カトリックとプロテスタントの違い(その3)
本日は全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の組織のローマ・カトリック教会について説明したいと思います。
カトリック(catholic)とはギリシア語のkatholikosに由来する形容詞で、「普遍的、公同の」万人のためのという意味です。
普遍性の中心をローマに置くことからローマ教会とも呼ばれる。
日本ではCatholic Churchをかつて「公教会」と訳し、組織名として「天主公教会」「日本天主公教教団」といった名称が使われていました。
なお、「天主」とは「神」のカトリック訳です。
そして、カトリック聖堂を「天主堂」とする表現も使われていました。
ローマ・カトリック教会の組織は、イエスの12人の使徒(弟子)の一人であるペテロの後継者とされるローマ教皇を頂点に一般信徒を底辺とする位階制度(役職制度)によって秩序づけられています。
位階(役職)は「司教」と「司祭」と「助祭」の三つがあります。
「司教」は各教区の長として司祭と信徒を指導し教える責務を負っています。
司教の中でもローマ司教のローマ教皇が世界のカトリック教会の最高権威者として教会全体を統治しています。
三つの位階とは別にローマ教皇の相談に応じる顧問的役割を負っている「枢機卿」(「すうききょう」又は「すうきけい」)がおり、枢機卿にはローマ教皇の選挙権が与えられています。
一般的に「神父」と呼んでいいる「司祭」の役割は主に説教、ミサ(聖体祭儀)、洗礼(入信)、ゆるしの秘跡、冠婚葬祭の式の執行などです。
「助祭」は小教区において司祭の補佐を果たし、司祭同様に説教、洗礼の授与、結婚式の司式、教会の運営に携わります。
さらに「修道士(ブラザー)」や「修道女(シスター)」がカトリックにはいます。
修道士は「清貧、貞潔、従順」の三つの誓願をして、自分自身を全面的に神に奉献(ほうけん)する人たちのことです。
修道女も修道士と同じく三つの誓願をして、キリストに従って祈りと活動を行う人たちです。
なお、修道女は学校奉仕としてミッションスクールで勉強やキリスト教について教えたり、医療奉仕として病院や養護施設などで活動しています。
<参考>
カトリックの司祭である神父と修道士・修道女がいるのは、ローマ・カトリックだけではなく、東方正教会(ギリシア正教会、ロシア正教会など)にもいます。
牧師と呼ばれる人はプロテスタントにしかいませんが、すべてのプロテスタントの教会に牧師という役職があるわけではありません。
<余談>
ローマ教皇の顧問的役割を負っている「枢機卿」が登場する10年ほど前の海外テレビドラマ「ザ・チューダーズ(THE TUDORS)背徳の王冠」をご覧になりましたか?
チューダー(又は「テューダー」)朝第2代のイングランド王ヘンリー8世を描いたテレビドラマです。
当時イングランドで権勢を振いローマ教皇の座を狙っていた枢機卿のトマス・ウルジーや「ユートピア」の著者として有名なトマス・モアなども登場し見応えのあるドラマでした。
時代はルターの宗教改革から程近い年代でもありローマ・カトリックとプロテスタントのせめぎ合いも描かれていて興味深い内容になっていました。
未視聴の方はレンタル・ショップでDVDを借りてご覧になってはどうでしょうか。
<注意>第1話は面白くありませんでした。しかし、第2話から俄然面白くなります。
第1話は辛抱して観てください。第2話から必ず面白くなりますから!
