で書いた「敬天愛人」(天を敬い、人を愛す)についてフェイスブックで投稿したり、当ブログでも簡単に書いたこともありましたが、もう少し詳しく「敬天愛人」について書くことにしました。
「敬天愛人」という言葉が、歴史上に現われたのは、18世紀の中国、清の時代に遡ります。当時、清の皇帝の康熙帝(こうきてい)は、中国に進出していたキリスト教のイエズス会、ドミニコ会、フランシスコ会というカトリックの3つの宣教団体の、どれを、中国で認めるか悩んでいました。
イエズス会は中国に最も早く進出した宣教団体ですが、聖書の教えとは異なる中国古来の祭礼や祖先崇拝を認めていました。
一方、ドミニコ会とフランシスコ会は、そのようなイエズス会の教えは、カトリックの教えに反すると非難、カトリックのローマ教皇もイエズス会を非としたことから、皇帝の康熙帝はローマ教皇と対立、結局、イエズス会だけが中国で伝道が認められ、康熙帝は、その認定のしるしとして、イエズス会の教会堂に飾る額に「敬天愛人」の文字を刻(こく)し贈呈したのです。
明治になり、英国留学から帰ってきた思想家の中村正直(まさなお)が、英国の牧師で思想家のサムエル・スマイルの「自助論」を翻訳して「西国立志編」として出版した本の中に「敬天愛人」という言葉が登場することになります。
以上より、「敬天愛人」を西郷隆盛が生み出した言葉ではないことがわかります。
中村正直は、キリスト教精神を要約した言葉として「敬天愛人」を使いました。
英国でキリスト教の影響を受けた中村正直は、後に、自ら、キリスト教の洗礼を受け、明治天皇にも洗礼を受けることを勧めた人物です。
西郷隆盛(1828年~1877年)は中村正直(1832年~1891年)とは同時代に生きた友人関係でしたから、英国留学を終えた中村正直に西欧事情やキリスト教について詳しく聞いたに違いありません。
おそらく、当時すでに、西郷隆盛は漢訳(中国語)聖書を読んでいたことが明らかになっていますから、自ら信奉していた陽明学(ようめいがく)を超えた真理が、聖書キリスト教にはあると感じ取ったのかも知れません。
「敬天愛人」の「天」がそもそも何を意味するのか、様々な意見がありますが、儒教で説く人間を超越した力とか法といったものではなくキリスト教の聖典である聖書が啓示する、「天」におられる天地万物の創造主(神)を指しているものと考えます。
カトリックでは、正に神を「天主」と呼び、日本ではキリスト教を「天主教」と言い、信者が集う建物を「天主堂」とも言いました。
無教会主義のキリスト者(クリスチャン)の内村鑑三は、西郷隆盛の「敬天愛人」の教えには、抽象的な神ではなく、人間に語りかけられる人格を持たれた創造主(神)の認識があることに驚きを隠していません。
陽明学という道しるべによって、人生を歩んでいた西郷隆盛は、聖書の真理と出合うことによって、それまで、漠然としていた「天」というものの実態がハッキリしたのでしょう。
それまで、知識として理解していた「天」が、西郷隆盛の前に、信仰の対象として現れたのです。
「敬天愛人」を簡単に説明すれば「天におられる父なる神を敬い(愛し)、隣人を愛する」ということでしょう。
そして、「敬天愛人」からすぐに思い浮かぶ聖書のことばは、マタイの福音書22章37節から39節に書かれているイエス・キリストのことばです。
正に、このイエス・キリストのことばを端的に表現しているのが「敬天愛人」なのです。
上記の中で登場する「康熙帝」と「中村正直」について簡単に触れたいと思います。
1661年に8歳で即位し、61年間にわたって統治した(在位1661年~1722年)、中国の皇帝でも最も長い統治期間であり、屈指の名君とされ「大帝」とも称されました。
彼は強健な体をもち、酒もタバコも飲まず、昼夜勉学に励み、キリスト教宣教師がもたらす西洋学術に非常に興味を持ち、幾何学、天文学、統計学など学んだと伝えられています。
1870年(明治3年)にサムエル・スマイルの「自助論」を翻訳して「西国立志編」の邦題で出版し100万部以上を売り上げ、福沢諭吉の「学問のすすめ」と並ぶ大ベスト・ロングセラーとなりました。
「自助論」の序文にある「Heaven helps those who help themselves」を「天は自ら助くる者を助く」と訳したのも彼です。
最後にマタイの福音書6:9をご覧ください。
私たち人間及び天地万物を創造された天にいます父なる神(創造主)を敬い、そして、隣人を愛することができますよう祈ります。
私たち人間が進化によって存在しているのではなく、聖書が啓示する創造主(神)によって創造されたことについて書いた過去のブログ「創造か、進化か」(全15回)を未読の方は、そちらも、ぜひご覧ください。