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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・天地万物の創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。
カトリックとプロテスタントの違い(その2)
聖書が啓示している天地万物の創造主(神)は偶像崇拝を厳しく禁止しています。
イエスの母マリアを聖母としてマリア像を造り、あるいは殉教の死を遂げたキリスト者を聖人として像を造り、これらの像を崇めることは偶像崇拝にならないのかというデリケートな問題があります。
イエスの母マリアを無垢の聖母として尊崇(そんすう)するローマ・カトリックの風習を「マリア崇敬(すうけい)」といいます。
プロテスタントは聖書のみの教理に立ち、聖書を創造主(神)の至上のことばとしての聖書を信じる立場からローマ・カトリックの「マリア崇敬」が非聖書的であるとするスタンスです。
さらに、「ローマ」をつけない広義の「カトリック」に含まれる「東方正教会」には「イコン崇敬」があります。
イコンとは聖母マリア、聖人などの絵画像のことです。
イコンは東方正教会の信徒にとって文字通り「聖なる」画像であり、聖堂はもとより各家庭に安置されて尊敬と礼拝の対象とされています。
中でも、いわゆる「ウラジーミルの聖母」はロシア革命前のロシアでは聖画として最高の尊敬を集めていたようです。
↓ ウラジーミルの聖母
私は何らかの像が金、銀、銅、木などどんなもので造られようと、あるいは紙、板、壁などに描かれようと崇拝(礼拝)の対象も崇敬の対象もするつもりは一切ありません。
しかし、「マリア崇敬」や「イコン崇敬」をする人たちを批判するつもりは決してありません。
ただ、私のスタンスとしては「マリア崇敬」「イコン崇敬」に否定的です。
誤解して欲しくないのは、マリアや聖人などの像自体、イコン(聖画像)自体を否定しているのではなく、像や聖画像の対象とされている人間(或いはヘビ、龍、鷹などの動物)を崇拝(礼拝)することが偶像崇拝に当たると考えるので否定的なのです。
<注釈>
ローマを中心とする西方教会は自らを「カトリック教会」(カトリックとは「普遍、公同」の意)と呼んで、ローマ教皇を中心とする教会の組織を固めたのですが、これに対して、東ローマ帝国の皇帝を首長とする東方教会は、自らを「正教会」すなわち正しい教理を受け継いだ教会と呼んで対立し、西方教会のローマ教皇と東方教会のコンスタンティノポリス総主教とが相互に相手を破門し、1054年に両教会は分裂しました。
元来一つであるべきキリスト教は、まず二つに分裂し、さらに16世紀におけるプロテスタントの宗教改革によって三つに分裂し、今日に至っています。
「正教会」は、東方正教会、ギリシア正教会とも呼ばれ、コンスタンティノポリス総主教を名誉的なトップとし、ギリシア正教会、ロシア正教会、グルジア正教会、ブルガリア正教会、セルビア正教会、ルーマニア正教会、日本正教会といった、諸々の独立正教会・自治正教会が連合体を形成しています。
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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・天地万物の創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
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<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。
カトリックとプロテスタントの違い(その1)
本日から数回(いまのところ何回になるか不明)にわたり、カトリックとプロテスタントの違いについて説明します。
外形的、つまり見た目の違いでカトリック教会かプロテスタント教会かを見分ける。
まず十字架にイエス像があるかないかの違い。
主に十字架に磔(はりつけ)されたイエス像があるのがカトリック、無いのがプロテスタント。
↓ プロテスタントの十字架
教会内部や教会内の敷地にマリア像や聖人像があるのがカトリック、無いのがプロテスタント
<注>偶像礼拝との関係で像の有無は問題視されることがありますが、別途近日中にブログで説明します。
主に教会を主催する人を「神父」と呼ぶのがカトリック、「牧師」と呼ぶのがプロテスタント。
テレビなどでドラマ制作者が両者の違いを認識していなくて、十字架に磔のイエス像があるカトリック教会の神父を出演者に「牧師」と呼ばせていることもあったりするようです。
カトリックの司祭の神父は原則独身ですが、プロテスタントの牧師は妻帯が原則許されている。
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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
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・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
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<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。
宗教改革(その6・最終回)
人間が「救われる」ためには、善行をしたり、徳を積んだり、滝行をしたり、千日回峰行をしたり、お百度参りをしたり、日本国で定められている法律のすべてを守ればよいのでしょうか。
つまり、何らかの外形的な行為をすれば「救われる」のでしょうか。
すでに当ブログでも確認したようにカトリック教会が発行していた「免罪符」を購入するという行為をすれば「救われて」天国に行くことができるなどと現代社会では誰も信じることはないでしょう。
マルティン・ルターが再発見した真理の基となる新約聖書・ローマ人への手紙3:28をもう一度見てみたいと思います。
人が救われるためには、法律(律法)を完璧に遵守したり、善行などの行いによるのではなく、主イエス・キリストを信じる信仰が全てなのです。
続いて新約聖書・エペソ人への手紙2:8~9をご覧ください。
この聖書箇所は聖書が教える創造主(神)と人間との関わりの中で最も重要なところです。
聖書に啓示する創造主(神)および主イエス・キリストに背を向けた状態のままで信じる信仰がなければ、いくら数多くの善行をしようが、偽りの神にお百度参りしようが、救われることはないのです。
人間が何かしらの行為をしたことへの対価として「救われる」のではなく、「信仰」と神からの「恵み」によって「救われる」のです。
もう一度書きます。
聖書は「救いは神の恵みのゆえに、ただ信仰によるのであり、行いによって救われるのではない」と教えています。
何故、善行などの「行い」をしても救われることにならないのか、上記のエペソ人への手紙2:9に書かれているように行いをしたことを「だれも誇ることのないため」なのです。
聖書に啓示された創造主(神)は人間の「誇り、高ぶり、おごる心」を嫌います。
ビジネスの才能を誇る、知的能力を誇る、美貌を誇る、運動能力を誇るなど、いずれも人間を創造された創造主(神)が授けた賜物によるのであって、何一つ人間に誇るものなどありはしないのです。
善行をすることも、善行をすることができる能力を授けたのも創造主(神)の賜物だからです。
話の次元が違うのを承知で、次のことを考えていただければ「救いが、人間の行いではなく、神の恵みと信仰による」ということもある程度は理解していただけるのではないでしょうか。
例えば、皆さんの目の前に二人の青年がいると仮定します。
一人は皆さんの子供でも何でもない他人ですが何の欠点もない品行方正で隣人にも親切な善い行いをする青年です。
もう一人の青年は過去から現在まで繰り返し過ちを犯して親兄弟に迷惑をかけ家出をして遊び歩いていた皆さんの息子が心の底から反省してボロボロになって家に戻って来たのだとします。
どちらの青年が皆さんは愛おしいですか?