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hoshishusaku.hatenablog.com
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・・・・・
<参考資料>
百万人の福音(いのちのことば社)
詳説・世界史(山川出版)
西郷隆盛と聖書(フォレストブックス)
本名「馬場忠博」で投稿しているフェイスブックも宜しければご覧ください。
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https://bible-seisho.jimdo.com/
★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・天地万物の創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。
九転十起生
画像の本は、2年程前にブックオフで買いました。
九転十起生(きゅうてんじっきせい)は、2015年に放送されたNHK連続テレビ小説「あさが来た」のヒロインのモデル広岡浅子(1849年~1919年)のペンネームです。
広岡浅子は幕末、日露戦争、第一次世界大戦などの激動の時代を生き、炭鉱経営、大同生命創業、日本女子大学設立などに尽力しました。
単身炭鉱に乗り込み、護身用のピストルを懐に坑夫たちと起居を共にしたこともあり、男もためらうような冒険的事業に敢えて乗り出したので、しばしば狂人扱いされたという明治実業界の女傑です。
60歳を過ぎて聖書の真理に触れてキリスト者となり、精力的にキリスト教の伝道活動をしたようです。
画像の本「一週一信」は、浅子が最晩年の1917年(大正6年)1月25日から12月20日まで、「九転十起生」のペンネームで一週に一回キリスト者として寄稿した47本の評論をまとめたものです。
その当時の社会のありように苦言を呈したり、キリスト教界のありように歯に衣を着せずに叱咤激励する内容から、著者名を知らずに読んだならば、女性ではなく男性が書いた本だと思ったことでしょう。
この本の冒頭の「七十になるまで・諸言に代えて」を一部引用します。
「昔は一片の義侠心もしくは国家のためというだけの動機によって人の世話や世間のことに当たっていましたが、今後はすべて、個人のことも家庭のことも、また社会のこともことごとく、神の聖旨(みむね)ということを標準として致したい。
即ち神意に従って尽くすべきはあくまで尽くし、争うべきは断じて争う決心をしました。
而(しか)して神はこの老婢(ろうひ)をも捨て給わず、尊き福音伝道のために、これ日も足らぬほどに用い給うのであります。
他の俗事ならば、疲労も致すべきでしょうが、不思議にも神の御用のために働く身には、いよいよ新しき生命を加えられ、恩寵はいよいよ豊かになりゆくを覚ゆるのであります。
真にかくてこそ生まれし甲斐はありと感謝のほかありませぬ。
願わくは世の人々、暗きを捨てて光に充ちたるこの境地に入り、キリストと共に歩む喜びに一日も早く達せられんことを。・・・・・」
・・・・・
キリスト者でありながら、上記の文中の「神意に従って尽くすべきはあくまで尽くし、争うべきは断じて争う決心をしました。」という文面は、まさに「一代の女傑」と称えられた人に相応しい表現ですね。
九転十起生のペンネームは「人が七転び八起きというなら、自分は九回転んでも十回起き上がる人間になろう」という、逆境にあっても決してあきらめない彼女の強靭な精神力を最も的確に表現しているようです。
浅子の最後の病床を見舞ったキリスト者の山室軍平は、この名にふさわしい聖句として、「正しい者は七たび倒れても、また起きあがる。しかし、悪しき者は災によって滅びる」(箴言24:16)を選び、ともに朗読し祈祷(きとう)した。
重複しますが、旧約聖書・箴言24:16(口語訳聖書)を引用します。
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<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。
親が子を見捨てることがあっても
父母の愛を一身に受けて、すくすくと育ち成長する子供たちがいる一方、父母から虐待を受けている子供たちのニュースを、悲しいことに度々目にすることがあります。
親から見棄てられた子供たちの心の傷はどうしたら癒されるのでしょうか。
・・・・・
世界的な大衆伝道者ビリー・グラハム(1918年~2018年)は次のように彼の著書に書いています。
少し長くなりますが、一部引用します。
「地上の父親の中には、子どもたちが卑しむべき習慣に陥ったり、悪友の仲間に入ったりすると、その子どもたちに絶望してしまう者たちもいます。父親は、息子や娘に、家から出て行け、もうけっして帰って来るなと命令するかもしれません。他方のおいて、父親たちのうちには、そして母親たちのうちにすら、子どもが生まれないうちに、その子どもをほしくないと言い出す者もいます(中絶)。
私たちは、その生活が親の拒否によって傷つけられた若い人々、成人した人々を知っています。そのような人々がいやされる得る唯一の道は、その事実を受け入れ、その欠けているところを満たしていただくことを主にお願いすることです。
聖書には、『私の父、私の母が、私を見棄てるときは、主(神)が私を取り上げてくださる』(詩篇27:10)と記されています。
神は、けっして人間を見棄てられたことはありません。幾世紀にわたる探究の中で最も劇的なのは、神の愛と忍耐をもってする人間追求です。
人間が、エデンの園において、神のおきてを無視し、自分自身と神との間のコミュニケーションを破る道を選んだ時、神と人間の間に交わりをもつことはもはやできませんでした。なぜ、神とご自身の被造物の間のこの障壁が生じたのでしょうか。その原因は、一般の人々が理解していない神の特質にありました。神は、絶対的に『聖なる』お方なのです。
ずっと以前に、神はイスラエル人に、『あなたがたの神、主であるわたしが聖である・・・・・』(レビ記19:2)と言われました。
聖なる神は、私たちの悪から後ずさりされます。彼は罪を見ることがおできになりません。なぜならそれは、ご自身にとって醜く、いやなものだからです。人間は罪にけがれていたので、神は、もはや彼と交わりを持つことがおできにならなかったのです。しかしながら、神は私たちを愛しておられます。
私たち自身がどのようであろうと、それに関係なく、私たちを愛しておられるのです。
使徒ヨハネは『神は愛です』(ヨハネの手紙第一4:16)と言いました。
預言者エレミヤは、『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた』(エレミヤ書31:3)という神のおことばを引用しています。
別の預言者マラキは、「『わたしはあなたがたを愛している』と主は仰せられる」(マラキ書1:2)と言いました。・・・・・」
・・・・・
最後にビリー・グラハムのプロフィールをウィキペディアより一部引用します。
現代アメリカの最も著名なキリスト教の福音伝道師、牧師、福音派キリスト者。今まで生きた誰よりも多く世界中の人々に福音を語ったといわれる。
日本では1956年、1967年、1980年、1994年の4回にわたってビリー・グラハム国際大会が開催された。
(画像の本は数年前に古本屋で購入した「1980年ビリー・グラハム東京国際大会」の記録。)
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〈私の信条〉
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<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。
矢内原忠雄と内村鑑三
矢内原忠雄(1893年~1961年)は、旧制第一高等学校在学中に無教会主義の内村鑑三が主催していた聖書研究会に入門し、聖書の真理を探究したキリスト者です。
1951年から1957年までの2期6年間、東京大学の総長を務めました。
総長在職中の1952年に、学生劇団「ポポロ」公演にて摘発された私服警官のメモから警察による系統的な学内スパイ活動が露見し、東大側と警察が前面対決しましたが(東大ポポロ事件)、矢内原は総長として大学の自治と学問の自由を守るために毅然とした態度を取ったのです。
東大ポポロ事件は、日本において大学の自治に関する最高裁判所判例をもたらした事件であり、日本国憲法第23条に保障する学問の自由及びそこに含まれる大学の自治が問題となった事件として、法学部の学生や司法試験、司法書士試験、行政書士試験などの法律系の資格試験に挑む人たちが憲法を学ぶ際にテキストで必ず目にすることになる事件です。
矢内原忠雄は学者として数多くの書物を著わし、そして、聖書研究者としても数多くの聖書及びキリスト教関係の書物を著わしています。
数ある書物の中の一つ「内村鑑三とともに」の冒頭の「序にかえて・内村鑑三先生と私」を以下引用します。