品行方正で隣人に善行をする青年が愛おしいですか。
答えは明らかですね。
親である自分の元に戻って来た息子が愛おしいに決まっています。
いくら品行方正で善行をしていても偽りの神を崇拝(偶像崇拝)している人間よりも、聖書に啓示されている父なる神は、父なる神に背を向けている人間が悔い改めて天地万物の創造主の存在を認め、信じてご自分のもとに帰ってくることを願っているのです(新約聖書ルカの福音書15:11~32の放蕩息子のたとえ話をアレンジ)。
聖書の教えを理解するためには、天地万物が偶然に存在するようになったのではなく、つまり、進化などでは絶対なく、目に見える物はもちろん目に見えない物も、ありとあらゆる全てのものである天地万物を創造された創造主(神)が間違いなく存在することを明確に認識し、そして、信じることが何よりも必要なのです。
天地万物の創造主(神)の存在を明確に信じることができれば、聖書の難解な箇所も自ずと理解できるようになるはずです。
逆に天地万物の創造主(神)の存在を明確に信じることができなければ、聖書に書かれている内容が理解出来ず当然心の琴線に触れることもなく、聖書が神話・作り話あるいは単なる道徳書に過ぎないものとなってしまいます。
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・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
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★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。
宗教改革(その5・カルヴァン)
フランス人のジャン・カルヴァン(1509年~1564年)は、若い頃パリでマルティン・ルターの教えに接した宗教改革の第2時代の人物であり、宗教改革の完成者とも目されている人物です。
カルヴァンが歴史の脚光を浴びるのは1533年のニコラ・コップ事件です。
親友のニコラ・コップがパリ大学学長になり11月に新学年の開講演説をしました。
演説内容は主に硬直化したローマ・カトリック教会を批判したものだったのです。
頑冥(がんめい)な神学者たちはニコラ・コップを高等法院に訴え出たので、コップは難を逃れるためにスイスのバーゼルに旅立ちます。
そもそもコップの演説草稿をカルヴァンが書いた可能性があるといわれています。
コップとの関係を疑われたカルヴァンもパリを脱出することになるのです。
1535年1月頃にカルヴァン自身もコップのいるバーゼルに赴き、この地で執筆に精を出し翌年の1536年3月に主著「キリスト教綱要」の初版本を出版します。
この初版本はわずか6章という少ないものでしたが、後に数度にわたって大幅に書き直されて、1559年の最終版では80章からなる大部な著作となりました。
また、スイスのジュネーブでも活動したカルヴァンは1559年に創設された神学校のジュネーブ大学の創設者でもあります。
<カルヴァンとミカエル・セルヴェトゥスの火刑事件>
ミカエル・セルヴェトゥス(1511年~1553年)はスペイン出身の高名な医者で血液の「肺循環」の発見者だけでなく、数学、地理学、天文学、神学に通じたルネサンス期のミニ万能人でした。
彼は1531年弱冠20歳にして「三位一体の誤謬(ごびゅう)について」をドイツで出版しました。
「三位一体」は一人の神という本質の内側に父(神)、子(キリスト)、聖霊の三つの位格があるという考えであり、カトリック、プロテスタント両派共通の絶対に揺るがせない教理です。
しかしセルヴェトゥスは三位一体については聖書のどこにも書かれていないと主張し、カトリックと宗教改革派の双方から異端の烙印を押されることになります。
1553年にセルヴェトゥスは「キリスト教復元」を出版しますが、この書のタイトルは意識的にカルヴァンの「キリスト教綱要」に対比させているのです。
「綱要」とは手引きを意味していたのに対して、「復元」は逸脱・堕落したキリスト教を復元しようという意味をもたせています。
「キリスト教復元」が出版される前からカルヴァンとセルヴェトゥスとのあいだでは文通がなされていて、カルヴァンはセルヴェトゥスの主張をまったく認めることはありませんでした。
1546年2月にフランスの宗教改革者ギョーム・ファレル宛の手紙の中でカルヴァンは次のように書いています。
「セルヴェトゥスが最近、手紙を寄越しました。その手紙と一緒に、精神が錯乱したような幻想による、大きな本がきました。それは大ボラを吹いて自慢していました。この本には驚嘆すべきこと、聞いたこともないことが書いてあると言うのです。もしわたしが同意すれば、かれはこちらに来るとも約束します。しかし、かれの身の安全を保障するわたしの言葉をかれに与えることは望めません。なぜなら、もしかれが来れば、生きたままかれを去らせることは決してないでしょう。」
セルヴェトゥスは1553年4月に異端として火刑の判決を下され投獄されます。
その後脱獄をしたりもしますが、結局、再度逮捕投獄され1553年10月に異端として火刑に処せられました。
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<参考文献>