「私は先輩や友人の多くと異なり、内村先生の内弟子であったことはない。すなわち、先生の雑誌の編集・校正・執筆等で先生をお援けしたことは一度もなく、講壇の『前座』をつとめたこともなく、先生から協力を命じられたことはない。私の処女作である『基督者の信仰』を聖書之研究社から出版してくださったのは異例の御好意であるが、それさえ内弟子的な関係とは異なる。私は一度も先生の家庭で食事を頂いたことはなく、先生の家の名物と言われた萩の餅を味わったこともない。私は意識的に先生から距離を置いて仰いでいた。それは私の性質にもよるが、また先生の仕事を煩わさないようにという遠慮から出たことでもあった。
こういうわけであるから、私は肉によって先生を知ることははなはだ少く、ただ畏れをもって先生から聖書の真理を学んだに過ぎない。そしてそのことは私にとって非常に益であった。私は先生の人柄につまずいたことは一度もなく、先生に対して批評的になったこともない。私は先生から聖書の真理と、それによって世に処する信仰的生活態度を学んだのであって、先生を学んだのではなく、先生の知識を蓄えたのでもない。
世には私をも先生の『高弟』の中に数える人がある。先生は先生の十二使徒を選ぶようなことはしなかったが、仮にそのようなことがあったとしても、私はその圏外にいた者である。実際において、先生は何人をも自己の高弟とせず、またどの弟子も先生の高弟をもって任じた者はいない。高弟意識のごときは先生とその無教会主義からは最も遠いものである。
一方ではまた、私のごときは内村鑑三の正統をつぐ弟子でない、と批評する人があるとのことである。正統の弟子とはどういう者を指すか知らないが、そういう思想自体が内村鑑三とその無教会主義にとっては異質的であろう。内村鑑三はその後継者をのこさず、その正統をつぐ者をあらかじめ定めておかなかった。われわれは内村鑑三の相続人ではなく、彼から教義も財産も弟子も何ものも継承しない。われわれは彼から教えられた聖書を、われわれ自身の霊性と知性によって学び、これをわれわれ自身の言葉によって人に伝える。われわれは彼から学んだものがあるとすれば、この何ものにもとらわれず、内村鑑三によってさえとらわれないところの、聖霊による自由な信仰的態度であると言えよう。
今や日本において内村ブームの兆候がある。無教会側だけでなく、教会側においても彼をかつぎ、あるいは全集を出版し、あるいは記念碑を建てる。内村の名義とその肖像写真と、欲しければみんな呉れてやる。われわれは内村の信じたイエスの福音をわれわれ自身の信仰として信じ、内村の戦った福音のための戦いを、われわれ自身の戦いとして戦うのみである。」
・・・・・
本日はここまでです。
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分かりにくい3人のヘロデ王
新約聖書の中には「ヘロデ」という名の王が3名でてきて、話の前後関係を分かりにくくしています。
実は、ヘロデという名の王が、親・息子・孫の3名が出てきて、皆「ヘロデ王」と呼ばれています。
「王」と言っても、ローマ皇帝から認められて、狭い地方をまかされていた者にすぎません。そういう意味の王です。
一番有名な「ヘロデ王」は最初のヘロデ王で、通称「ヘロデ大王」と呼ばれています。
近隣の民族のイドマヤ人ですから、ユダヤ人ではありませんでした。
ヘロデは、うまくローマ皇帝に取り入り、ローマ皇帝からユダヤ人の住む地方の統治を任されていました。
ちなみにアメリカのテレビドラマ「ROME(ローマ)」ではヘロデが多額の賄賂をローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス(オクタウィアヌス)に献上するエピソードが描かれていました。
このヘロデ王は非常に残虐な性格を持っていて、イエスをなきものにしようとして、近隣の幼児の虐殺を行なっています。
マタイの福音書2:16をご覧ください。
次にヘロデ大王の息子で「ヘロデ・アンティパス」という「ヘロデ王」がいます。
父のヘロデ大王が亡くなってから、ガリラヤ地方の統治を任された人です。
バプテスマのヨハネの首を切った残虐な王です。
イエスはこの「ヘロデ」のことを、「あの狐」と呼んでいます。
ルカの福音書13:32をご覧ください。
3人目は使徒の働き12章1節に出てくるヘロデ王ですが、これは「ヘロデ・アグリッパ一世」のことで、ヘロデ大王の孫にあたります。
使徒の働き12:1~2
要するに、「ヘロデ大王」の系図が複雑で、しかも代々同じ「ヘロデ」を名乗るものですから、非常にまぎらわしいわけです。
どのヘロデ王も、ユダヤ人にとっては、あまり良い王ではなかったようです(聖書検定公式テキストを参考)。
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先祖供養をしないと祟りがあるのか?