・キリスト教の本(学研)
ブログアップは月曜日・木曜日の週2回です。
次回は1月21日(月)にアップします。
本名「馬場忠博」で投稿しているFBも宜しければ覗いてみてください。
↓ ↓
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・天地万物の創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
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・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
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私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。
宗教改革(その4・プロテスタントとは)
本日は「プロテスタント」と「プロテスタント主義」について書きます。
まず、プロテスタントについて説明します。
プロテスタントは新教徒ともいいます。
1517年マルティン・ルターの宗教改革宣言以来、貴族などのドイツ諸侯の中で宗教改革派に投ずる者が続々と現れました。
1529年にドイツ南部の帝国都市のシュバイエルで開かれた帝国議会が神聖ローマ帝国の皇帝カール5世の名において宗教改革を否定したため、宗教改革派諸侯が抗議書(プロテスタティオ)を出したことから、プロテスタントという名称が生まれました。
<注釈>「神聖ローマ帝国」は現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家。
↓ 神聖ローマ帝国の皇帝カール5世
続いて、プロテスタント主義について説明します。
プロテスタント主義は、16世紀(1500年代)にルターやカルヴァン(次回のブログで取り上げます)によって行われた宗教改革の流れをくむキリスト教です。
ルターの宗教改革は免罪符販売を非難し、カトリック教会によるキリスト教信仰の歪曲(わいきょく・誤った教え)に抗議するということでしたが、ルター自身当初はカトリック教会の外に出ようとは考えていませんでした。
しかし、教皇の権威を否定する発言をするなどしてカトリック教会を破門されたことは前回のブログで書いたところです。
なお、プロテスタント主義(Protestantism)の言葉の中にある「Protest」という動詞には「抗議する」という意味と「告白する」あるいは「公言する」という意味もあります。
現在プロテスタント主義には数々の教派が全世界に存在し、ローマ・カトリック教会、東方正教会と並んで3大キリスト教のひとつを形成しています。
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宗教改革(その3・カトリックを破門されるルター)
宗教改革の時代的背景として、カトリック教会の腐敗のほか、国民文化の隆盛、民主主義思想の伝播、商工業都市の発生、貴族階級の奢侈(しゃし・贅沢)、農民への不当な課税、飢饉による不安等の社会的事情があげられます。
マルティン・ルターがローマ教皇庁を訪れたとき、教皇庁の腐敗を目の当たりに見て、ローマ・カトリック教会に対する疑いを強くし、「もし地獄というものがあるとすれば、ローマ・カトリック教会はその上に建てられているに違いない」と語ったといわれます。
このような背景があったものの、宗教改革の直接の原因はマルティン・ルターの聖書研究に基づく新約聖書ローマ人への手紙3章28節の「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」という真理の再発見し、「人はただ信仰のみによって義とされるのであって(これを「信仰義認論」という)、その信仰のよりどころは聖書以外にない(これを「聖書主義」という)」という信仰原理をルターが確信したことによるのでしょう。
「書籍印刷なくして宗教改革なし」とはしばしば言われることですが、グーテンベルグが発明した活版印刷が普及しだしたこともあり、ルターの95箇条の命題はわずか2週間で全ドイツに知れわたり、ローマ教皇に反抗する折からの国民感情に投じたため、市民、農民、騎士は一致してルターを支持しました。
1519年7月にドイツのライプチヒでルターはカトリック教会の代表的神学者ヨハネス・エックと論争した際に教皇の権威を否定する発言をして、カトリック教会と決定的に対立することになります。
その後教皇レオ10世はルターの主張に対して1520年にカトリック教会を破門すると脅迫する破門威嚇勅書を出し、所説の撤回を求めたのです。
この年にルターは八継ぎ早に書物を出し積極的に教会の改革に踏み込んでいくことになります。
この時に出された書物が、後年に宗教改革三大論文と言われるものですが、以下の書物がそれです。
「キリスト教会の改善について」と「教会のバビロン捕囚について」と「キリスト者の自由」です。
教皇から渡された破門威嚇勅書をルターは焼き捨て、1521年ついにカトリック教会を破門されたのです。
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