今日は8月15日(木)ですが、世間はお盆(旧盆)です。
お盆ということで先祖供養について考えてみたいと思います。
先祖供養をしなかったり、不充分だと病気になったり、祟り(たたり)があったりするのでしょうか。
ガンなどの病気になったり、事故で大怪我をしたり、子供が生まれなかったり(不妊)、とかく不運なのは、先祖供養をしないからだとか、先祖供養をすれば、病気が治り、開運に効果があるなどという人がいたり、新興宗教があったりします。
少し冷静に考えれば分かることですが、先祖供養をしなかったり、不充分だからということで、先祖が子孫を祟るなどということがあるわけがないことが分かるはずです。
すでに亡くなっている先祖である親が、先祖の自分を、子供が供養しないからということで、自分の子供に対して、ガンになるようにしたり、怪我がさせたり、不妊にさせたり、不幸が続くようなことをするはずがありません。
ところで、聖書は先祖供養について、何か書いているのでしょうか?
聖書は、先祖供養することを命じているのでしょうか。
聖書には、「殺してはならない」「姦淫してはならない」などの戒めが書かれています。
実は、モーセの十戒は旧約聖書の五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)の中のあちこちに書かれている律法の戒め613のうちの一部なのです。
ここで613の戒めを書き出すことはしませんが、613の内の248の律法は、積極的にしなくてはならないことを命じています(積極的律法)。
そして、365の律法はしてはならないと禁じられているものです(禁止律法)。
この613の戒めを改めて読み、聖書全体を読んでみても、先祖供養をするように命じている箇所は見当たりません。
それどころか、申命記18:11には次のように書かれています。
このように聖書、つまり、創造主(神)は先祖の死者と交信をすることを禁じています。
聖書は死者よりも、今生きている父と母を敬えと明確に命じているのです。
出エジプト記20:12をご覧ください。
イエス・キリストはどのように語っているのでしょうか。
マタイの福音書22:36~39をご覧ください。
613の律法の戒めの中で重要な第一の戒めは旧約聖書・申命記6章5節に書かれているものです。
第二の戒めは旧約聖書レビ記19章18節に書かれているものです。
本日はここまでです。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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モーセの墓
本日は2019年8月13日(火)ですが、世間ではお盆休みで故郷に帰省して、お墓参りをしている方も多いことでしょう。
お盆は先祖の霊があの世から帰ってきて子孫の人々と共に過ごすとされています。
しかし、このお盆は旧盆と新盆によって時期が異なります。
先祖の霊は、旧盆と新盆のどちらの時期を選択して、あの世から帰ってくるのでしょうか、先祖の霊も大変ですね。
そもそも先祖とはいつの時代の先祖でしょうか、100年前、500年前、1000年前、5000年前、すべての先祖の霊がお盆にこの世に帰ってくるのでしょうか。
今生きている子孫が日本全国に散らばっていたり、外国に住んでいる場合は、どの子孫のもとに帰るというのでしょうか。
人によっては、お盆休みなどなくて、忙しく働いている人たちも多いのに、わざわざ、先祖がこのお盆の時期に限って霊として、この世に帰ってきても、忙しく働いている子孫と過ごすことなど、そもそも出来ません。
私は、聖書を学ぶ前から、上記のようなことを考えていて、お盆の風習及び先祖の霊が帰ってくるなどということを信じたことがありません。
いずれにしても、聖書にはお盆に先祖の霊がこの世に帰ってくるなどということはもちろん書いていません。
ですから私はお盆に墓参りすることもないのです。
さて、本日のブログの本題に入ります。
奴隷状態にあったイスラエルの民をエジプトから連れ出し(出エジプト)、創造主(神)から十戒が刻まれた石の板を授けられたモーセは120歳で亡くなったのですが、このモーセの墓がどこにあるのか誰一人として知りません。
申命記34:5~8をご覧ください。
注目すべきは、モーセは120歳であっても目がかすまず、気力も衰えていなかったにもかかわらず、主(神)の命令によって死に、人の手で葬られたのではなく、主(神)によってモアブの地の谷に葬られたのです。
そして、モーセの墓を知った者は誰一人としていないということです。
ところで、主(神)がモーセを葬ったと書かれているのですが、新約聖書・ユダの手紙9節には次のように書かれています。
この箇所について、新改訳聖書の注解書では次のように説明されています。
「御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて悪魔と論じて言い争ったとき」とは、
「偽典『モーセの昇天』からの引用。モーセが死んだとき、(天使)ミカエルはその死体を埋葬するよう神から遣わされたが、悪魔は、モーセが人を殺したことがあるので(出エジプト記2:12参照)、自分に引き渡すよう主張して、両者の間に争いがあったという記事に基づく。」
出エジプト記2:12
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御使い(天使)のかしらミカエルや悪魔(サタン)について知りたい方は、「天使、サタン、悪霊」というタイトルで全18回にわたって書いている過去ブログをご覧ください。
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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・天地万物の創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。